第41話 仕掛け
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十四日目。
精製の合間に——賢治は、ナディアに頼んでいたものを受け取った。
空の小瓶。六本。VDと同じ形状、同じ大きさの小瓶。中身は入っていない。
「何に使うんだ、これ」
「予備だ。精製中に瓶を割ることがある」
「——割ったことなんかあったか?」
「最近は手が震えてる。割る前に予備を持っておきたい」
ナディアは三秒間、賢治を見た。信じていない目だった。だが——それ以上は聞かなかった。
小瓶を受け取って、棚の奥に入れた。
夕方。ザハールが交代で帰った後——賢治は小屋の中で作業を始めた。
VDの小瓶を六本取り出した。今日の生産分から。ナディアの回収前に——六本を抜いた。代わりに空の小瓶六本に、棚の雑草から絞った無害な琥珀色の液体を入れた。色と粘度は——VDに似せてある。九日前から少しずつ調整していた草がこれだった。
本物の六本は——藁束の下に隠した。
ナディアが回収に来た。十八本。数を数えた。合っている。——中身が六本偽物だとは気づかない。色も粘度も同じだ。客が使えば——効かない。ただの苦い水だ。
客が苦情を言う。売人が確認する。不良品が出た。——どのルートで出たか、追跡が始まる。
賢治は精製を再開した。何もなかったように。
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十五日目。
ナディアに別の依頼をした。
「灰の商会のVD流通ルートを——全部教えてくれ。どの走り屋がどの地区を担当しているか」
「あんたが知ってどうする。精製に集中しろって言われてるだろ」
「品質管理だ。不良品が出たときに——どのルートで出たか追跡できるようにしておきたい」
ナディアは地図を持ってきた。第四環から第七環までのVD流通網。走り屋の名前と担当地区。
賢治は地図を見た。
東地区の担当は——走り屋のドミトリ。ザハールの孫がいる地区。
この名前を——覚えた。地図を返した。
回収のとき、ナディアが言った。
「VDの死者——増えてる。第六環で昨日もう一人。女だ。二十代の娼婦。高濃度版を使い始めて四日目で——心臓が止まった。四日だぞ。四日で死ぬ薬を——あたしたちは売ってる」
「……名前は」
「知らない。娼婦に名前なんか聞かない。——あんたは聞きたいのか。自分が作った薬で死んだ人間の名前を」
賢治は答えなかった。
ナディアは首を振った。
「第四環でも——VDが広まってる。商人の間で。昼間から目がとろんとしてる奴が増えた。仕入れの交渉中に突然笑い出す奴もいるらしい。——あたしの走り屋たちが売ってる商品で、街がおかしくなってきてる」
「ナディア。——やめたいなら、やめていい」
「やめてどうする。あんたが死ぬだけだ。ヴォルクが十八本を要求してる以上——流通を止めたら、あんたが殺される。あたしがやめても、別の誰かがやる。——やめる意味がない」
「意味がないか」
「意味がないんだよ。——だからあたしは走り続ける。意味がなくても」
ナディアが小瓶を抱えて出ていった。背中が——小さかった。
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翔太の視点。
第二環。守備隊訓練場。
午後の基礎訓練が終わった。翔太は木剣を壁に立てかけて、水場で顔を洗った。冷たい水が汗を流した。
腕が痛かった。バルドの指導は容赦がない。木剣の素振りを三百回。型の反復を五十回。翔太の腕は筋肉痛で上がらなくなっていた。
「おつかれー」
蓮が——訓練場の柵にもたれて立っていた。黒髪を片側に流した顔。目の奥に——いつもの薄い笑み。
「蓮。——見てたのか」
「ちょっとね。翔太、腕の振りが前より速くなってない? バルドの教え方、意外とまともだよね」
「まともっていうか——厳しすぎる。腕が上がらない」
「まあ、鍛えてもらえるだけマシっしょ。——ところでさ、翔太」
蓮が柵から離れた。翔太の隣に来た。声が——少し低くなった。
「最近、父さんから聞いた? 下の環で——変な薬が流行ってるって」
「変な薬?」
「なんか——紫っぽい液体の薬。使うとすごい気持ちよくなるらしいんだけど、やめられなくなって——死ぬ奴が出てるって。第五環と第六環で——もう何人か死んでるらしい」
翔太の手が——止まった。
紫っぽい液体。
父さんが——第七環で何かを作っていることは知っている。何を作っているかは——知らない。セレナを通じて届く手紙には、「元気だ。仕事をしている」としか書いてなかった。最近は——手紙も来なくなった。
「……その薬、なんて名前なの」
「名前は知らない。守備隊の中じゃ——『紫の雫』って呼ばれてるらしいけど。正式名称かどうかはわかんない。——第三部が調べてるって。グレゴールって調査官が担当してるらしい」
グレゴール。父さんの手紙に——その名前が一度だけ出てきたことがある。「気をつけるべき人間がいる」と。
「翔太。——大丈夫? 顔色悪くない?」
「大丈夫。——ただの筋肉痛」
「ふーん。——まあ、いいけどさ」
蓮が背を向けた。歩き出した。三歩目で——振り返った。
「翔太。お父さんのこと——心配してるんだったら、手紙書けば? セレナさん経由で届くんでしょ」
「……最近、セレナさんから連絡がないんだ」
「連絡がない? ——ふーん」
蓮の目が——一瞬、細くなった。何かを記録する目。翔太はそれに気づかなかった。
「まあ——忙しいんじゃない。じゃあね」
蓮が去っていった。
翔太は水場の縁に座った。
紫の雫。第五環と第六環で人が死んでいる。——父さんが第七環にいる。
関係があるのか。ないのか。
——考えたくなかった。
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賢治の視点。
十六日目の昼。
ザハールが三十分の離脱をした。いつも通り。東に向かった。
ザハールが戻ってきた。いつも通り——のはずだった。
だが——ザハールの足音が、微かに違った。いつもは音がしない。だが今日は——左足が石畳を叩く音が、ほんの少しだけ聞こえた。
窓から見た。ザハールの表情は変わっていない。だが——椅子に座るとき、ナイフの柄を削らなかった。膝の上に手を置いて、路地の向こうを見ていた。
何かあった。
何があったかは——聞かなかった。
夕方の精製が終わった後、賢治は小屋の窓から第七環の路地を見た。
路地の向こう——石壁に囲まれた小さな広場に、人影が見えた。三人。男が二人と女が一人。壁に寄りかかって——笑っていた。目がとろんとしている。手元に——琥珀色の小瓶。
VDの使用者だった。
第七環にまで——広がっている。VDの改良型が生産を始めてから二週間。もう、第四環から第七環まで——この街の下半分がVDに浸かり始めていた。
あの三人のうち——何人が、一ヶ月後に生きているか。
窓を閉めた。
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十七日目。
VDの不良品が流通に紛れた影響が——出始めた。
ナディアが来た。顔が険しかった。
「第五環のルートで——VDの不良品が六本出た。客が使っても効かない。苦情が来てる。売人が怒ってる」
「不良品か。——精製のミスかもしれない」
「ミス? あんたがミスするか?」
「手が震えてる。酒が増えてる。——精度が落ちてるのは事実だ」
「……ヴォルクに報告が上がるぞ。不良品は——ヴォルクの信用に直結する」
「わかってる」
ナディアが出ていった。
不良品六本。——第五環のルートで出た。東地区のルートではない。わざと外した。
だが——六本の本物は、藁束の下にある。
ナディアが去った後——賢治は小屋の中で、もう一つの作業をした。
今日の精製を十八本ではなく——二十本にした。二本を帳簿から外して、藁束の下に隠した。
帳簿外のVDが——八本になった。
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十八日目の夜。
交代の構成員が来る前——賢治はザハールに声をかけた。
「ザハール。昨日から——顔色が悪い」
「そうか。——年寄りの顔色なんか気にするな」
「柄を削ってない。——孫のナイフ、まだ途中だろう」
ザハールが——賢治を見た。
老人の目。だが——いつもと違う光があった。苛立ちではない。不安でもない。——もっと深い場所にあるもの。信じてきたものが揺らいだときの——動揺。
「蒸留師。——お前は、俺に何を聞きたい」
「別に。——ただ、あんたは毎日ここに座ってる。毎日俺を監視してる。毎日同じ椅子で同じナイフを削ってる。——それが昨日から止まった。何があったか——聞く権利は俺にはない。だが——気にはなる」
ザハールは答えなかった。
長い沈黙。路地の向こうで猫が鳴いた。
「……蒸留師。お前は——ヴォルクを信じてるか」
唐突な質問だった。
「信じてるか——というのは」
「あの男が——約束を守る男だと思うか」
賢治は——三秒間、考えた。
「ヴォルクは合理的な男だ。約束を守ることが合理的なら——守る。守らない方が得なら——守らない」
「……そうだな。——そういう男だ」
ザハールが——立ち上がった。椅子を畳んだ。
「交代が来る。——俺は帰る」
「ザハール」
「何だ」
「……柄、完成させろ。リーザが待ってるだろう」
ザハールの背中が——一瞬、止まった。
何も言わずに——路地を出ていった。
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賢治は小屋に戻った。
藁束の下から——帳簿外のVD八本を取り出した。
八本を並べた。蝋燭の光の下で。琥珀色の小瓶が光っている。
この八本は——ナディアの回収を通っていない。帳簿に載っていない。公式には存在しないVDだ。
賢治は紙を取り出した。ペンを持った。何かを書き始めた。数字と——日付。ザハールの監視シフトの時間帯と、VDの生産記録を並べたもの。
帳簿外の二十本分(偽物の六本+追加精製の二本×一日)が——全てザハールの監視時間帯に作られていることがわかる表。
書き終えた紙を——折りたたんで、藁束の下に入れた。
蒸留酒を飲んだ。二十一口目。
手の震えが止まった。
メモ帳は——開かなかった。
書けない計画は——頭の中にだけ置いておく。
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