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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第8話 品定め

 サンプルは三つ用意した。


 一つ目——ヴィオラ・ドロップの標準濃度。第六環で売っているものと同じ。


 二つ目——標準の三倍濃度。持続時間が長く、効果が深い。だが依存形成速度も三倍になる。


 三つ目——十分の一濃度。精神作用は微弱だが、鎮痛効果が残る。合法的な鎮痛剤として売れる。


 同じ原液から、濃度を変えるだけで三つの商品が作れる。ヴォルクに見せるのは品質だけではない。応用の幅だ。


 「この男は薬一つしか作れない職人」ではなく、「需要に応じて商品を設計できる技術者」であることを示す。それが賢治の値段を上げる。


 ナディアが三つの小瓶を布に包み、外套の内側に仕込んだ。


「……三種類も持っていく必要があるのか。一つで十分だろう」


「一つなら、ヴォルクは『これしか作れない』と思う。三つ見せれば、『まだ他にもあるのか』と考える。見せないカードがある方が、交渉では強い」


「あんたの頭の中、どうなってるんだ」


「製薬会社の企画会議で二十年揉まれるとこうなる」


 ナディアは何か言いかけて、やめた。


 二人は夜の第七環を出た。


 廃倉庫の中は、前回と同じ配置だった。


 木箱の机。油灯二つ。壁際のザハール。扉の横のマーラ。


 だが、一つ違う人影があった。


 ヴォルクの右後方。影が濃い壁際に、女が一人、立ったまま眠っていた。


 銀髪のハーフアップ。猫のように細い目が閉じている。小柄で——百五十五センチあるかないか。黒い外套が体のラインを隠しているが、だらりと垂れた腕の力の抜き方が異常だった。完全に脱力している。寝ているのか、意識がないのか。


 だが足の位置だけが違う。肩幅に開いた足は、いつでも動ける構え。寝ているように見せかけて——いつでも仕掛けられる体勢だった。


「イレーナだ」


 ヴォルクが視線の先を読んで言った。穏やかな声。いつもの笑み。


「暗殺が専門でね。人見知りだから、寝たふりをしてるだけだ。気にしないでくれ」


 気にするなと言われても、この倉庫の中にザハール、マーラ、イレーナが揃っている状態で気楽にしていられる人間は、たぶんヴォルクだけだろう。


「さて。——見せてもらおうか」


 ヴォルクが机に両手を置いた。太い指が、卓上を二度叩く。


 賢治はナディアから布包みを受け取り、三つの小瓶を机の上に並べた。


「三種類ある。濃度が違う」


 ヴォルクの細い目が、小瓶を見た。


 それから——右手を伸ばし、一つ目の小瓶を二本の指で摘まみ上げた。


 沈黙が落ちた。


 ヴォルクの目が閉じた。五秒。十秒。


 指先から情報を読んでいる。理刻——触覚系『精秤(せいしょう)』。触れた物体の重量を、ミリグラム単位以下の精度で量る能力。


 ヴォルクの目が開いた。


「……瓶の重量が4.2グラム。中の液体が0.031グラム。そのうち水分が0.029グラム。有効成分が0.002グラム」


「正確だ」


「前回、客から買い上げたサンプルは有効成分が0.0018グラムだった。こちらの方が純度が高い。0.0002グラム分だけ、不純物が少ない」


 賢治の目が微かに見開かれた。


 0.0002グラム——つまり0.2ミリグラムの差を、指先だけで検出した。


 地球の精密天秤でも苦労する精度だ。ヴォルクの理刻は「地味」どころではない。この男の指は、分析機器そのものだ。


 ヴォルクが二つ目、三つ目を順に量った。


「二つ目。有効成分0.006グラム。三倍濃度。——三つ目。0.0002グラム。十分の一」


 全て正確だった。


 ヴォルクが小瓶を机に戻し、賢治を見た。細い目の奥で、琥珀色が光っている。


「純度の差が0.2ミリグラム以内。ロットごとのブレがほぼゼロ。——この安定性は、異常だ。普通の薬師は、同じ材料から同じ薬を作っても、毎回2〜3割のバラつきが出る。あんたのには、それがない」


「毎回同じ工程で精製している。ブレる要素がない」


「だから恐ろしいんだ、あんたは」


 ヴォルクの声のトーンが、一段下がった。穏やかさは消えていない。だが、その下に——認識の修正があった。この男は今、賢治の脅威度を上方修正している。


「実演してもらう。——ゲオルグ」


 ヴォルクが名前を呼んだ。


 倉庫の奥から、男が一人連れ出された。マーラが腕を掴んでいる。


 三十代の男。目が虚ろで、顔色が悪い。両手が縄で縛られている。服は汚れているが、元は第五環の商人が着るような上等な布地だ。


「こいつはうちの元売り子だ。ヴィオラ・ドロップを横流ししてた。——あんたの客に直接接触して、上前を撥ねてた男だ」


 賢治はゲオルグを見た。


 男の目は恐怖に揺れている。だが同時に——別の光もあった。渇望。手が震えている。ヴィオラ・ドロップの禁断症状。横流ししていたということは、自分でも使っていたのだろう。


「こいつに投与しろ。標準濃度で」


 賢治は一瞬だけ迷った。


 迷ったのは倫理ではなかった。投与量の計算だ。この男の体重は推定六十五キロ。標準濃度で0.03ミリリットルが適量。多すぎれば心停止のリスクがある。


 小瓶の蓋を開け、ボールペンの先端に液滴を取った。


 ゲオルグの唇に近づけた。男は——自分から舌を出した。渇望が恐怖に勝っている。


 液滴が舌に触れた。


 三秒。


 ゲオルグの目が見開かれた。


 瞳孔が急速に拡大する。呼吸が深くなる。全身の筋肉が一瞬硬直し——弛緩した。


 男の顔に、恍惚が広がった。唇が緩み、目尻が下がり、首の力が抜けた。声にならない声が喉から漏れた。


 快楽に溶けている。


 三十秒ほどで、ゲオルグは床に崩れ落ちた。意識はある。だが立てない。立つ必要を感じていない。世界が全肯定されている。この男にとって、今この瞬間、何の問題もない。縛られていることすら幸福の一部だ。


 ヴォルクが立ち上がり、ゲオルグの前にしゃがんだ。


 男の顔を覗き込む。恍惚の表情を、穏やかな笑みで観察する。


「——効くまで三秒。持続は四分か五分。依存性は見ての通り」


 ヴォルクが立ち上がった。


 マーラを一瞥した。マーラが頷き、ゲオルグを奥に引きずっていった。


「契約成立だ、蒸留師」


 ヴォルクが手を差し出した。


 賢治はその手を握った。二度目の握手。前回より力が強かった。


「明日から本格的に動く。流通はこちらで整える。あんたは——」


「作ることに専念する」


「その通りだ。——ああ、そうだ。一つ、見せたいものがある」


 ヴォルクの声のトーンが変わらなかった。


 穏やかなまま。笑みも消えない。だが——空気が変わった。倉庫の中の温度が二度下がったような、そんな変化。


 壁際のザハールが目を開けた。ザハールだけは、何が起きるか知っているような目だった。


「ついてこい」


 廃倉庫の裏手に、もう一つの部屋があった。


 元は穀物の保管庫だったらしい。石壁に囲まれた狭い空間。油灯が一つだけ。


 その薄暗い光の中に——三つの椅子が並んでいた。


 三人が縛られていた。


 男。三十代。灰の商会の下級構成員の服装。顔は殴られて腫れ上がっている。


 その隣に、女。二十代後半。男の妻だろう。髪が乱れ、目が真っ赤に充血している。泣き腫らした顔。声が出ないのか、口がパクパクと動いている。


 そして——三つ目の椅子に、子供。


 七歳か八歳の男の子。母親と同じ色の髪。大きな目が恐怖で見開かれ、鼻水が垂れている。縛られた手が小さすぎて、縄が手首から半分ずり落ちている。


 賢治の足が止まった。


「こいつの名前はフェリクス。うちの運び屋の一人だった」


 ヴォルクが男の前に立った。穏やかな声。


「フェリクス。お前が赤牙のドラガンにも品物を流していたことは、三週間前から知っていた。泳がせていたのは、ドラガンがいくらで買っていたかを確認するためだ。確認が取れたから、もういい」


 フェリクスが何か喚いた。口の中に布が詰められていて、くぐもった声にしかならない。


「言い訳は聞かない。結果だけを見る」


 ヴォルクが振り返った。壁際に立っていたイレーナに目配せした。


 銀髪の女が——初めて目を開けた。


 猫目が薄暗い光を反射している。半開きの目は確かに眠そうだが、瞳の奥に光がない。人形のような目。感情の配線が、どこかで切れている目だった。


 イレーナが欠伸をしながら、右手を持ち上げた。


 床のイレーナの影が、音もなく伸びた。


 影が蛇のように床を這い、妻の椅子の脚に触れた。そこで止まった。


 妻の体が硬直した。声を出そうとしている。出ない。影に縛られている。


「ヴォルク」


 賢治の声が出た。自分でも予想しなかった。喉が勝手に動いた。


「——何のために、俺にこれを見せる」


「教育だ」


 ヴォルクの声は穏やかだった。笑みは消えない。


「あんたは頭がいい。だから言葉で伝えるより、見せた方が早い」


 ヴォルクがフェリクスの前にしゃがんだ。布を外した。


「フェリクス。最後に一つだけ聞く。——家族を巻き込んだのは、お前だ。それは理解しているか」


 フェリクスが泣いた。三十代の男が、子供のように泣いた。


「許してくれ——女房と息子は関係ない——俺だけでいい——頼む——」


 ヴォルクが立ち上がった。


「関係なくはない。お前の血を引く者は、お前の裏切りの種を引き継ぐ。根を断たなければ、芽が出る。——俺はな、蒸留師。雑草は根から抜く主義なんだ」


 ヴォルクがイレーナに頷いた。


 子供が最初だった。


 イレーナの影が子供の椅子に伸び、子供の影と繋がった瞬間——子供の体がびくりと跳ねた。


 音は聞こえなかった。影が喉を押さえている。小さな足がばたばたと空を蹴った。靴が片方脱げた。


 十秒で動かなくなった。


 母親が見ていた。目を逸らすことを影が許さなかった。


 口が開いている。声は出ない。目だけが——人間の目ではなくなっていた。


 フェリクスが椅子ごと暴れた。縄が手首に食い込み、血が滴った。


「やめろ! やめてくれ! 殺すなら俺を——俺だけを——!」


 ヴォルクは見ていなかった。背を向けていた。賢治の方を見ていた。


 穏やかな笑みで。


「蒸留師。あんたにも家族がいるんだったな」


 母親が二番目だった。


 三番目がフェリクス。


 全部で——一分もかからなかった。


 イレーナが欠伸をした。目を閉じた。壁にもたれて、また眠り始めた。


 マーラが無言で三つの椅子を片付け始めた。


 帰り道。


 賢治は路地の角で膝をついた。


 吐いた。胃の中身を全部吐いた。パンの残りと胃液が石畳に広がった。


 ナディアが横に立っている。何も言わない。


 三十秒ほど吐き続け、賢治は袖で口を拭った。


 立ち上がった。足が震えている。


「……ナディア」


「ああ」


「あの男は——正気だ」


 ナディアは頷いた。


「正気であれをやるから、怖い。狂人なら対処の仕方がある。だがヴォルクは正気で、合理的で、計算の上で家族ごと殺す。計算できる残虐は、計算できない暴力より始末が悪い」


 賢治は石畳を見下ろした。


 自分の吐瀉物が、月光で青白く光っている。


 あの子供の靴が脱げた音が、まだ耳に残っている。片方だけ脱げた、小さな靴。


「ナディア。あの男の檻の中で、俺たちは生きていく。そのことを忘れるな」


「忘れない。——あんたも忘れるな。あの男を出し抜こうとして失敗したら、次にあの椅子に座るのは、あんたの家族だ」


 賢治は答えなかった。


 第七環への道を歩き始めた。足取りは不安定だったが、止まらなかった。


 小屋に戻り、藁束の上に座った。


 メモ帳を開いた。


 手が震えていた。ペンが握れない。


 三分待った。震えが収まった。


 書いた。


 『契約成立。ヴォルクの理刻——精秤。精度は0.2mg以下。分析機器として極めて有用。  ** ただし、この男の本質は理刻にはない。**  ** この男の本質は——合理性だ。**  ** 合理性を武器にする人間の弱点は、合理性の外側にある。**  ** つまり——感情。この男が感情で動く瞬間を、見つけろ。**  ** それが、檻を破る鍵だ。』**


 ペンを置いた。


 あの子供の靴の音が、まだ聞こえている。


 だが——メモ帳は閉じなかった。次のページを開いた。


 『イレーナ——影操作系。制約:対象の影と自分の影を繋げる必要あり。光源がなければ影が発生しない。  ** → つまり、完全な暗闇では無力化できる可能性あり。要検証。』**


 三人の死体を見た直後に、殺した能力の弱点を分析している。


 その異常さに、賢治は気づいていた。


 気づいた上で、ペンを止めなかった。


 窓穴から夜風が吹き込んでいた。


 二つの月が、空の両端で静かに光っている。


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