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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第5話 銀貨の重さ

 ドリスという男は、賢治の想像とは違っていた。

 裏社会の人間というから、傷だらけの大男か、目つきの悪いチンピラを予想していた。

 来たのは、中肉中背の痩せた男だった。三十代半ば。頬がこけ、目の周りに深い影がある。髪は薄い茶色で、額の生え際が後退し始めていた。服は第六環の商人が着るような、それなりに仕立ての良い上着だが、袖口の擦り切れ方が貧しさを隠しきれていない。


 だが、目は違った。

 人を値踏みする目。会社員時代に何度も見たタイプの目だ。中間管理職の目。上からの指示を忠実に実行し、下を効率的に使い、自分はなるべくリスクを取らない——そういう人間の目。


「あんたが薬師か。思ったより——普通だな」


 ドリスは賢治の小屋に入り、藁束と土壁を一瞥して鼻を鳴らした。

 賢治は答えず、床の上に並べた陶器の欠片を示した。

 二十人分の抗菌剤。白い穂の草から抽出した有効成分を、一人分ずつ小さな陶器の破片に分けて盛っている。見た目は地味な透明の液体だが、一つ一つが賢治の理刻で分子レベルまで精製された純品だ。


「塗り薬だ。傷口に直接塗布し、清潔な布で覆う。化膿した切り傷なら三日で炎症が引く。内服ではない。飲むな」


 ドリスは陶器の一つを手に取り、鼻に近づけて嗅いだ。

 無臭。当然だ。有効成分以外の不純物は全て除去してある。匂いの元になる揮発性成分など残っていない。


「……匂いがしない」

「純品だからだ」

「他の薬師の薬は、大抵臭い。草の汁をそのまま煮詰めたような——」

「それは不純物だ。有効成分以外が混入している証拠であり、効果のムラと副作用の原因になる。俺のものは違う」


 賢治の声は平坦だったが、最後の一文にだけ、微かな硬度があった。

 二十年間、誰にも認められなかった男が、初めて自分の仕事の質を自分の言葉で主張している。それが「闇取引の売り文句」であるという皮肉を、賢治は自覚していた。


 ドリスは陶器を戻し、しばらく考える素振りを見せた。

 だが、目は既に決まっていた。品物を見る前から買うつもりで来ている。これは品質検査ではない。人間の検査だ。


「——いいだろう。銀貨二枚」


 ドリスが腰の革袋から銀貨を取り出した。

 二枚。

 ナディアが言っていた額より一枚多い。

 賢治は手を伸ばさなかった。


「一枚多い」

「色をつけた。次も頼むかもしれないからな」


 色をつける。日本の商慣習と同じ言い回しが、異世界の裏社会にもあるのか。あるいは、言語補助がそう翻訳しているだけか。

 どちらにせよ、意味は同じだ。この一枚は「好意」ではなく「紐」だ。受け取れば、次の注文を断りにくくなる。

 賢治は二枚とも受け取った。

 断る理由がない。紐がつくことは承知の上だ。重要なのは、紐を切るタイミングを自分で選べる状態を維持することだ。


「ありがたく」

「うん。——ところで」


 ドリスの目が変わった。

 中間管理職の事務的な目から、もう少し個人的な——欲を含んだ目に。


「薬師——いや、化学者だったか。あんた、薬以外のものも作れるのか」

「何が聞きたい」

「たとえば——気持ちよくなるもの」


 賢治は表情を変えなかった。

 予想していた問いだった。むしろ、初回の取引でこれを聞いてくるとは思っていなかった。もう少し後だと踏んでいた。


「第五環にも第六環にも、酒以外の『楽しみ』を求める客はいくらでもいる。特に金を持ってる連中はな。今出回ってるのは質の悪い草の煮汁ばっかりで、効きも悪けりゃ副作用もひどい。もし、純度の高い品を安定供給できる人間がいたら——」


 ドリスは言葉を切り、賢治の反応を窺った。

 賢治は三秒黙った。

 三秒は、考えているように見せるための間だ。答えは既に持っている。


「今は薬で手一杯だ」

「そうか。——まあ、急がないさ。気が変わったらナディアに言ってくれ」


 ドリスは銀貨の入った袋の口を締め直し、二十人分の抗菌剤を丁寧に布で包んだ。粗雑に扱わない。商品の価値を理解している男だ。

 入口の扉に手をかけ、最後に振り返った。


「いい品だった。うちの上も喜ぶだろう」


 「うちの上」。

 灰の商会のボス——ヴォルクを指しているのか、その下の中間幹部を指しているのか。どちらにせよ、今回の取引はドリス個人の判断ではない。組織として賢治を値踏みしに来ている。


 ドリスが去った後、ナディアが路地の影から現れた。

 取引の間、外で見張りをしていたのだ。


「聞いてたか」

「全部」

「どう思う」

「時間の問題だ。あいつは餌だ。反応を見て、上に報告する。次に来るのはドリスじゃない。もっと上の人間が来る」


 賢治は頷いた。

 ナディアと同じ結論に達していた。灰の商会は、小さな魚を泳がせてから網を投げるタイプの組織だ。今は自由に泳がせている。泳ぎ方を観察している。


「ナディア」

「何だ」

「あの『気持ちよくなるもの』——作れるか、と聞かれたら、どう答える」


 ナディアの黒い目が、賢治を真っ直ぐに見た。


「……作れるのか」


 賢治は答えなかった。

 だが、沈黙が答えだった。ナディアはそれを読んだ。


「作れるなら——金になる。銀貨の桁が変わる。ただし——」

「ただし?」

「戻れなくなる」


 ナディアの声は、いつもより低かった。

 この女が感情を見せることは滅多にない。だが、今の声には——警告の色があった。


「薬を売ってる間は、あんたはまだ『薬師』だ。人を治す人間だ。そっちに手を出したら、あんたは『毒師』になる。第七環の住人が見る目が変わる。客層も変わる。リスクも変わる。——私がそう言ったことは、覚えておいてくれ」


 賢治はナディアの目を見た。

 この女は、自分を止めようとしているのか。それとも、止めたという事実を残しておきたいだけなのか。

 おそらく後者だろう。ナディアは感情で動かない。だが「ここが分岐点だ」という判断は正確に下す。


「覚えておく」


 ナディアは頷き、闇の中に消えた。


 真夜中。

 賢治は小屋の藁束の上に座り、陶器の破片を手の中で転がしていた。

 ヴィオラ・ドロップの残滓。紫色の干渉光が、指の隙間からちらちらと覗く。

 甲虫四匹を狂わせた、あの液滴の名残。


 ——作れるかと聞かれたら。


 作れる。

 この掌の上に、既にある。

 問題は「作れるか」ではない。「作るか」だ。

 ナディアの言う通り、この一線を越えたら戻れない。薬師から毒師へ。治す者から壊す者へ。


 だが——


 賢治は銀貨二枚を取り出し、月光にかざした。

 銀の表面に刻まれた紋章。この世界の通貨。これが二枚あれば、第七環で一ヶ月は食える。

 しかし、美智子と翔太と葵を第二環から呼び寄せ、まともな生活をさせるには——銀貨二枚では話にならない。桁が二つ足りない。

 抗菌剤を売り続けて、いつ追いつく? 一年? 三年? 十年?

 十年かけて第七環の薬師で終わるのか。それとも——


 藁束の下から、もう一つの陶器を取り出した。

 メモ帳を開き、ヴィオラ・ドロップの分子構造を見つめた。

 インドール骨格。トリプタミン誘導体。フッ素化ピリジン環。

 このページに書かれた構造式が、金に変わる。家族を取り戻す金に。


 ——家族のためだ。

 ——美智子と翔太と葵を、あの黒木の支配下から引き離すために。

 ——そのためなら。


 賢治はメモ帳を閉じた。

 まだ決めていない。まだ、決めてはいない。

 ——だが、手は震えていなかった。


 翌朝。

 扉が叩かれた。三回ではない。遠慮がちな引っ掻くような音。

 翔太だった。

 月に一度と決めたはずの訪問を、また破っている。泥だらけのブレザーは前回と同じだが、右の袖口に新しい裂け目があった。訓練で破いたのか、それとも——


「母さんが、これ」


 また布包みだった。今度はパンではなく、果物と干し肉。

 賢治は受け取った。前回のように突き返す余裕は、もうなかった。空腹は思考を鈍らせる。鈍った思考で次の取引に臨むわけにはいかない。


「……父さん、なんか匂いが違う」


 翔太が鼻を動かした。

 賢治は一瞬だけ体が硬くなった。

 薬草の精製で、小屋の空気に微量の有機化合物が残留している。一般人には感知できない濃度だが、翔太の嗅覚が鋭いのか、あるいは——


「薬を作ってる。近所の人間に頼まれてな」


 嘘ではない。全部ではないが、嘘ではない。

 翔太は前髪の下から父を見た。何か言いかけて——やめた。


「蓮は」

「……別に」

「別に、か」


 翔太の袖口の裂け目を、賢治はもう一度見た。

 訓練でできた傷ではない。布の裂け方が違う。掴まれて引き千切られた跡だ。

 怒りが、腹の底で小さく燃えた。

 だがそれを表に出すことは、何の解決にもならない。今の賢治には、蓮を止める力がない。


「翔太。もう少しだけ待て」

「何を」

「——もう少しで、お前たちを迎えに行ける」


 翔太は答えなかった。

 振り返らずに、朝の光の中を歩いていった。長い影が路地に伸び、角を曲がって消えた。


 賢治は小屋に戻り、藁束の上に座った。

 手の中には、翔太が持ってきた果物がある。赤い皮の、林檎に似た果実。

 理刻で「視た」。果肉の糖度。ビタミンの含有量。そして——またあのフッ素化ピリジン環。この世界のあらゆる有機物に溶け込んでいる未知の分子。

 果物を一口齧り、メモ帳を開いた。

 昨夜見つめていたページ。ヴィオラ・ドロップの構造式。

 賢治はボールペンを取り、構造式の横に一行だけ書き足した。

 『製品化に向けた濃度調整——開始。』


 その文字は、翔太の袖口の裂け目と同じくらい、静かに、確実に、何かを引き裂いていた。


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