第4話 第七環の女
「取引がしたい」
ナディアは単刀直入だった。
井戸端での名乗りの後、賢治を人気のない路地の裏に引っ張り込み、土壁に背を預けて腕を組んだ。褐色の腕は細いが、手首の腱が浮いている。力仕事をしてきた体だった。
「あんたは薬を作れる。私は売り先を知ってる。足すだけの話だ」
賢治は壁の反対側にもたれ、ナディアの目を見返した。
黒い目だった。計算と観察だけで構成された、余計な感情を含まない目。この女に愛想笑いは通じない。媚びも効かない。だから逆に話が早い。
「売り先というのは」
「第七環の住人。あんたが昨日作った薬——あの爺さんの脚を治したやつ。あれを欲しがる人間は、ここにいくらでもいる」
ナディアの目が路地の奥に向いた。
「第七環では毎月十人は傷口の腐りで死ぬ。子どもが多い。裸足で走り回って、汚水の溜まりで切り傷を作る。放っておけば腐って、脚を切るか、死ぬか。二択だ」
淡々とした口調だった。
悲しんでいるのではない。数字として把握しているだけだ。この女にとって、第七環の死者は「市場の需要」と同義らしい。
「医者はいない。薬師もいない。いたとしても、第七環の人間が払える金じゃ相手にされない。あんたの薬が唯一の選択肢だ」
賢治は黙って聞いていた。
ナディアの話し方には無駄がなかった。感情を排し、事実を並べ、結論に直線で向かう。会社の会議で一度も出会ったことのないタイプの話し方だった。黒木は威圧で話し、中井は笑顔で話し、賢治は沈黙で話した。ナディアは情報で話す。
「対価は何で払う」
「銅貨。もしくは物々交換。食料、布、道具。第七環じゃ現金より現物のほうが価値がある」
賢治は壁から背を離した。
「一つ聞く。お前は何者だ」
ナディアは一拍置いた。計算の時間だろう。どこまで明かすか、どこから隠すか。
「情報屋。第七環で、誰が何を持っていて、誰が何を欲しがっているかを知っている。それを繋ぐのが仕事だ」
「組織は」
「ない。一人でやってる」
嘘ではないと、賢治は直感した。
この女の目には「上に報告する」類の曇りがない。自分の判断だけで動いている人間の目だった。
「……条件がある」
「言え」
「俺が作ったものの成分を、誰にも教えるな。製法も、材料も。客に渡すのは完成品だけだ。俺の名前も出すな」
ナディアの薄い唇が、ほんの僅かだけ動いた。笑みとは呼べない微かな変化だったが、少なくとも表情筋が反応した。
「薬師ってのは、そういうもんか」
「化学者だ。薬師じゃない」
「この世界じゃ同じだ」
ナディアが手を差し出した。
褐色の掌。爪は短く切り揃えられている。
賢治はその手を見た。
握手をすれば、もう後戻りはできない。
いや——もう後戻りできないことは、藤原の傷口に薬を塗った時点で確定していた。あの行為が「証明」になった。佐伯賢治には薬を作る力がある。その情報は、第七環という狭い世界の中で、既に走り始めている。
ナディアが知っているなら、他にも知っている人間がいる。利用しようとする者もいるだろう。
ならば、最初に手を組む相手は自分で選ぶ。
賢治は手を握った。
ナディアの手は乾いていた。汗をかかない女だ。
「明日から始める。まず抗菌剤を三人分」
「材料は」
「小屋の裏に生えてる白い穂の草。名前は知らん。それと水」
「それだけ?」
「それだけだ」
ナディアの黒い目が、初めて——ほんの一瞬だけ——驚きの色を見せた。
すぐに消えたが。
最初の「取引」は、翌日の夕刻に成立した。
客は第七環の西側に住む労働者の男だった。名前はゴラン。荷運びを生業にしており、五日前に荷崩れで脛を切った。傷口が化膿し、歩けなくなりつつある。歩けなくなれば仕事ができない。仕事ができなければ死ぬ。第七環の生活とは、そういう直線的な構造だった。
ナディアがゴランを連れてきた。
賢治はゴランの顔を見なかった。傷口だけを見た。
膝下の内側、脛骨に沿って七センチほどの裂傷。周囲に赤い腫れ。膿の色は黄色。感染は表層に留まっている。藤原のケースより軽度だ。
抗菌剤を塗り、清潔な布——ナディアが調達した麻布を煮沸したもの——で包帯を巻いた。
「三日で歩ける。化膿が引くまで一日二回、水で洗え。それだけだ」
ゴランが差し出した対価は、銅貨三枚と、干し肉の塊だった。
銅貨三枚。
佐伯賢治の、異世界での最初の収入だった。
三十九年の人生で初めて、自分の手で作ったものが、自分の名前で——いや、名前すら出さずに——対価に変わった。黒木の決裁も中井の口添えも要らない。能力を持つ者が作り、必要とする者が買う。これ以上ないほど原始的で、これ以上ないほど純粋な取引。
賢治はそのことを何とも思わなかった——と、自分に言い聞かせた。
手のひらの上の銅貨三枚が、ポロシャツのポケットの中で微かに温かかったことは、記憶から消した。
三日後。
ゴランの傷は治った。
その噂は、賢治の予想を超える速度で広がった。
第七環には娯楽がない。酒もない。夜になれば暗闇の中で翌日の食い扶持を心配するだけだ。だから「噂」の伝播速度が異常に速い。一つの情報が半日で第七環全域を駆け巡る。
「最外縁に腕のいい薬師がいる」。
その噂が流れた途端、ナディアの元に依頼が殺到した。
二日目——赤痢の初期症状を訴える老婆。賢治は別の植物から抗菌性フラボノイドを抽出し、経口投与液を作った。銅貨五枚。
三日目——原因不明の発疹に苦しむ子ども三人。同一の植物アレルゲンへの接触反応だと賢治は判断し、抗ヒスタミン作用を持つ化合物を第七環の外壁に生える苔から精製した。母親たちが泣きながら銅貨を寄せ集めた。足りなかった分は、ナディアが「次でいい」と言った。
四日目——労働中に指を潰した男。骨折は治せないが、鎮痛剤なら作れる。白い穂の草とは別の、根に鎮痛作用のあるアルカロイドを含む低木を見つけていた。
一週間で、賢治の小屋を訪れた患者は十一人に達した。
ナディアは全ての取引を管理していた。
誰が、いつ、何の薬を、いくらで買ったか。記録は紙ではなく、すべて頭の中にある。この女の記憶力は異常だった。一度聞いた数字を忘れない。一度見た顔を忘れない。第七環の三百世帯の家族構成を、ほぼ完全に把握している。
「あんた、よくそこまで覚えてるな」
「覚えてないと死ぬ。第七環じゃ、情報だけが武器だ」
それが、ナディアの生存戦略だった。理刻を持たず、戦闘力もない女が、第七環の最底辺で生き延びてきた方法。すべてを記憶し、すべてを把握し、知っていることそのものを価値に変える。
賢治は化合物を作る。ナディアは市場を作る。
歯車が噛み合い始めていた。
転移から二週間が経った夜。
賢治は小屋の藁束の上でメモ帳を開いていた。
売上の記録。原材料の在庫。患者リスト。そして——まだ誰にも見せていないページ。
ヴィオラ・ドロップの精製記録。
あの透明な液滴を、賢治はまだ一度も売っていない。甲虫での実験以降、追加の精製も行っていない。
急ぐ必要はなかった。まず「薬師」としての信頼を築く。基盤を作る。顧客を確保し、収入を安定させ、ナディアとの関係を固める。
その上で——次の段階に進む。
順序を間違えてはいけない。研究でも商売でも、焦った人間から脱落する。二十年間の会社員生活で、それだけは骨身に沁みていた。
扉を叩く音がした。ナディアだ。
この女は必ず三回叩く。短く、等間隔に。自分の来訪を最小限の情報で伝える叩き方。
「入れ」
ナディアが入ってきた。
いつもの無表情だったが、黒い目の奥に微かな緊張が走っていた。賢治はその変化を見逃さなかった。
「何かあったか」
「客がついた。——ただの客じゃない」
ナディアが壁にもたれ、腕を組んだ。
「明日、男が来る。名前はドリス。第六環の薬売りの下っ端だ。うちの噂を聞きつけて、大口の取引を持ちかけてきた」
「大口?」
「抗菌剤を二十人分。対価は銀貨。銅貨じゃない。銀貨だ」
銅貨と銀貨の換算率は、この二週間で把握していた。銀貨一枚は銅貨百枚に相当する。これまでの全売上を合わせても銀貨一枚に届かない。
だが、賢治が注目したのは金額ではなかった。
「第六環の薬売り。——誰の組織だ」
ナディアの目が、ほんの一瞬だけ動いた。
壁にもたれた姿勢は変えない。腕を組んだまま、低い声で答えた。
「確証はない。だが、たぶん——灰の商会」
名前だけは、この二週間で何度か耳にしていた。
第五環から第七環の裏経済を支配する犯罪組織。ナディアですら詳細を語りたがらない名前。
「第六環の薬売りが、わざわざ第七環の無名の薬師に二十人分の大口注文を出す。……不自然だと思わないか」
ナディアは頷いた。
「思う。だから言いに来た。品定めだ。あんたの腕を確かめに来てる。使えるなら取り込む。使えないなら——」
ナディアは言葉を切った。
言わなくてもわかった。
灰の商会が「使えない」と判断した人間がどうなるか。第七環の住人なら誰でも知っている。
賢治はメモ帳を閉じた。
考える時間は短かった。
断れば安全だが、成長も止まる。第七環の銅貨経済に留まる限り、いつまでも最底辺の薬師で終わる。
受ければリスクがある。だが——
「受けろ」
ナディアの眉が微かに上がった。
「理由は」
「いつか必ず接触してくる相手なら、こちらから条件を握れるうちに会っておくべきだ」
賢治の声は平坦だった。
ナディアは三秒ほど賢治を見つめ、それから小さく頷いた。
「……あんた、本当にただの薬師か?」
「化学者だと言った」
「化学者にしちゃ、肝が据わりすぎてる」
賢治は答えなかった。
肝が据わっているのではない。二十年間、黒木の下で潰されてきた人間は、「理不尽な力に直面すること」に慣れている。慣れているだけだ。慣れは勇気ではない。ただの鈍麻だ。
だが——鈍麻でも、動けるならそれでいい。
ナディアが出ていった後、賢治は藁束の下に隠した陶器の破片を取り出した。
ヴィオラ・ドロップの残滓が、月光の中で淡い紫色に光っている。
——まだ、出すときじゃない。
だが、そのときは近い。
賢治はメモ帳を開き、新しいページに書いた。
『灰の商会——要調査。規模、構成員、支配領域、資金源。 ** 敵か、客か、それとも——踏み台か。』**
第七環の夜は、いつも通り暗かった。
だが、賢治の小屋の中だけは——ボールペンの走る音が、止まらなかった。




