第3話 最初の蒸留
化学において、「蒸留」とは混合物を加熱し、沸点の差を利用して成分を分離する操作を指す。
人類が数千年かけて磨き上げた、最も原始的で、最も確実な精製技術。
だが、佐伯賢治には炉もフラスコもない。
あるのは、指先と、二十年分の知識と、この世界の誰にも理解されなかった理刻だけだった。
それで十分だった。
転移六日目の朝。
賢治は小屋の裏手で、夜哭き菫を摘んでいた。
素手では触れない。昨日、試しに茎を握った右手の人差し指と中指は、今も微かに痺れている。
接触性の神経毒だ。皮膚から浸透し、末梢神経のナトリウムチャネルに作用する——そこまでは昨日のうちに「視て」確認した。
今朝は、小屋にあった藁束から繊維を引き抜き、即席の手袋を編んだ。不格好だが、直接接触さえ避ければ問題ない。
製薬会社の研究室で、試薬を素手で触る人間はいない。賢治は二十年間、そのルールを一度も破らなかった。異世界でも同じだ。
安全管理は化学者の呼吸である。
七本の夜哭き菫を摘み、小屋に持ち帰った。
土間の床に並べる。紫色の茎が、窓穴から差し込む朝の光を受けて、暗い宝石のように鈍く光った。
さて、と賢治は藁束の上に腰を下ろした。
問題は——この理刻を、どこまで制御できるか。
昨日までの段階で確認できたこと。
一、対象に意識を向けると、分子構造が「視える」。これは分析機能。
二、鑑別で水晶球に触れたとき、空気中の分子が「層のように分離した」感覚があった。これが本来の分離機能。
だが、二の機能は一度しか発動していない。水晶球という触媒があったからか、それとも自力でも使えるのか。
確かめるしかなかった。
一本目の夜哭き菫を手に取った。藁の手袋越しでも、茎の冷たさが伝わる。
意識を集中する。
指先に、あの引力を呼び込む。血液が逆流するような、鑑別のときに感じた、あの——
——来た。
指先が、震えた。
夜哭き菫の茎の内部が、分子の階層ごとに「展開」されていく。
セルロースの骨格。その隙間を流れる維管束液。液の中に溶解した数十種類の有機分子。テルペン。アルカロイド。フラボノイド。そして——あのインドール系のトリプタミン誘導体。
視えるだけではなかった。
掴める。
分子の一つ一つに、意識の「指」が届く感覚。セルロースの長鎖を「掴んで」横にずらすと、維管束液だけが茎の断面から滲み出してきた。
賢治は息を止めた。
滲み出した液を、さらに「分ける」。テルペンを左に。アルカロイドを右に。水分子を下に。
指先の上で、目に見えない仕分けが行われていく。
速い。
地球の実験室なら、カラムクロマトグラフィーで半日かかる分離が——指先の感覚だけで、秒単位で進んでいく。
気づけば、右手の人差し指の先に、微量の液体が残っていた。
他の成分はすべて分離され、藁の手袋に吸い込まれるか、空気中に散った。
指先に残ったのは——トリプタミン誘導体の、純粋な一滴。
賢治はその液滴を見下ろした。
透明だった。
夜哭き菫の紫色は、実は別の色素分子——アントシアニンに似た化合物——の色であり、精神作用を持つ本体は無色透明だった。
だが、光の加減で、液滴の表面に微かな紫色の干渉光が走る。
まるで、シャボン玉の表面に浮かぶ虹のように。
ただし、この虹は——人を壊す虹だ。
賢治はその液滴を、小屋の隅に置いた欠けた陶器の破片の上に落とした。
一本目の夜哭き菫から得られた純粋な有効成分は、針の先ほどの量だった。
残りの六本からも同じ作業を繰り返す。
二本目。三本目。四本目。
作業のたびに、精度が上がっていく。手が覚えるのではない。脳が覚える。分子の「手触り」を、理刻を通じて神経が学習していく。
五本目を処理し終えた頃には、最初の三倍の速度で分離できるようになっていた。
七本すべてを処理し終えたとき、陶器の破片の上には——小指の爪ほどの量の、透明な液体が溜まっていた。
これが。
佐伯賢治が異世界で最初に精製した、純粋な化合物だった。
達成感は、なかった。
代わりにあったのは、研究室で新しい合成ルートを確立したときと同じ、冷静な確認作業への欲求だった。
——性状を確かめたい。溶解度は。安定性は。そして何より、生理活性の強度は。
だが、ヒトで試すわけにはいかない。
少なくとも、今は。
賢治は液滴をそのまま陶器の上に置き、小屋の外に出た。
二つの太陽が空の両端に分かれて昇っている。第七環の朝は、排水溝の悪臭と子どもの泣き声で始まる。日本の住宅街の朝とは何もかもが違う。
何もかもが違うのに、人間が朝にやることだけは同じだった。起きて、食べて、排泄して、生きる方法を探す。
異変に気づいたのは、その日の昼過ぎだった。
共同井戸の前に、人だかりができていた。
転移者の中の一人——藤原健一が、地面に横たわっていた。丸い眼鏡が外れ、禿げかけた白髪が汗で額に張り付いている。穏やかだった顔が苦悶に歪み、普段は柔和な目が半開きのまま宙を見つめていた。あの転移初日、パニックを起こす理沙をなだめ、荷馬車で葵にタオルを貸してくれた老人。
その藤原の右足が、膝から下にかけて赤黒く腫れ上がっていた。
傷口から感染したのだ。
転移時の混乱で負った切り傷を放置した結果、この世界の細菌——地球とは異なる微生物叢——に感染した。第七環には医者も薬もない。清潔な包帯すらない。
藤原の額には脂汗が浮かび、呼吸は浅く速い。
敗血症の初期症状だと、賢治はすぐに判断した。製薬研究者は医者ではないが、感染症の病態くらいは知っている。
このまま放置すれば、あと二日保たない。
周囲の転移者たちが狼狽している。彩音が藤原の妻の肩を抱いている。大きな茶色の目が涙で潤んでいた。理沙が赤ん坊を片腕に、もう片方の手で藤原の額に水で絞った布を当てていた。長い黒髪が頬にかかり、垂れ目が不安に揺れている。
誰かが「第二環に行って助けを求めよう」と叫んだが、別の誰かが「門番に追い返されるだけだ」と返した。正しい。第七環の住民が第二環に立ち入ることは禁じられている。まして無能力の漂着者など、門前払いだ。
賢治は人だかりの後方に立ち、しばらく考えた。
——助ける義理はない。親しい間柄ではない。
——だが、この老人は荷馬車で葵にタオルを渡してくれた。
——そして何より、これは「実験」になる。
三番目の思考が浮かんだとき、賢治は自分の中の何かが、ひっそりと一線を越えたことを感じた。
人を助ける行為を「実験の機会」と認識する。
それは製薬研究者としては正常で、人間としてはおそらく——
考えるのをやめた。
考えている間に、藤原は死ぬ。
賢治は小屋に戻り、朝のうちに観察しておいた別の植物を取りに行った。
第七環の外壁沿いには夜哭き菫だけでなく、様々な雑草が生えている。その中に、白い綿毛のような穂をつけた地味な草があった。賢治の理刻で視たとき、その穂の繊維の中に、キノロン骨格を持つ化合物——地球の合成抗菌薬に極めて近い構造の分子——が含まれていることを確認していた。
この世界の植物が自然に合成した、天然の抗菌物質。
地球の製薬会社が何十億もかけて人工合成しているものを、路傍の雑草が勝手に作っている。
異世界というのは、つくづく皮肉なものだった。
白い穂を五本ほど摘み取り、小屋の中で分離作業に入った。
夜哭き菫のときと同じ要領で、穂の繊維から抗菌性化合物だけを抽出する。
今度は「毒」ではなく「薬」だ。
だが、やっている作業は同じだった。
分子を視て、掴んで、分ける。薬も毒も、手順は同じ。
違うのは、何を残して何を捨てるか——それだけだ。
十五分で抽出を終えた。
指先に残った液滴を、井戸水で薄めて陶器の欠片に移す。
藤原のもとに戻った。
人だかりは減っていた。助からないと悟った人々が、一人、また一人と離れていく。残っているのは彩音と理沙、そして藤原の妻だけだった。
彩音が賢治に気づき、少し驚いた顔をした。そばかすの散った顔に、微かな期待が浮かんだ。
「これを傷口に塗れ」
賢治は陶器の欠片を彩音に渡した。
彩音は怪訝な顔をした。当然だ。薄汚れたポロシャツの冴えないおじさんが、欠けた陶器に入った正体不明の液体を「塗れ」と言っている。信用しろという方が無理がある。
「何ですか、これ」
「抗菌剤。……のようなもの」
「は……?」
「化学の話は省く。塗れば菌が死ぬ。塗らなければ、この人は明後日までに死ぬ。選べ」
賢治の声は平坦だった。
説得も懇願もしなかった。会社のプレゼンで、黒木に企画を潰され続けた二十年間で学んだことがある。熱意で人は動かない。選択肢を与えて、結果の差を見せろ。
彩音は数秒迷い、唇を結んでから藤原の傷口に液体を塗った。理沙が横からガーゼ代わりの布切れを差し出した。
効果が出たのは、翌朝だった。
赤黒かった腫れが、明らかに引いている。膿の色が変わり、藤原の呼吸が安定していた。発熱も下がりつつある。
彩音が、信じられないという顔で賢治を見た。大きな茶色の目が丸くなっている。理沙も長い睫毛を瞬かせて賢治を見つめていた。
賢治は何も言わず、自分の小屋に戻った。
路地の角で、あの亜麻色の髪の少女——リナが、こちらを見ていたことに、賢治は気づかなかった。
転移七日目の夜。
小屋の中で、賢治は陶器の破片を見つめていた。
朝に精製した抗菌剤ではない。
昨日の朝、夜哭き菫から抽出した、もう一つの液滴。
透明な、針の先ほどの量の、インドール系トリプタミン誘導体。
これの生理活性を確かめなければならない。
ヒトで試すわけにはいかない。だが、この小屋には好都合な被験体がいた。
壁の隙間から毎晩侵入してくる虫だ。
体長五センチほどの、ゴキブリとカブトムシを足して割ったような甲虫。地球の昆虫とは明らかに異なるが、外骨格の内側に神経節を持つ構造は似ている。
賢治は一匹を捕まえ、陶器の破片の縁に残った液滴の、さらに百分の一程度の量を——ボールペンの先端で掬い取り——甲虫の口器に近づけた。
甲虫が液滴に触れた。
二秒間、何も起きなかった。
三秒目。
甲虫の脚が痙攣した。六本の脚が同時に伸びきり、背中が反り返り——そのまま硬直した。
死んだか、と思った瞬間、脚が弛緩した。
甲虫はゆっくりと立ち上がり、何事もなかったかのように歩き始めた。
だが、動きが違う。さっきまでの警戒心に満ちた挙動ではない。緩慢で、陶酔したような——
甲虫は、陶器の破片の縁に戻ってきた。
液滴の残りに、もう一度触れようとしている。
賢治は甲虫を陶器から引き離した。
甲虫は暴れた。賢治の指を噛もうとし、脚をばたつかせ——引き離されてなお、陶器の方向へ必死に這い戻ろうとした。
一分後、甲虫は動かなくなった。死んではいない。呼吸に相当する腹部の収縮は続いている。だが、四肢の力が完全に抜け、外骨格の色が微かに変色していた。
賢治は甲虫を床の上に放した。
もう一匹を捕まえ、今度は液滴をさらに薄めて与えた。
結果は同じだった。痙攣。弛緩。陶酔。そして——再投与への激しい渇望。
三匹目も同じ。四匹目も。
四匹の甲虫が、陶器の破片に向かって力なく這い寄る光景を、賢治は藁束の上に座ったまま、長い間、見つめていた。
昆虫と人間では神経系の構造が根本的に異なる。この結果がそのままヒトに適用できるわけではない。
だが——インドール骨格のトリプタミン誘導体が、異種の神経系にまで作用するという事実は、この化合物の生理活性が地球のどの既知物質よりも広域かつ強力であることを示唆している。
賢治は陶器の破片を持ち上げた。
窓穴から差し込む月光の中で、残された微量の液滴が、淡い紫色の干渉光を放った。
紫の、雫。
賢治はメモ帳を開き、ボールペンで三行だけ書いた。
『夜哭き菫抽出物。仮称——ヴィオラ・ドロップ。 ** 中枢神経作用。強い嗜好性(依存性)あり。** ** 薄めれば薬。濃ければ——兵器。』**
ボールペンをメモ帳の間に挟み、閉じた。
陶器の破片を藁束の下に隠した。
四匹の甲虫は、まだ陶器のあった場所に向かって這い続けていた。もう何もないのに。
賢治はその光景を見て、初めて——転移してから初めて——口元が歪んだ。
笑みではなかった。
恐怖だった。
自分が作ったものが、怖かった。
しかし、その恐怖の下に、もう一つの感情が眠っていることに、賢治は気づいていた。
名前をつけるなら——
高揚。
二十年間、何一つ自分の名前で世に出せなかった男が、生まれて初めて「自分だけの」化合物を作った。
誰の許可もなく。誰の名前も借りず。
黒木の決裁印もない。中井の横取りもない。倫理委員会の審査もない。
自分の手で、自分の力で、この世界の誰にも作れないものを——
作った。
その事実が、佐伯賢治という男の背骨を、一ミリだけ伸ばした。
翌朝。
藤原の容態を見に行くと、傷の腫れはほぼ消えていた。
藤原は目を覚まし、丸い眼鏡を手探りで掛け直しながら、賢治を見上げて弱々しく礼を言った。隣で付き添っていた妻が、何度も頭を下げた。彩音が目を赤くしていた。
賢治は「水を飲め」とだけ答えて、井戸の方に歩いた。
井戸の脇に、女がいた。
歳は二十代半ばか。転移者ではない。この世界の現地住民だ。
身長百七十センチ。赤みがかった黒髪を短く刈り上げている。褐色の肌。黒い目が鋭く、唇が薄い。笑っていない顔がデフォルトのような——隙のない女だった。
継ぎ接ぎだらけの麻の服をまとっているが、着崩し方に独特の美学がある。袖を肘まで捲り上げ、腰紐の結び方が兵士のそれに似ている。痩せているが、飢えた痩せ方ではない。無駄のない体。長い指が、何かを数えるように動いていた。
第七環の住民にしては目に光があった。飢えてはいるが、飢えに慣れている者特有の、乾いた強さ。
女は賢治を見ていた。
いや——賢治の指先を見ていた。
昨日、藤原の傷に薬を塗った指。
今朝、井戸水で洗ったが、微かな薬液の痕が爪の間に残っている。そんなものに気づく人間は、普通いない。
だが、この女は気づいた。
「——あんた、薬師か」
低い声だった。
質問の形をしているが、目は断定していた。
賢治は答えなかった。
女は一歩近づいた。
「あの爺さんの脚、昨日まで真っ黒だった。第七環じゃあの腫れは死ぬ。全員知ってる。なのに今朝、腫れが引いてた」
女の黒い目が、賢治の目を捉えた。
「あんた、何を作った?」
賢治は井戸の縁に手をかけたまま、動かなかった。
女の目を見返した。
飢えた目だった。だが、食物への飢えではない。もっと切実な、生き延びるための手段への——道具への——飢え。
この女は、第七環で「何か」をしている。
少なくとも、ただの貧民ではない。
賢治は三秒だけ考え、それから口を開いた。
「——名前は」
女は一瞬だけ目を細め、それから答えた。
「ナディア」
低い声で、必要なこと以外言わない口調で。
その名前を、賢治は後に何千回と呼ぶことになる。
だが、このときはまだ——ただの、井戸端の、名乗りだった。




