第2話 最外縁の泥と夜明けの植生
王都ラグナーラスには、七つの環がある。
そう教えてくれたのは、収容区画への護送を担当した若い兵士だった。
名前はトマス。年の頃は二十一歳前後。癖のある赤毛を無造作に束ね、顎が少し割れている丸顔で、目は明るい茶色。甲冑の胸当てだけが一回り大きい——先輩の装備を回されたのだろう——不釣り合いな姿が、新人であることを物語っている。上司の目を盗んでは転移者たちに話しかけてくる、人懐こい男だった。
「第一環が王宮。ここが一番内側で、王族と上位理刻持ちの文官が住む。第二環が貴族街。第三環が上級市民。で、あんたらが行くのは——」
トマスは気まずそうに口ごもった。赤毛の下の耳が少し赤くなっている。
「第七環。一番外側だ。……まあ、屋根はあるよ」
屋根はある。
その慰めが必要な時点で、行き先の水準は察しがついた。
鑑別の後、転移者たちは三つに分けられた。
理刻を発現した者——黒木親子と翔太の三名——は第二環の貴族街に仮住まいが用意された。その家族もそちらに帯同が許される。美智子と葵は翔太に付いていく形で第二環に入った。
トマスが道すがら教えてくれたところによると、上位理刻の持ち主には王宮から「任官」が下りるらしい。統治系の黒木剛には文官としての地位と執務室。攻撃系の蓮には騎士団への仮配属。防御系の翔太には王宮守備の見習い枠。 要するに——理刻の系統に応じた「使い道」が、最初から決められている。人間ではなく、能力を買われている。
黒木はその構造を三日で理解し、すでに第二環の貴族たちとの食事会に顔を出しているとトマスが苦笑していた。異世界でも、あの男の政治力は健在らしい。
賢治は——「等級外」という不可解な分類のまま、どちらにも振り分けられなかった。
能力はある。だが価値はない。
人間の世界で最も残酷な宣告は「無能」ではなく、「いてもいなくても同じ」だ。
賢治はそのことを、日本の会社で十五年かけて学んでいた。
結局、彼は「無し」の住民たちと一緒に第七環へ送られた。
理刻が発現しなかった約百名。園田彩音は大きな茶色の目を不安に揺らしながら隣の中年女性に寄り添い、水沢理沙は赤ん坊を片腕に、もう片方の手で荷物の入った袋を引きずっていた。藤原健一は丸い眼鏡を何度も押し上げながら、妻の手を引いて黙々と歩いた。三日前まで朝の通勤電車に揺られていた人々が、兵士に先導されて王都の外周に向かって歩いた。
環が外側に進むごとに、道の石畳が荒くなり、やがて剥き出しの地面に変わった。建物の壁が白から灰色へ、灰色から土壁へ。人々の服が清潔な布地から、継ぎ接ぎだらけの麻布に変わっていく。
そして、匂いが変わった。
第七環は——腐っていた。
下水の概念がない区画だった。
道の両脇に浅い溝が掘られ、そこに生活排水と糞尿が一緒くたに流されている。上を蠅とも蚊ともつかない虫が旋回し、建物の間に張られた物干し綱には、黒ずんだ布切れが力なく垂れ下がっていた。
現地の住民たちが、通りの隅から転移者の列を無言で眺めている。
その中に、痩せた少女の姿があった。十五歳くらいだろうか。くすんだ亜麻色の髪を顎の下で切り揃え、薄い緑色の目がやけに大きく見える。頬がこけ、骨格に対して顔の肉が足りていない。それでも目の奥に妙な光が宿っていた——飢えてはいるが、飢えに負けていない目。少女は賢治の列を追い、何かを計算するように唇を動かしていた。
名前は後に知る。リナ。第七環で生まれ、第七環以外の世界を知らない少女。
だがこのとき、賢治はその視線に気づかなかった。
敵意ではなかった。もっと乾いた感情——あるいは、感情の不在。新たな貧民が流入してくることへの、諦めきった無関心。
自分たちの食い扶持が減る、という計算だけが、彼らの暗い目の奥で静かに回っているのが見えた。
賢治に宛がわれたのは、第七環の最も外側——文字通りの最外縁にある小屋だった。
小屋、と呼ぶのも躊躇われる。
壁は日干し煉瓦を積んだだけで、接合材が劣化して隙間だらけだ。扉は朽ちた板を革紐で吊っただけ。窓は壁に穿たれた四角い穴で、ガラスはない。床は踏み固められた土。面積は六畳ほどだが、角に置かれた藁束が寝床らしい。
賢治は藁束を見下ろし、一つ試みた。
指先に意識を集中する。鑑別のとき感じた、あの引力。
——見えた。
藁の繊維構造が、分子レベルで「開いた」。
セルロースの長鎖が折り重なる配列。その隙間に入り込んだ有機物——獣の汗と皮脂、微量の尿素、そして複数の菌類の代謝産物。
要するに、この藁は前の住人の体液と雑菌で飽和していた。
賢治は藁束から手を離し、壁に背をもたれさせた。
土壁のざらつきが、ポロシャツ越しに背中を擦る。
天井の隙間から、琥珀色の夕空が細く覗いている。
——まあ、研究室の仮眠室も大概だったが。
あの三畳間のソファで背中を痛めた回数を思えば、藁束も大差ないかもしれなかった。大差ない、と思うことにした。そう思わなければ、この場所で夜を越せない。
ポケットの中身を床の上に並べた。
スマートフォン。もう充電は17%しかない。圏外のまま。しかし画面を点灯させると、ロック画面に設定した写真が映った。去年の夏、四人で行った花火大会。葵が金魚の袋を掲げて笑っている。翔太は端っこで仏頂面。美智子が賢治の腕を掴んで、ブレた笑顔を向けている。
賢治は画面を消した。17%を花火大会に使う余裕はない。
ボールペン二本。メモ帳。社員証。財布。ルーペ。
それが、佐伯賢治という人間の全財産だった。
三十九年の人生で積み上げた一切合切が、チノパンのポケットに収まる量。
笑えなかった。笑いたかったが、唇が動かなかった。
深夜——この世界の時間感覚はまだ掴めていないが、二つの太陽が両方とも沈み、空が濃い藍色に変わった頃——扉を叩く音がした。
叩く、というより、遠慮がちに引っかく音。
「……お父さん」
翔太だった。
扉の隙間から差し込む月光の中に、息子の輪郭が浮かんでいる。百七十八センチの長身が、暗闇の中では影絵のように細く見えた。泥だらけのブレザーの肩口が月光に白く浮き、前髪の下の目が光っている。手に布で包んだ何かを持っていた。
「母さんが。食べてって」
布を開くと、鑑別の場で上位理刻保持者に供されていた白いパンが二つと、干し肉が一切れ、名前のわからない果物が一つ入っていた。
あの灰色の配給パンとは明らかに別物だった。白くて、表面に微かな焼き色がついている。焼きたてではないが、人間が食べるために作られたパン。それだけで十分な贅沢だった。
賢治は受け取らなかった。
「持って帰れ。葵の熱はどうだ」
「下がった。母さんが薬草をもらったって」
「なら、それを葵に食わせろ」
翔太は動かなかった。
月光が制服のブレザーの汚れを青白く浮き上がらせている。三日前と同じ服。洗い替えなどない。靴は泥で固まっている。それでも息子は第二環からここまで——おそらく相当な距離を——歩いてきたのだ。
「……父さんは何食ったの」
「パンは配られた」
嘘だった。
第七環に到着して以降、配給は何もない。水は小屋の裏にある共同井戸から汲めるが、食料の支給は「月に一度」と宣告された通りだ。最初の一ヶ月をどう乗り切るかは、各自の問題とされていた。
翔太は父親の嘘を見抜いたのか、見抜かなかったのか。
黙って布包みを小屋の入口に置き、「明日も来る」とだけ言って背を向けた。
「——翔太」
「何」
「もう来るな」
息子の足が止まった。
「蓮がいるだろう。あの男の目の届く場所で、お前が第七環に通っていることが知れたら面倒になる。分かるな」
翔太は振り返らなかった。
拳を握る音が聞こえた。革靴の底が、乾いた土を踏みしめる音。
「——分かった」
足音が遠ざかっていく。
月光の中に細長い影が伸び、やがて闇に溶けた。
賢治は布包みを手に取った。白いパンを一つ齧った。
小麦の甘さが、舌の上で弾けた。日本の食パンに近い味だが、微かに酸味がある。天然酵母の発酵臭。バターではなく、獣の乳から絞った脂で練った生地。
一口ごとに、成分が「見えた」。グルテンの網目構造。デンプン粒の膨張痕。微量の塩化ナトリウム。そしてまた、あの——六角環にフッ素が結合した未知の化合物が、ppb単位でパンの中にも存在していた。
この世界の大気にも食物にも溶け込んでいる、地球には存在しない分子。
——この物質は何だ。
賢治は残りのパンを噛みながら、メモ帳とボールペンを取った。暗闇の中、ほとんど手探りで分子構造を書き殴る。六角環——おそらくベンゼン環に似た芳香環——にフッ素が三つ。ただし、環を構成する原子が炭素だけではない。一つが窒素に置換されている。
ピリジン環のフッ素化誘導体。
地球にも類似構造を持つ化合物は存在する。農薬や医薬品の中間体として。
だが、それが大気中に自然に存在するとすれば——この世界の生態系は、地球とは根本的に異なる代謝経路を持っている可能性がある。
賢治はパンの残りを飲み込み、メモ帳を閉じた。
窓の穴から、夜風が吹き込んでいた。第七環の排水溝の匂いを含んだ、生温い風。遠くで犬のような生物が吠えている。いや、犬ではない。吠え声の周波数が低すぎる。もっと大きな何かだ。
眠れなかった。
二つの太陽のうち、赤い方が先に昇った。
青白い方はまだ地平線の下にあり、空は片側だけが薄い朱色に染まっている。
奇妙な夜明けだった。世界の半分が朝で、半分がまだ夜。その境界線が、空の真ん中に一本の帯のように走っている。
賢治は小屋を出た。
眠れないまま藁の上で四時間ほど横になり、体は休まらなかったが、頭だけは妙に冴えていた。空腹のせいかもしれない。あるいは、昨夜から頭の中で回り続けている「あの構造式」のせいか。
小屋の裏手に回ると、土壁の基礎に沿って雑草が茂っていた。
いや——「雑草」と呼ぶには、あまりにも毒々しい色をしている。
紫だった。
茎も葉も、深い紫色。
地球の植物にはない色彩だ。アントシアニンの紫とも違う。もっと冷たい、鉱物的な紫。
花はつけていない。代わりに、茎の先端に半透明の液滴が一つずつ垂れ下がっている。朝露のように見えるが、色が微かに琥珀がかっている。
賢治はルーペを取り出した。
傷だらけのレンズを液滴に近づけ、同時に能力を使った。
意識を集中する。指先ではなく、目に。
鑑別のとき空気の成分が「見えた」のと同じ要領で、液滴の分子構造を「視よう」とした。
——視えた。
息が止まった。
液滴を構成する分子の群れが、視界の中で層状に展開されていく。
水分子の隙間に、三種類の有機化合物が溶解している。一つはテルペン系——植物の精油成分に多い構造。もう一つはアルカロイド——窒素を含む環状化合物。
そして、三つ目。
賢治の目が見開かれた。
インドール骨格。
トリプタミンの誘導体。
地球でこの骨格を持つ物質は——セロトニン、メラトニン、そしてLSDやシロシビンといった強力な精神作用物質の母体構造だ。
この植物の液滴には、ヒトの中枢神経系に直接作用しうる分子が、自然状態で含まれている。
賢治は液滴から目を離した。
ルーペを握る手が、微かに震えていた。
——これは。
周囲を見回した。同じ紫色の植物が、小屋の裏手だけでなく、第七環の外壁に沿って延々と群生している。
誰も見向きもしない雑草。いや、毒草だろう。現地の住民は近寄らない。小屋に残された前の住人の痕跡にも、この植物に触れた形跡はなかった。
賢治はトマスの声を思い出した。護送中、何気なく聞いた会話。
——ああ、あの紫い草か。「夜哭き菫」って呼ばれてる。触ると手が痺れるし、食ったら三日は正気に戻らん。家畜も避ける。ただの毒草だよ。
ただの毒草。
賢治は唇の端を、ほんの僅かだけ持ち上げた。
笑みではなかった。少なくとも、人に見せるための笑みではなかった。
三十九年間、一度も前に出ることなく、成果を奪われ、肩書で飼い殺され、異世界に放り出されて最外縁のゴミ溜めに棄てられた男の顔に浮かんだ、正体不明の表情。
メモ帳を開いた。
ボールペンで、夜哭き菫の分子構造をスケッチした。インドール骨格の5位にヒドロキシ基。側鎖にジメチルアミノ基。そしてその先に、この世界特有のフッ素化ピリジン環が結合している。
地球の化学で言えば——シロシビンとフルオロキノロンを足して、自然が勝手に合成したような構造だった。
賢治はメモ帳を閉じ、ポケットにしまった。
赤い太陽が壁の上に顔を出し、第七環の汚れた路地に長い影を落としている。排水溝の水面が朱色に光り、蠅が朝の光に驚いて一斉に飛び立った。
遠くから、起き出した住民たちの生活音が聞こえ始める。子どもの声。木を叩く音。水を汲む音。
共同井戸の前を通ったとき、あの亜麻色の髪の少女——リナが、木桶を引きずって水を汲んでいるのが見えた。細い腕で重い桶を持ち上げ、賢治の方を一瞬だけ見た。薄い緑色の目が、何かを値踏みするように動いた。だが声はかけず、そのまま路地の奥に消えていった。
そして、もう一つの太陽——青白い方——が、反対側の地平線からゆっくりと昇り始めた。
世界に、二度目の朝が来た。
賢治は小屋に戻り、藁束の上に座った。
メモ帳を膝の上に置き、ボールペンの先を唇に当てた。研究室にいた頃の癖だ。思考が加速するときに、必ずこうする。
整理しよう。
一、この世界の植物には、地球に存在しない生理活性物質が含まれている。
二、自分の理刻『微細分離』は、分離だけでなく、物質の分子構造を視覚的に把握できる——分析能力を兼ねている。鑑別官はそのことに気づいていない。
三、分離と分析が同時にできるということは——任意の植物から、任意の有効成分を、純粋な形で取り出せるということだ。
四、純粋な有効成分とは、すなわち——
賢治はボールペンを唇から離した。
——薬だ。
あるいは、毒。
製薬と毒物の違いは、本質的には投与量の差でしかない。パラケルススが五百年前に言った通りだ。
「すべての物質は毒であり、毒でないものはない。量だけが毒と薬を分ける」
鑑別官は言った。戦闘にも統治にも適性がない、と。
正しい。
賢治の理刻は、剣も振れず、人も従えられない。
だが、この世界の誰も知らない化合物を、この世界の誰にも作れない純度で精製できる男が——果たして本当に「無価値」か。
その問いの答えを、賢治はまだ口にしなかった。
ただ、メモ帳の白いページに、一つだけ書き込んだ。
『夜哭き菫——インドール系アルカロイド含有。精神作用。要精査。』
その文字を見下ろしながら、賢治は思った。
日本にいた頃は、研究テーマの一つも自分では選べなかった。黒木が決め、中井が発表し、賢治は実験台の前で透明人間のように働いた。
だが、ここには黒木の決裁印も、中井の横取りもない。
倫理委員会もない。薬事法もない。治験プロトコルもない。
何もない。
何もないということは——何でもできるということだ。
賢治はメモ帳を閉じた。
朝の光が、窓の穴から藁束の上に四角く落ちていた。
その光の中で、佐伯賢治の目だけが、暗く、静かに、燃えていた。




