第1話 異界の検分と選ばれし者たち
最初に感じたのは、土の匂いだった。
腐葉土でも花壇の土でもない。何千年も人間の足に踏み固められ、雨に叩かれ、獣の血を吸い、それでもなお乾ききった——そういう土の匂いだった。
佐伯賢治は仰向けに倒れたまま、ゆっくりと目を開いた。
三十九歳。身長百七十二センチ。中肉よりやや痩せ型で、肩幅が狭い。黒髪は寝癖がどこかしらについたまま、目の下には慢性的な隈が刻まれ、顎には薄い無精髭が伸びかけている。ヨレたポロシャツにチノパン、合成皮革のローファー。日本の郊外を歩いていれば誰の目にも留まらない、典型的な「冴えない中年の研究員」だった。
その冴えない男の目に映ったのは、見知らぬ空だった。
薄い琥珀色を帯びた夕暮れのような光が空全体に広がり、雲は鉛筆で擦ったように低く滲んでいる。
太陽が二つあった。
いや、正確には太陽のような光源が二つ。片方はやや赤みがかり、もう片方は青白い。その二つが地平線の反対側に沈みかけている。
——太陽が、二つ。
賢治は三秒ほどその事実を眺め、それから「ああ、これは駄目だな」と、まるで残業確定の通知を受け取ったときのような、諦めに近い感慨を抱いた。
周囲で悲鳴が上がっている。泣き声。怒号。子どもの叫び。
聞き慣れた住宅街の隣人たちの声が、見知らぬ荒野の乾いた空気に吸い込まれて散っていく。
賢治は上半身を起こし、ポロシャツについた赤茶けた土を払った。チノパンの膝が擦り切れている。今朝アイロンをかけたばかりだったが、もうそんなことはどうでもいい。
どうでもいい、という感覚が、このとき既に賢治の中で静かに発芽していた。
散乱していたのは、人と、モノだった。
冷蔵庫。洗濯機。テレビ台。
誰かの家のダイニングテーブルが脚を一本折って横倒しになり、その上にフライパンと弁当箱が転がっている。炊飯器から白米が半分こぼれ出し、赤い土の上で間の抜けた白を晒していた。
五メートルほど先で、ベビーベッドの柵が折れ曲がっていた。その隣で、長い黒髪の若い女性が赤ん坊を抱きしめて声もなく震えている。水沢理沙。二十八歳。三軒隣の住人で、半年前に第一子を産んだばかりだった。垂れ目がちの柔和な顔が恐怖で強張り、色白の肌が土で汚れている。赤ん坊は泣いてすらいなかった。泣く力も残っていないのかもしれない。
家屋の壁や柱は跡形もない。まるで巨大な手が家だけを摘まみ上げ、中身だけを振り落としたかのように、百二十人分の生活の残骸がおよそ二百メートル四方の荒野に散らばっていた。
賢治は立ち上がり、妻の名を呼んだ。
「美智子」
声は平坦だった。
感情を込めなかったのではない。込める余裕がなかった。
三十代後半の男の声帯は、極限の混乱下においても勝手に日常のトーンを維持する。それは生理的な防衛機制であり、十五年間の会社員生活で培われた、感情を殺す技術の賜物でもあった。
「賢治さん! こっち!」
聞き慣れた妻の声が、十メートルほど先から飛んできた。
美智子は葵を抱きかかえるようにして座り込んでいた。三十七歳。身長百五十八センチの小柄な体を丸め、肩までの黒髪を一つに束ねた横顔は泥で汚れている。大きな目が潤んでいたが、涙はまだ落ちていなかった。この女は、子どもの前では泣かない。それだけは知っていた。
葵がしがみついている。十四歳。母親似の丸い目に、黒髪のツインテール。今朝まで中学校の制服を着ていたはずだが、リボンがどこかで千切れ、ブラウスの肘が破けている。小柄な体が、小動物のように震えていた。
その後ろに翔太が立っていた。
身長百七十八センチの長身が、猫背のせいで縮んで見える。十七歳。前髪が長く、目を半分隠している。高校で一年半いじめを受けた後遺症で、人と目を合わせられない。制服のブレザーの袖で顔の土を拭いながら、無言で周囲を見回している。顔立ちは母親譲りで整っているが、本人にその自覚はまるでなかった。
十七歳の少年の目は、恐怖よりもむしろ困惑に満ちていた。父親に似て、感情の発露が遅いタイプだった。
「——怪我は」
「ない。大丈夫。でも、賢治さん、これ何。ここどこなの」
美智子の声は震えていたが、問いかけ自体は明確だった。
答えを求めている。しかし賢治に答えはない。
琥珀色の空を見上げ、二つの太陽を見て、荒野の地平線まで続く赤茶けた台地を見渡して、彼が出せる結論は一つだけだった。
ここは地球ではない。
発見されたのは、転移からおよそ六時間後だった。
巡回していたのは、鉄と革の甲冑をまとった騎兵の一隊だった。
馬に似た生物に跨っているが、体高が馬の倍近くあり、蹄の代わりに三本の爪がある。
賢治はそれを見たとき、「トリケラトプスの親戚みたいだな」と場違いな感想を抱いた。現実逃避だとわかっていても、思考は勝手に分類と観察を始めてしまう。研究者の性だった。
騎兵たちの言葉は、最初まったく理解できなかった。
しかし、その中の一人——小柄で、どこか疲れた目をした中年の兵士が、異なる発声法で話し始めた途端、意味が頭に流れ込んできた。
「——漂着者か。珍しいな、これほどの数は」
言語理解に際して何らかの魔法的な補助が働いているようだったが、賢治にはそのメカニズムを確認する余裕はなかった。
百二十人の日本人が異世界の荒野で怯えている光景は、騎兵たちにとっても想定外だったらしく、しばらく馬上で議論した後、「王都へ護送する」という決定が簡潔に下された。
異論を挟める者は誰もいなかった。
王都ラグナーラスまでの三日間の道程について、賢治は後にほとんど何も覚えていない。
覚えているのは、荷馬車の硬い木板が尻と腰に与えた鈍痛、支給された灰色のパンの信じがたい不味さ、そして美智子が一度も泣かなかったことだけだった。
葵は二日目に熱を出した。翔太は妹の額に水で絞った布を当て続けた。
同じ荷馬車に乗り合わせた園田彩音——二十一歳、近所の大学生——が、自分のカーディガンを葵にかけてくれた。小柄で、黒髪のショートカット。大きな茶色の目にそばかすが散り、怯えながらも他人を気遣う余裕を持っている。この状況で他人の子供に上着を渡せる人間は多くない。美智子が何度も頭を下げていた。
賢治は荷馬車の縁に腰掛け、流れていく異世界の風景——赤い台地、紫がかった低木の群生、遠くに見える黒い山脈——を眺めながら、自分のポケットに入っていたものを確認していた。
スマートフォン(圏外)、ボールペン二本、メモ帳、社員証、財布(日本円で三万二千円。この世界では紙切れ以下の価値)。
そして、白衣の内ポケットに入れたままだった小さなルーペ。
製薬会社の研究室では、急ぎの結晶観察のときに使っていた安物だ。
傷だらけのレンズ越しに、異世界の植生をいくつか覗いてみた。葉脈の走り方が地球の植物とは異なる。維管束に相当する組織が、螺旋ではなく網目状に広がっている。
興味深かった。
そしてその「興味深い」という感情が、この状況下において自分がいかに壊れているかを、賢治に静かに教えていた。
王宮は、白い石材を積み上げた巨大な建造物だった。
美しいとは思わなかった。
正確には、美しさを感じる神経が既に摩耗していた。
賢治の目に映ったのは、白い壁に走る微細な亀裂、石材の接合部に滲む赤錆のような鉱物の染み、回廊を吹き抜ける風が運ぶ獣脂と香草を混ぜたような独特の臭気——そういった「情報」だけだった。
鑑別の間は、王宮の東棟にある広大なホールだった。
天井は吹き抜けで、採光用の細い窓から差し込む光が、床の石に細い帯を刻んでいる。
ホールの奥に長い机が据えられ、そこに三人の鑑別官が座っていた。
中央は白髪の老人——ヴァルト。背が高く痩せた体を黒い法衣に包み、鷹のような目で転移者たちを見下ろしている。その左に壮年の女性——イリーナ。銀色の長い髪を高い位置でまとめ、切れ長の冷たい紫の目が印象的だった。整った顔立ちだが、口元の線が厳しく、美しさの中に近寄りがたさがある。右端に書記のマルコ。そばかすだらけの若い顔を強張らせ、羽根ペンを神経質に握っている。
いずれも胸に青く光る紋章を佩びている。
鑑別の目的は、護送中にトマスが教えてくれていた。
理刻——りこく。この世界の人間が稀に宿す、超常の力だ。肉体を硬化させる者、炎を操る者、他者の精神を支配する者——発現の形は千差万別だが、共通するのは、鑑別用の水晶球に触れたとき光が灯ること。光の色で系統が、強さで等級が決まる。 理刻を持つ者はこの国の特権階級に属する。持たない者は——ただの人間として扱われる。
漂着者にも理刻が発現する例があるらしい。だからこの鑑別がある。「使える者」と「使えない者」を振り分けるために。
百二十人の転移者は、番号を振られ、一人ずつ呼ばれた。
列の中で、賢治は四十七番だった。
四十七という数字に特別な意味はない。ただ、四十七都道府県と同じだな、と思った。どうでもいいことを考える癖は、追い詰められるほど加速する。
最初に鑑別を受けたのは、子どもや高齢者を除いた成人からだった。
一人ずつ鑑別官の前に立ち、ヴァルトが掲げる透明な水晶球のような器具に手をかざす。大半の人間は何も起こらない。水晶球は沈黙したまま、淡い光すら灯さない。
鑑別官は一言、「無し」と告げ、マルコが記録する。それだけだった。
八番で呼ばれた園田彩音が水晶球に手をかざしたとき、少女の大きな茶色の目が不安に揺れた。——光らなかった。彩音は唇を噛んで、右側の壁際へ歩いていった。
十五番。水沢理沙。赤ん坊を片腕に抱えたまま水晶球に触れる。光らない。理沙は何も言わず、長い黒髪を揺らして壁際に戻った。赤ん坊がようやく小さな声で泣いた。
無し。無し。無し。無し。
単調な宣告が繰り返されるたびに、ホールの空気が重くなっていく。
「無し」と言われた者たちは、右側の壁際に誘導される。そこに用意されているのは、板張りの長椅子と水差しだけだ。
食料はない。毛布もない。
彼らがこの国にとって何の価値もない存在であることを、その扱いが雄弁に語っていた。
二十三番目に呼ばれた男が、空気を変えた。
黒木剛。四十八歳。株式会社クロキメディカルの代表取締役社長。
身長百八十センチ。がっしりした体格に、広い肩幅。オールバックに撫でつけた黒髪には白いものが混じっているが、それすら威厳を増す装飾にしか見えない。顎が角張り、額が広い。人を見るとき、まず「使えるか使えないか」を値踏みする目。ネイビーのスーツは土と皺にまみれていたが、その佇まいは微塵も揺らいでいなかった。
転移という異常事態すら、この男のプライドには傷をつけられなかったらしい。
賢治はその背中を列の後方から眺めていた。
あの背中を、十五年間見てきた。会議室で。廊下で。叱責の最中に。
水晶球が、青白い光を放った。
ホールが静まり返った。
ヴァルト、イリーナ、マルコの三人が同時に立ち上がった。ヴァルトが水晶球を覗き込み、鷹の目を見開いた。イリーナが——それまで全ての転移者に同じ冷たい視線を向けていた女が——初めて敬語を使った。
「——『王律』系統。統治系理刻、上位第三等級。極めて稀有な発現です」
黒木は一切表情を変えなかった。
当然だ、と言わんばかりに鼻を鳴らし、「で、それは具体的に何ができる」と日本語で聞いた。
言語補助があっても、この男は相手の言語で話す気がないらしい。
イリーナは丁寧に説明した。
声に含まれる媚の色を、賢治は十五年かけて鍛え上げた「社内政治センサー」で正確に感知した。
権力者の前でだけ変わるあの声色——日本でもこの異世界でも、人間の本質は変わらないらしい。
二十六番目。黒木蓮。十七歳。社長の息子。
父より細身で、身長百七十五センチ。母親譲りの端正な顔立ちに、前髪を片側に流したヘアスタイル。女子にモテるタイプの顔だろう。だが整った顔に常に張り付いている薄笑いと、父親と同じ冷たい目の奥の侮蔑の色に気づく人間は——あまり多くない。
水晶球が今度は赤い光を放ち、鑑別官たちが再びざわめいた。
攻撃系理刻、上位第二等級。
親子揃っての上位発現に、ホールの空気が完全に二分された。光を宿した者と、宿さなかった者。選ばれた者と、弾かれた者。
蓮は鑑別台から降りると、父親の隣に立った。列に並ぶ転移者たちを一瞥し、口の端を歪めた。
「こんなとこでもウチが一番じゃん」
声は小さかったが、静まり返ったホールでは端まで届いた。
誰も言い返さなかった。この期に及んでも——あるいは、この期に及んだからこそ——社長の息子に逆らえる者は誰もいなかった。
三十三番。佐伯翔太。
賢治の息子が呼ばれたとき、賢治は反射的に拳を握った。
隣に立つ美智子が、彼の手首を掴んだ。力が強かった。
翔太は鑑別台に上がった。
泥だらけのブレザー。どこかで失くしたネクタイ。猫背気味の長身が前髪の影に隠れるように立つ。高校で一年半続いたいじめのせいで、翔太は人前に立つことを極端に嫌う。
その翔太が、百二十人の視線を浴びながら水晶球に手をかざした。
淡い、金色の光が灯った。
ヴァルトが息を吸った。
「防御系理刻、上位第四等級。……これも稀有な部類です」
賢治は息を吐いた。
安堵ではない。もっと複雑な、名前のつけようのない感情だった。
息子に力がある。それは良いことのはずだ。だが、「良いこと」の定義が、この世界ではまだ確定していない。
美智子が手首を離した。彼女の指の跡が、赤く残っていた。
蓮が翔太を見た。
品定めするような目つきだった。高校で翔太をいじめていたグループの中心人物が、あの目を——
賢治はそれ以上考えるのをやめた。考えても、今の自分には何もできない。
四十七番。佐伯賢治。
鑑別台に上がったとき、足元の石が冷たかった。
靴底が薄くなっている。三日間の徒歩移動で、合成皮革のローファーは限界を迎えていた。
水晶球に手をかざした。
——何かが、指先から抜けていく感覚があった。
血液が毛細血管を逆流するような、微かな、しかし確かな引力。
指先の皮膚の下で、何かが分節されていく。空気中の窒素と酸素と微量のアルゴンが、層のように分離して「見える」錯覚。
いや、錯覚ではなかった。
見えている。分子の配列が、結合の角度が、電子の偏りが——。
水晶球が、薄い紫色の光を放った。
鑑別官たちの反応は、黒木親子のときとは明確に異なった。
ヴァルトが眉をひそめ、イリーナは首を傾げ、マルコは筆を止めた。
「……『微細分離』。操作系、等級外」
「等級外?」
「分類上、戦闘にも統治にも適性がありません。物質を微細に分離する、という……端的に申し上げれば、実用性の認められない能力です」
ヴァルトの声には、申し訳なさすら含まれていなかった。
事実を述べただけだ。空が青いと言うのと同じ平坦さで、この男の能力には価値がないと宣告した。
賢治は水晶球から手を離した。
指先がまだ微かに痺れていた。
空気の組成が「見えた」あの感覚が、まだ残っている。窒素78.09%、酸素20.95%、アルゴン0.93%——地球の大気とほぼ同じだ。
ただし、微量成分に地球には存在しない分子構造が二つ混じっている。六角環構造にフッ素が三つ結合した、見たことのない化合物。
——面白い。
その思考は一瞬で消え、代わりに現実が押し寄せた。
「佐伯さぁん」
聞き慣れた声だった。
黒木剛が、鑑別官用の上座に設えられた椅子——いつの間にかそこに座っていた——から、薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
異世界に来て三日で既に上座を確保するあたり、この男の政治的嗅覚は人間の域を超えている。ある意味、それこそが最強の能力かもしれなかった。
「やっぱりお前はそっち側かぁ。まあ、らしいっちゃらしいわな」
「そっち側」という言葉の指す方向を、賢治は視線で確認する必要がなかった。
右側の壁際。板張りの長椅子。水差しだけが置かれた、「無し」の者たちの待機場所。
「研究一筋二十年で、成果は中間報告書の山。こっちの世界でも変わらんか」
蓮が笑った。隣に立つ取り巻きの若者が二人、追従するように笑った。
賢治は何も言わなかった。
言い返す言葉がなかったのではない。
十五年分の言い返したかった言葉が、食道の奥で渋滞を起こしていた。だが、賢治はそれを嚥下した。
いつもそうしてきたように。胃酸と一緒に、飲み込んだ。
「お父さん」
翔太の声だった。
鑑別を終えた息子が、「能力あり」の側に誘導されかけていたのを振り切って、賢治のそばに来ていた。前髪の下の目が真っ直ぐだった。
「俺、そっちに——」
「行け」
賢治は短く言った。翔太の肩に手を置き、「能力あり」の側へ押し返した。
「お前はそっちだ。葵と母さんのことも頼む」
翔太は何か言いかけたが、賢治の目を見て口を閉じた。
父親が「この顔」をしているときは何を言っても無駄だと、十七年の経験で知っていた。
賢治は「無し」の側の長椅子に腰を下ろした。
冷たい板が、薄くなったチノパン越しに尻に伝わった。隣には近所の老人——藤原健一、六十五歳、退職した元小学校教師——が妻と身を寄せ合って座っている。丸い眼鏡の奥の目は穏やかだが、白くなりかけた頭を何度も撫でる仕草に動揺が滲んでいた。転移の初日、パニックを起こす水沢理沙をなだめていたのはこの老人だ。向かいには泣き疲れた彩音が壁にもたれて目を閉じていた。
翔太の理刻があったおかげで、佐伯家は「能力者の家族」として最低限の衣食住が保障される側に振り分けられるだろう。
賢治自身は——等級外の理刻保持者として、どちらにも属さない曖昧な立場に置かれる可能性が高い。
製薬会社でも、そうだった。
正社員でもなく契約社員でもなく、「主任研究員」という肩書だけは立派で、実態は予算もつかないテーマを一人で回す窓際の住人。
成果を出しても黒木の名前で論文が出る。
学会発表は後輩の中井——あの笑顔の眩しい「期待の若手」——に回される。
中井亮介。三十二歳。東大薬学部卒。入社七年目にして既にプロジェクトリーダー。均整の取れた体格に清潔感のある黒髪、目尻が下がる人懐こい笑顔。白い歯を見せて「参考にさせてもらいました」と朗らかに笑い、賢治が五年かけて構築した合成ルートを自分の業績として社内表彰を受けた男。
——中井も、この中にいるのだろうか。
賢治は百二十人の列を目で追った。
中井の顔は見当たらなかった。あの日、中井は出張で大阪にいたはずだ。
運がいい。あの男はいつも運がいい。
……いや。
賢治は目を細めた。
転移者リストに中井の名前がなかったことを、なぜ自分は「運がいい」と思ったのか。
中井がいないことに安堵したのか、それとも——この場にいてほしかったのか。同じ泥水を啜る姿を見たかったのか。
その問いに答える前に、黒木剛の声がホール全体に響いた。
「鑑別官殿。能力が確認されなかった者たちの処遇を聞きたい」
イリーナが無表情に答えた。紫の目が、壁際の転移者たちを一瞥する。
「王都外縁の収容区画へ移送されます。食料の配給は月に一度。自活が基本です」
ホールの右側——「無し」の壁際から、小さな悲鳴が上がった。理沙が赤ん坊を強く抱きしめた。藤原が妻の肩を掴んだ。彩音が目を開け、誰かの名前を呼んだ。
月に一度の配給。異世界の荒野で、何の能力も持たない日本人が、自活。
それは事実上の棄民宣告だった。
黒木は頷いた。他人事のように。いや、実際に他人事なのだ。
賢治は長椅子の上で背を丸め、薄くなったローファーの先を見下ろした。
合成皮革の表面に、異世界の赤い土がこびりついている。
指先がまだ痺れていた。
空気中の分子が「見える」。あの六角環にフッ素が三つ結合した未知の化合物が、微量だが確かに存在している。
鑑別官はこの力を「実用性なし」と断じた。
物質を分離するだけ。戦えない。統治できない。価値がない。
——だが。
賢治は製薬研究者だった。
二十年間、分子と向き合ってきた。
ベンゼン環の上に何を載せれば毒になり、何を外せば薬になるか。どの結合を切れば安定し、どの官能基を導入すれば人体の受容体に嵌まるか。
その知識だけが、この冴えない三十九歳の男に残された、唯一の「持ち物」だった。
物質を、分子レベルで、分離できる。
それは——化学者にとっては。
賢治は息を吐いた。白い息は出なかった。この世界の気温は日本の晩夏に近い。
長椅子の上で、誰にも聞こえないほど小さく、呟いた。
「……精製、か」
その言葉の持つ意味を、このとき理解していたのは、この広いホールの中で賢治だけだった。
鑑別官にも。黒木にも。蓮にも。翔太にも。
誰にも、わからなかった。




