第6話 紫煙
人間に投与する場合の適正濃度を、賢治は三日かけて算出した。
甲虫の実験データから逆算する。体重あたりの有効成分量を基準とし、昆虫と哺乳類の神経伝達速度の差を補正係数として掛ける。推定値に過ぎないが、出発点にはなる。
甲虫に与えた量の約二千分の一。
それが、体重六十キログラムの人間に対して精神作用を発現させる最小有効量の理論値だった。
問題は、理論値が正しいかどうかを確かめる方法だった。
三日間、賢治は藁束の上でメモ帳を睨み続けた。
夜哭き菫を追加で三十本摘み、精製を繰り返し、ヴィオラ・ドロップの在庫を針の先ほどの量から小指の爪ほどの量にまで増やした。精製のたびに技術は向上する。今では一本の菫から有効成分を取り出すのに三十秒とかからない。
だが、いくら在庫を増やしても、ヒトでの効果を確認しなければ「商品」にはならない。
動物実験の次は臨床試験だ。製薬会社なら治験プロトコルに従って被験者を募る。
ここには治験もプロトコルも倫理委員会もない。
転移から二十二日目の夜。
賢治はボールペンの先端に、ヴィオラ・ドロップを微量だけ付着させた。
理論値のさらに十分の一。万が一の致死量に達しない安全域を確保した上での——
自己投与。
ボールペンの先を舌に触れさせた。
最初の三秒間は、何も起きなかった。
唾液に溶けた微量の化合物が舌の粘膜から吸収され、毛細血管に入り、血流に乗る。脳血液関門を通過するまでのラグ。
四秒目。
視界の縁が、柔らかくなった。
痛みが消えたのではない。三日間ろくに食べていない空腹も、藁束で痛めた腰も、そのまま存在している。だが、それらが「遠く」なった。自分の体の不快感が、隣の部屋から聞こえてくるテレビの音程度の存在感に後退した。
代わりに——思考が加速した。
メモ帳に書いた構造式が、閉じた瞼の裏で三次元に展開される。分子模型が回転し、結合角が光り、電子軌道が見える。見える。今まで理刻で「視て」いたものが、理刻を使わなくても頭の中で自在に組み上がる。
美しい。
その一語が、脳の奥から浮かび上がった。
分子構造が美しい。世界が美しい。小屋の天井の隙間から覗く星が美しい。藁束の繊維の一本一本が美しい。自分の手の皺が美しい。
全てが肯定されている。全てが許されている。
二十年間、一度も認められなかった自分の人生が——いま、分子の力で、丸ごと肯定されている。
賢治は歯を食いしばった。
これは嘘だ。
化合物がセロトニン受容体に作用し、報酬系を過剰に活性化しているだけだ。「美しい」のではない。脳が「美しい」と感じるよう強制されているだけだ。
知識が、かろうじて賢治を引き留めた。
この感覚の正体を理解できる人間は、この世界に自分しかいない。だから溺れない。だから戻れる。
だが——理解できない人間がこれを体験したら。
効果は四分で消えた。
理論値の十分の一では、持続時間は短い。だが、消えた瞬間——ほんの一瞬だけ——賢治の手が、ボールペンの先をもう一度舌に運ぼうとした。
意志ではなく、反射で。
賢治はボールペンを床に投げた。
両手を膝の上に置き、震えが止まるまで一分間待った。
——これは、想定以上だ。
甲虫の実験で見た「再投与への渇望」が、知識で理論武装した四十歳の人間にすら、四分間の微量投与で発生する。
地球上のどの精神作用物質よりも強力。どの依存性薬物よりも速い。
そして——どの商品よりも、売れる。
賢治はメモ帳を拾い上げ、震えの残る手で書いた。
『自己投与試験。理論値の1/10で明確な精神作用を確認。
** 持続時間:約4分。報酬系への作用は即時的かつ強烈。**
** 依存形成速度:極めて速い。1回の投与で渇望が発生。**
** 結論:商品としての有効性を確認。**
** ただし——取扱いを誤れば、都市一つを壊せる。』**
ペンを置いた。
天井の隙間から、夜風が吹き込んでいた。
ナディアに完成品を見せたのは、翌日の昼だった。
陶器の破片に載せた透明な液滴。日光の下では干渉光すら見えない。ただの水滴にしか見えない。
「一滴で何回分だ」
「十回分。水で薄めて使う。原液のまま使えば——死ぬ」
ナディアの黒い目が、液滴を凝視した。
この女は問わなかった。「本当に売るのか」とも、「大丈夫なのか」とも。
ナディアが聞いたのは一つだけだった。
「いくらで売る」
賢治は答えた。
「一回分、銀貨一枚」
ナディアの目が見開かれた。この女がここまで明確に驚いたのを、賢治は初めて見た。
抗菌剤二十人分が銀貨二枚だった。ヴィオラ・ドロップ一回分がその半額。だが需要が桁違いに大きい。薬は怪我人しか買わないが、快楽は全員が買う。
「……売れるか」
「三日もかからない。——売り先は私に任せろ」
ナディアの声は、いつもの平坦なトーンに戻っていた。
驚きは一瞬で処理され、既に頭の中では販路の計算が始まっている。
「最初の客は第六環から引っ張る。第七環じゃ銀貨を持ってる人間が少ない。まず上の環で評判を立てて、需要ができたところで量産に入る」
「一つ条件を追加する。客の名前と住所を記録しろ。全員分」
「……何のために」
「顧客管理だ」
ナディアは数秒間、賢治を見つめた。
「顧客管理」の四文字の裏にある意味を、この女は正確に読んだだろう。客のリストは、いずれ「脅迫のリスト」にもなり得る。誰が何を買ったか——その情報自体が武器になる。
だが、ナディアは何も言わなかった。頷いただけだった。
配達にはリナを使った。
あの亜麻色の髪の少女は、ナディアが声をかける前から井戸端で待っていた。薄い緑色の目が、賢治とナディアの動きを三日前から追っていたらしい。
第七環の路地裏を知り尽くした少女は、走り屋として最適だった。小柄で目立たず、足が速く、道を知っている。何より——第七環で生まれた子どもは、怪しまれない。
「仕事をちょうだい」
リナが言った言葉はそれだけだった。
対価は銅貨と、賢治が作った抗菌剤の塗り薬。リナの踵にはひび割れた傷口がいくつもあった。裸足で走り回る子どもの職業病だ。
初日に三人。二日目に五人。三日目に八人。
リナが第六環との境界を行き来するたびに、銀貨がナディアの元に積み上がっていく。
一週間で——銀貨四十二枚。
抗菌剤の全売上の二十倍を、七日間で超えた。
賢治は小屋の床に並んだ銀貨を見下ろした。
月光の中で鈍く光る四十二枚の銀。ポロシャツのポケットには収まらない量。チノパンの男が、異世界の通貨を四十二枚持っている。
美智子に見せたら、なんと言うだろう。
——いや。
見せるわけにはいかない。この金の出所を説明できない。説明してはいけない。
賢治は銀貨を布に包み、藁束の下に押し込んだ。
ヴィオラ・ドロップの在庫がある藁束とは、反対側に。
十日目の朝、ナディアが来た。
三回のノック。だが、いつもより間隔が短い。
「客だ。——ドリスが戻ってきた」
賢治は眉を動かさなかった。
予想より早い。
「ドリスだけか」
「いや。もう一人連れてる。女だ。見たことない顔だけど——身のこなしが違う。たぶん第六環の人間じゃない。もっと上の——」
ナディアの声が、僅かに硬くなった。
この女が緊張を見せるのは珍しい。
「……第五環か」
「わからない。だが——只者じゃない」
賢治は藁束から立ち上がった。
ポロシャツの襟を正す。今さらだが、癖は抜けない。日本の会議室でやっていたのと同じ動作を、異世界の薬物取引の前にもやっている。
「通せ」
「いいのか」
「来るとわかっていた客を、待たせる理由がない」
賢治は小屋の入口に立った。
朝の光が差し込む路地の向こうから、二つの人影が近づいてくる。
一人はドリス。痩せた頬と後退した生え際。中間管理職の目。前回と同じだが、歩き方が違う。前回は余裕があった。今回は——上司の前で萎縮している歩き方だ。
その半歩後ろに、女が一人。
背が低かった。百五十五センチあるかないか。
だが、存在感が低さを裏切っている。
黒い髪を首の後ろで一つに結び、鉄色の瞳が朝日を反射して光っている。年齢は三十前後か。顔立ちは整っているが、右の眉を斜めに断つ古い刀傷が美醜の判断を拒絶している。
服装は商人風だが、腰の後ろに何かを隠している。ナイフか、それに類するもの。歩くとき重心がぶれない。足音が小さい。
戦える人間の歩き方だった。
ドリスが口を開いた。声が僅かに上擦っている。
「薬師殿。——紹介する。マーラだ。俺の、その……上の人間だ」
マーラと呼ばれた女は、ドリスの紹介を聞いていなかった。
鉄色の目が、賢治の小屋を——壁を、床を、隅に置かれた陶器を、藁束を——一秒で走査し、最後に賢治の目で止まった。
「あんたが『蒸留師』か」
賢治の背中に、冷たいものが走った。
その名前を使ったことは、一度もない。ナディアにも言っていない。
誰がつけた名前だ。
「第六環で噂になってる。匂いのない薬を作る薬師がいると。紫色の、一滴で人を天国に送る雫を持っている男がいると。——蒸留師。いい名前だ。あんたにぴったりだよ」
マーラが薄く笑った。笑みの形は友好的だが、鉄色の目は笑っていない。
「うちのボスが会いたがってる。——ヴォルクが」
その名前が路地の空気を凍らせた。
ナディアが息を呑む音が、賢治の後ろで聞こえた。
賢治は表情を動かさなかった。
ドリスの萎縮。マーラの刀傷。そしてヴォルクの名前。
パズルのピースが、一つずつ嵌まっていく。
「……いつ」
「明後日の夜。場所はこちらで用意する」
マーラは賢治の返答を待たなかった。断る選択肢がないことを、互いに理解しているからだ。
二人が去った後、路地に賢治とナディアだけが残された。
朝の光が、第七環の汚い土壁を白く照らしている。
「ナディア」
「……ああ」
「灰の商会のボスに会うのは、予定より早い。だが——悪くない」
「悪くない? あんた正気か。ヴォルクだぞ。第五環から下を全部握ってる男だ。逆らったら——」
「逆らわない。取引する」
賢治はメモ帳をポケットにしまい、小屋に戻った。
「二日ある。準備をする。——お前は、ヴォルクについて知っていることを全部話せ。今夜中に」
ナディアは数秒黙り、それから頷いた。
「……あんた、怖くないのか」
賢治は振り返らずに答えた。
「怖い。だが、怖いときほど手は動く。研究者の性分だ」
小屋の扉が閉まった。
路地にナディアだけが残された。褐色の肌に朝日が当たり、黒い目が賢治の閉じた扉を見つめている。
口元が、ほんの僅かだけ動いた。
笑みとも呆れともつかない、名前のない表情だった。




