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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第44話 天秤の終わり

***


 灰の商会の本拠。一階の廊下。


 構成員に導かれて歩いた。前回は二階だった。今日は——二階ではなかった。


 階段を降りた。地下。


 石壁に囲まれた通路。蝋燭の光が等間隔で揺れている。空気が冷たい。湿っている。


 地下の部屋の前で——構成員が立ち止まった。


「ここだ。——中に入れ」


 扉の前に——別の構成員が二人立っていた。護衛だ。


「木箱を出せ。中身を確認する」


 賢治は木箱を差し出した。構成員が蓋を開けた。十八本の小瓶が並んでいる。琥珀色。全て同じに見える。


 構成員が数を数えた。十八本。


「身体検査だ。——両腕を上げろ」


 賢治は両腕を上げた。構成員が外套の内側を探った。ポケット。裏地。袖。脚。靴の中。——何もなかった。拮抗剤の小瓶は——一時間前に飲んで、空瓶は小屋に捨てた。


「問題ない。——入れ」


 木箱を受け取った。扉が開いた。


 地下の部屋に——入った。


 最初に見えたのは——テーブルだった。長い木のテーブル。蝋燭が三本。テーブルの上に——水差しが一つ。


 テーブルの向こうに——ヴォルクが座っていた。


 大きな体。黒い外套。禿頭。顎の傷痕。——表情がなかった。前回は怒りがあった。今日は——何もなかった。何もないことが——怒りよりも怖かった。


 ヴォルクの右側に——マーラが立っていた。帳簿を持っている。目が鋭い。


 ヴォルクの左側に——カティアがいた。壁にもたれている。赤毛のツインテール。童顔。笑みが張りついている。目だけが——笑っていない。


 三人。


 部屋には窓がなかった。石壁と石天井に囲まれた地下室。扉は——一つだけ。賢治が入ってきた扉。その外に——ザハールが立っているはずだ。


「座れ」


 ヴォルクの声。


 椅子が一脚——テーブルの手前に置いてあった。賢治は木箱をテーブルの端に置いた。椅子に座った。


「木箱を開けろ」


 賢治は蓋を開けた。十八本の小瓶が並んでいる。左から十二番目——が気化VDだ。


「マーラ。確認しろ」


 マーラがテーブルに歩み寄った。帳簿を置いた。


 左端の一本を取った。色を見た。傾けて粘度を確認した。指先で瓶の側面に触れた——理刻。金属操作の応用で、液体中の微量金属の密度を読む。


「一本目。標準品質。問題なし」


 二本目。同じ手順。色。粘度。理刻。


「二本目。問題なし」


 三本目。四本目。五本目。


 賢治の心臓が——鳴っていた。耳の奥で。


 マーラの手が——左から右に移動していく。一本ずつ。丁寧に。一本につき——約十五秒。


 六本目。七本目。八本目。


 十二番目まで——あと四本。


「蒸留師」


 ヴォルクの声が——マーラの検査と同時に飛んできた。


「お前は——帳簿外で何本作った」


「帳簿外——」


「とぼけるな。マーラの調査で——正規ルート外にVDが出回っていることが判明した。お前が作った本物のVDだ。帳簿に載っていない分だ。——何本作った」


 九本目。マーラの手が九本目を検査している。


「……二本だ」


「二本。——もっとあるだろう」


「二本だけだ。精製の練習として——帳簿外で試作した。処分し忘れた分が——外に出た」


「処分し忘れた。——蒸留師。お前は処分を忘れるような男か」


「手が震えてる。酒が増えて——注意力が落ちてる。ミスが増えてるのは——事実だ」


 十本目。マーラが十本目を検査している。


 ヴォルクが——テーブルに身を乗り出した。


「蒸留師。——ザハールは関わっているか」


「ザハールは——関わってない。俺一人でやった」


「一人でやった。——お前は小屋から出られない。ザハールの監視がある。一人で——どうやって外に持ち出した」


「ナディアの回収のときに——箱の底に隠した」


「ナディアが共犯か」


「ナディアは知らない。箱の底に——二重底を作って隠しただけだ」


 十一本目。


 心臓が——破裂しそうだった。


 マーラの手が——十一本目を棚に戻した。次は——十二本目。


「ヴォルク。——十一本まで問題なし」


 マーラの手が——十二本目に伸びた。


 賢治の指先が——テーブルの縁を掴んだ。


 マーラが瓶を取った。色を見た。傾けた。——ここまでは同じだ。色も粘度も通常のVDと同じに調整してある。


 指先が——瓶の側面に触れた。


 理刻。


 マーラの目が——。


「——ヴォルク」


 マーラの声が——変わった。


「この瓶——密度が違う。他の十一本と比べて——明らかに重い。濃縮されてる」


 部屋の空気が——凍った。


 ヴォルクの目が——賢治を見た。


「蒸留師。——その瓶は何だ」


 心臓が止まりかけた。


 バレた。


 計画が——崩れた。マーラの理刻が——密度の違いを読み取った。十二本目だけが——他の十七本と違うことが、バレた。


「……それは——高濃度版の試作品だ。通常版に混ざっていた——精製ミスだ」


「精製ミスにしては——濃すぎる。こいつは通常の——」


 マーラが瓶を目の高さに持ち上げた。蝋燭の光に透かした。


「蒸留師。こいつを——あたしが開けて確認してもいいか?」


 開ける。


 蓋を開ければ——気化が始まる。二呼吸で意識消失。五呼吸で心肺停止。マーラが。ヴォルクが。カティアが。——全員が。


 だが——マーラも死ぬ。カティアも死ぬ。


 賢治は——拮抗剤を飲んでいる。賢治だけが生き残る。


 ザハールが扉の外にいる。音がすれば入ってくる。


 だが——。


「蒸留師。聞いてるのか。開けていいか」


「——待ってくれ」


 声が——出た。自分の声だとは思えなかった。


「それは——高濃度の試作品だ。蓋を開ければ——揮発する。密室で開けると——吸引してしまう。外に出てから確認してくれ」


 マーラが——賢治を見た。


 ヴォルクが——賢治を見た。


 カティアが——壁から体を起こした。


 沈黙。三秒。


「蒸留師。——お前は、揮発すると言ったな」


 ヴォルクの声が——低くなった。


「高濃度のVDが揮発する。密室で吸引すると——どうなる」


「……気分が悪くなる。頭痛がする。——危険だ」


「危険か。——蒸留師。お前は今まで、VDが揮発するとは——一度も言っていない。通常のVDは揮発しない。高濃度版も——揮発しない。マーラが検査で蓋を開けても——何も起きなかった。——だが、この瓶だけは揮発する。なぜだ」


 詰んだ。


 ヴォルクの目が——賢治を射抜いていた。合理的な男。計算する男。——今、ヴォルクの頭の中で、全てのピースが繋がりかけている。


「マーラ。その瓶を——こっちに寄越せ。俺が確認する」


「ヴォルク——直接触るのは」


「寄越せ」


 マーラがヴォルクに瓶を渡した。ヴォルクの大きな手が——小瓶を包んだ。


 ヴォルクが——蓋に指をかけた。


「蒸留師。——この瓶の中身が、本当にただの高濃度VDなら——揮発しても問題ないはずだ。お前が危険だと言うなら——お前がまず吸ってみろ。先に」


 ヴォルクが蓋を——回し始めた。ゆっくりと。


「開ける前に——お前が顔を近づけろ。先に吸え。お前が平気なら——俺も開ける。お前が拒否するなら——この瓶は、ただの試作品ではない。そうだな?」


 罠だ。ヴォルクの罠。——お前が先に吸え。拒否すれば、それが答えだ。


 拮抗剤を——飲んでいる。吸っても——致死量には達しない。だが——意識が朦朧とする可能性はある。拮抗剤の効果は完全ではない。百倍濃縮の気化VDを直接吸えば——拮抗剤でも抑えきれないかもしれない。


 だが——拒否すれば、全てが終わる。


「……わかった」


 立ち上がった。テーブルを回って——ヴォルクの前に立った。


 ヴォルクが——小瓶を持っている。蓋が半分回っている。あと半回転で——開く。


「顔を近づけろ」


 賢治は——瓶の上に顔を下げた。鼻先が——蓋から三十センチ。


 ヴォルクが——蓋を回した。


 開いた。


 ——匂いが、した。


 甘い匂い。通常のVDよりもはるかに強い。鼻腔の奥が——痺れた。脳の奥が——揺れた。


 一呼吸。


 意識が——ぐらついた。拮抗剤が——効いている。効いているが——完全ではない。視界が——滲んだ。


 立っていた。倒れなかった。


「……平気だ。——ただの高濃度版だ。酩酊感が強い。頭がふらつく。だが——死にはしない」


 嘘ではなかった。拮抗剤が効いている限り——死にはしない。


 ヴォルクが——賢治の目を見ていた。


 五秒。十秒。


 ヴォルクが——瓶に鼻を近づけようとした。


 ——今だ。


 賢治の手が——動いた。


 ヴォルクの手首を——掴んだ。瓶を傾けた。液体が——ヴォルクの手の甲にこぼれた。同時に——瓶の口を上に向けた。液面が空気に触れる面積が——最大になった。


 気化が——加速した。


 甘い匂いが——部屋中に広がった。


「——ッ!」


 カティアが動いた。壁を蹴って——瞬歩。賢治に向かって——


 だがカティアの動きが——途中で崩れた。一歩目の着地で——膝が折れた。気化VDを——二呼吸分吸っていた。意識が——飛びかけている。


 カティアがテーブルに手をついた。目が——焦点を失っていた。


「え——へへ——なに、これ——」


 膝から崩れた。


 マーラが——叫んだ。


「ヴォルク——これは毒だ——!」


 マーラが扉に向かって走った。だが三歩目で——足がもつれた。壁に肩をぶつけた。ずり落ちた。


「くそ——息を——」


 マーラの目が——閉じた。


 部屋の中に——立っているのは、ヴォルクと賢治だけだった。


 ヴォルクの手の甲に——VDの液体がかかっている。だがヴォルクは——まだ立っていた。大きな体が——揺れていた。だが——立っていた。


「蒸留師——」


 ヴォルクの右手が——賢治の首を掴んだ。


 指が——喉に食い込んだ。


 息が——止まった。


 ヴォルクの目が——賢治を見ていた。至近距離。三十センチ。禿頭。顎の傷痕。——目の中に、怒りがあった。最初に部屋に入ったとき何もなかった顔に——今、怒りがあった。


「お前は——最初から——」


 ヴォルクの指が——締まった。賢治の視界が——暗くなった。


 喉が潰れる。息ができない。手足が——痺れていく。拮抗剤の効果が——薄れているのか、ヴォルクの手で血流が止まっているのか——わからない。


 だがヴォルクの手も——震えていた。大きな手が。——気化VDが、ヴォルクの体を蝕んでいる。大きな体に効くまでに時間がかかる。だが——効いている。


 賢治は——右手を持ち上げた。震える手で——ヴォルクの顔に手を伸ばした。


 届かない。


 左手を——テーブルの上に這わせた。指先が——何かに触れた。水差し。


 水差しを——掴んだ。持ち上げた。腕が震えていた。重い。水が入っている。


 振った。


 水差しがヴォルクの側頭部に——当たった。鈍い音。水が飛び散った。


 ヴォルクの指が——一瞬、緩んだ。


 賢治は喉から手を引き剥がした。咳き込んだ。息を——吸った。空気の中に——甘い匂いが充満している。気化VD。吸えば吸うほど——意識が遠のく。


 ヴォルクが——膝をついた。


 片膝。大きな体が——傾いた。


 ヴォルクの目が——まだ賢治を見ていた。


「蒸留師——お前は——いつから——」


「最初から」


 賢治の声が——掠れていた。喉が潰れかけている。


「最初から——お前を殺すために——ここにいた——わけじゃない。だが——お前が翔太を脅した。セレナの指を折らせた。——お前が先に壊した」


 ヴォルクの目が——揺れた。


 怒りが——消えていった。代わりに——何かが浮かんだ。驚きではない。悔しさでもない。——諦めに似た、だが諦めとも違う何か。


「……蒸留師。——お前は、俺より——」


 言葉が——途切れた。


 ヴォルクの体が——前に倒れた。


 石の床に——大きな体が倒れる音がした。重い音だった。


 動かなかった。


 賢治は——床に座り込んだ。息が荒かった。喉が痛かった。視界が明滅していた。


 部屋の中に——甘い匂いが充満していた。カティアが倒れている。マーラが壁際に倒れている。ヴォルクが——テーブルの横で倒れている。


 三人とも——動かない。


 扉が——開いた。


 ザハールが——入ってきた。口と鼻を布で覆っている。


 ザハールは部屋の中を見た。倒れている三人を見た。——床に座り込んでいる賢治を見た。


 何も言わなかった。


 賢治の腕を掴んだ。引きずり上げた。肩に担いだ。部屋から出た。


 扉の外の護衛は——すでに倒れていた。ザハールが制圧したのだ。音もなく。


 廊下を歩いた。階段を上がった。一階に出た。外の空気が——流れ込んできた。


 ザハールが賢治を壁に寄りかからせた。


「……生きてるか」


「生きてる」


「ヴォルクは」


「死んだ」


「……そうか」


 ザハールが——部屋に戻った。マーラとカティアを——一人ずつ担いで出してきた。二人とも意識がなかった。だが——息はあった。


「二人は——生きてる。だが——目を覚ましたら暴れるぞ。特にカティアは」


「縛ってくれ」


「もうやった」


 ザハールがカティアの手首を見せた。革紐で後ろ手に縛ってある。マーラも同様。


 賢治は壁にもたれたまま——空を見た。灰色の空。雲が低い。風がなかった。


 ヴォルクが——死んだ。


 殺した。


 俺が——殺した。


 手が——震えていた。止まらなかった。酒がない。拮抗剤が切れかけている。喉が痛い。首に——ヴォルクの指の跡が残っているだろう。


 蒸留酒が欲しかった。一口でいい。震えを止めたかった。


 だが——瓶はもうない。


***


 マーラが——最初に目を覚ました。


 一時間後。一階の倉庫の中。手首と足首を縛られた状態で。


 マーラは目を開けた。天井を見た。——賢治を見た。


「……蒸留師。——ヴォルクは」


「死んだ」


 マーラの目が——閉じた。三秒間。開いた。


「……そうか。——あたしは、どうなる」


「殺さない。——あんたが、俺に協力するなら」


「協力。——ヴォルクを殺した男に——協力しろと」


「灰の商会は——俺が引き継ぐ。VDの売上は全体の七割だ。俺がいなければ——商会は潰れる。あんたは会計を仕切ってる。——俺一人じゃ組織は回せない」


 マーラは——天井を見ていた。


「……ヴォルクは——二十年前にあたしを拾った。スラムの孤児だったあたしを。読み書きと算術を教えてくれた。あたしがここにいるのは——ヴォルクのおかげだ」


「恩義か」


「恩義だ。——だが、ヴォルクは死んだ。恩義の相手がいなくなった。——あたしに残ってるのは、帳簿と算術だけだ。それを——誰の下で使うかは、あたしが決める」


「俺の下で使う気はあるか」


「条件がある。——あたしの報酬を、ヴォルクの時代の二倍にしろ。それと——あたしにVDを売らせるな。帳簿は管理する。だが——あの薬を直接扱う気はない」


「……わかった」


「それと——カティアをどうする気だ」


「どうするか——まだ決めてない」


「決めろ。あの小娘は——目を覚ましたら、お前を殺しに来るぞ。ヴォルクのためなら——死ぬ覚悟のある人間だ。縛っておくだけじゃ足りない」


「殺すのか」


「殺さない方がいい。——カティアの瞬歩は、組織の武力そのものだ。失えば——他の勢力に喰われる。だが——従わせる方法は、あたしには思いつかない」


 マーラの目が——賢治を見た。


「お前なら——思いつくだろう。人を操るのは——お前の専門だ」


 賢治はマーラを見なかった。


 カティアのことは——後で考える。今は——やらなければならないことがある。


***

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