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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第45話 俺の名前を言え

***


 カティアが目を覚ましたのは——マーラの三十分後だった。


 最初に動いたのは——目だった。閉じていた瞼が開いた。丸い目。童顔。——焦点が合っていなかった。天井を見ていた。


 次に——手が動いた。手首が縛られていることに気づいた。足首も。革紐。ザハールが縛ったもの。


「——え」


 カティアの目が——部屋の中を見回した。一階の倉庫。木箱が積まれている。蝋燭の光。


 マーラが——壁に寄りかかって座っていた。縛られたまま。だが——目は開いている。


 賢治が——カティアの正面に立っていた。


 ザハールが——扉の前に立っていた。


「マーラ——何これ——なんで縛られて——」


 カティアの目が——賢治を見た。ザハールを見た。マーラを見た。


 三秒間。


 理解した。


「——ヴォルクは」


 マーラが答えた。


「死んだ」


 カティアの顔から——笑みが消えた。張りついていた笑みが。生まれて初めて見る表情だった。笑みのないカティアの顔。——子供の顔だった。二十歳の。怯えた子供の顔。


 だが——一秒で、顔が変わった。


 怯えが消えた。代わりに——何かが燃え上がった。


「殺す——蒸留師——殺す——お前を——ッ!!」


 カティアが暴れた。革紐が軋んだ。体を捻った。手首が擦れて血が滲んだ。——だが、縛りはザハールがやった。六十七年の技術で結んだ縛りは——瞬歩の使い手でも解けない。


「殺す——殺す殺す殺す——!」


 叫んでいた。泣いてはいなかった。泣く代わりに——叫んでいた。


「ヴォルクはあたしを拾ってくれた——! あたしに名前をくれた——! あたしに居場所をくれた——! お前なんかに——お前なんかに殺されていい人じゃない——!」


 賢治は——黙っていた。


 カティアの叫びが——倉庫の石壁に反響していた。


 一分。二分。三分。


 叫びが——枯れた。声が出なくなった。カティアは荒い息をついていた。目が充血していた。


「……蒸留師。——あたしを殺すの」


「殺さない」


「なんで」


「お前の瞬歩はまだ必要だ。灰の商会には敵がいる。——だが、今すぐ従えとは言わない。考えろ」


「考える?——ふざけんな。考えることなんか——」


「お前が出ていきたいなら出ていけ。止めない。——ただし、出ていった先で俺に刃を向けるなら——そのときは俺もお前を敵として扱う」


 カティアの目が——賢治を見ていた。


 怒りがあった。憎悪があった。——だが、殺意は薄れていた。ガスの後遺症で体が動かない。瞬歩を使う気力もない。


「……縛りを解いて」


「暴れないか」


「暴れる力がない」


 賢治はザハールを見た。ザハールが頷いた。


 ザハールがカティアの縛りを解いた。カティアは——壁にもたれたまま、膝を抱えた。


 小さかった。150センチの体が——もっと小さく見えた。


 何も言わなかった。


***


「ザハール。——セレナを迎えに行ってくれ。灰の商会の詰所に軟禁されてるはずだ」


「わかった。——だが、詰所の連中はまだヴォルクの死を知らない。俺が行けば——」


「ヴォルクの命令だと言え。『セレナを蒸留師のところに戻せ』と。——ヴォルクの死が広まる前に、セレナを連れ出してくれ」


 ザハールが出ていった。


 マーラと賢治が残った。カティアは壁にもたれて動かなかった。


「マーラ。——灰の商会の構成員は何人いる」


「総勢で四十二人。そのうち戦闘要員が十八人。残りは走り屋と雑用だ」


「全員に——ヴォルクの死を伝えなければならない。どうやって伝える」


「集会だ。——本拠の一階広間に全員を集める。ヴォルクが定例で使っていた場だ。そこで——お前が話す」


「俺が」


「お前以外に誰がいる」


「……いつやる」


「今夜。——明日まで待てば、噂が先に走る。今夜中に全員の前で言え」


***


 夕方。


 ザハールが——セレナを連れて戻ってきた。


 小屋の前の路地。賢治が立っていた。ザハールの背後から——セレナが現れた。


 セレナは——変わっていた。


 薄い金髪が伸びていた。普段は切り揃えたショートボブだったのが——肩にかかる長さまで伸びている。頬がこけていた。肌が白かった。元々色白だったが——さらに白い。日に当たっていない肌。軟禁されていた肌。


 右手が——包帯で巻かれていた。小指のあたり。


 セレナは賢治の前に立った。


「蒸留師殿」


 声が——掠れていた。


「セレナ。——怪我は」


「小指は——まだ動きません。ですが——他の四本は問題ありません。ナイフは握れます」


「……すまなかった」


「何がですか」


「お前の指を折らせたのは——俺のせいだ。俺がヴォルクに逆らったから——お前が罰を受けた」


 セレナは——三秒間、賢治を見た。


「蒸留師殿。——ヴォルク様は」


「死んだ。俺が殺した」


 セレナの目が——動いた。


 驚きではなかった。確認だった。——ザハールから聞いていたのだろう。


「……そうですか」


「セレナ。——俺の護衛に戻ってくれるか」


「ヴォルク様の——命令ではなく。蒸留師殿の——依頼として」


「ああ。——依頼だ」


 セレナは——右手の包帯を見た。動かない小指を見た。


「護衛に戻ります。——ですが、右手の精度は落ちています。糸引きの同時制御が——五本から三本に減っています。回復するまで——万全ではありません」


「三本で充分だ」


***


 夜。


 灰の商会の本拠。一階広間。


 蝋燭が壁に並んでいた。四十本以上。広間を明るく照らしていた。


 構成員が——集まっていた。四十二人。全員。戦闘要員も走り屋も雑用も。マーラが全員に招集をかけた。広間の石の床に立って——テーブルの前を見ていた。


 テーブルの前に——賢治が立っていた。


 賢治の右にマーラ。左にザハール。後ろに——セレナ。


 カティアは——広間の隅にいた。壁にもたれている。笑みのない顔。目だけが——賢治を見ていた。


 構成員たちの顔が——動揺していた。ヴォルクがいない。ヴォルクの代わりに——蒸留師が立っている。何が起きたのか——まだ知らされていない。


 賢治は——広間を見渡した。四十二の顔。四十二の目。全部が——賢治を見ていた。


 蒸留酒が欲しかった。一口でいい。手の震えを止めたかった。だが——瓶はない。


 震える手を——外套のポケットに入れた。見せないために。


 口を開いた。


「ヴォルクは死んだ」


 広間が——一瞬、静まった。


 そして——爆発した。


「はぁ!?」


「何を言ってんだ!?」


「ヴォルクさんが死んだだと——ふざけるな!」


 構成員の一人が前に出た。戦闘要員の男。体が大きい。顔が赤い。


「おい蒸留師!——ヴォルクさんはどうしたんだ! 何があった!」


「俺が殺した」


 広間が——凍った。


 怒号が止まった。四十二人全員が——賢治を見た。


 二秒の沈黙。


「——嘘つけ!」


 別の構成員が叫んだ。


「お前みたいな——薬しか作れねぇ男に、ヴォルクさんが殺せるわけねぇだろ!!」


「どうかな」


 賢治の声は——低かった。震えていた。だが——通っていた。広間の壁に反響した。


「お前たちは俺のことを知ってるだろう。蒸留師。VDを作ってる男。——だが、俺が作れるのはVDだけじゃない」


 広間が——静かになった。完全には静かになっていない。ざわめきが残っている。だが——聞いていた。


「俺は毒を作れる。ドラガンを殺したのは俺だ。接触毒で。——ユーリを殺したのも俺だ。ヴォルクの命令でやった。だが——毒を作ったのは俺だ。城島を殺したのも俺だ。心臓を止める薬で」


 構成員たちの顔が——変わっていった。怒りが——引いていく。代わりに——別のものが浮かんでくる。


「そしてヴォルクを——俺が作った気化兵器で殺した。同じ部屋にいたカティアとマーラも——戦闘不能にした。理刻持ちの戦闘要員二人が、俺の毒の前では何もできなかった」


 広間が——静まり返った。


 カティアが——壁から体を起こした。目が——燃えていた。だが——何も言わなかった。


 構成員たちの目が——変わっていた。怒りが消えていた。残っているのは——恐怖。薬師が三人の戦闘要員を同時に無力化した。ヴォルクを殺した。——この男は、何本の毒を持っている。この場にいる全員を殺せるのか。


「VDは俺にしか作れない。灰の商会の利益の七割はVDだ。俺がいなくなれば——お前たちの給料は七割消える。組織は三ヶ月で潰れる」


 誰も動かなかった。


「俺はVDの生産を止めない。止めるどころか——増やす。今の十八本を三十本にする。五十本にする。第四環から第二環まで——流通を拡大する。お前たちの取り分は増える。ヴォルクの時代より——稼がせてやる」


 構成員の一人が——唾を飲み込んだ。音が聞こえた。


「俺の名前は——蒸留師だ。お前たちがそう呼んできた。これからも——そう呼べ。ヴォルクの代わりに——蒸留師が灰の商会を率いる。文句がある奴は今ここで言え」


 沈黙。


 長い沈黙。


 構成員の一人が——膝を折った。若い男。顎にニキビの跡。賢治の小屋の交代要員だった男。何も言わずに——頭を下げた。


 もう一人が——膝を折った。


 三人目。四人目。——波紋のように広がった。


 三十秒後——広間にいた構成員の大半が膝をついていた。立っている者は——数人。


 カティアが——立っていた。


 膝をつかなかった。壁にもたれたまま——賢治を見ていた。


「……あたしは——お前を許さない。絶対に。ヴォルクのことは——絶対に」


 カティアが——壁から離れた。広間の出口に向かって歩いた。誰も止めなかった。


 扉の前で——立ち止まった。振り返らなかった。


「えへへ——なんてね。笑えないや。——今日は」


 カティアが——出ていった。


 扉が閉まった。


***


 構成員たちが散っていった。


 広間に残ったのは——賢治、マーラ、ザハール、セレナ。


 セレナが扉を閉めた。四人だけになった。


 ザハールが——腕を組んだまま、賢治を見た。


「蒸留師。——四十二人の前で堂々と殺しの数を並べる男は初めて見た。まあ——なんとかなったな」


 マーラが帳簿を閉じた。


「ヴォルクの金庫の管理は明日からあたしが引き継ぐ。帳簿の移行に三日かかる。——それと」


「何だ」


「カティアだ。今は出ていったが——あの小娘は戻ってくる。戻ってきたときに——お前を殺しに来るか、従うか。五分五分だ。どう対処する」


「……わからない」


「わからないじゃ済まない。カティアの瞬歩は——この組織の暴力そのものだ。敵に回れば厄介。だが味方にできれば——碧瓶会にも負けない。対処を考えろ。早めにだ」


「わかった」


「もう一つ。——さっき構成員の前で『五十本にする』と言ったな。あれは本当に作れるのか」


「……」


「お前一人で一日十八本が限界だろう。しかも今は酒が切れて手が震えてる。三十本? 五十本? ——ハッタリだろう」


「ハッタリだ」


「……正直だな。——で、どうする気だ。構成員の前で約束したことが嘘だとバレたら——信頼は一日で消えるぞ」


「方法は考える。精製工程を分割して——理刻を使えない人間でもできる前処理を切り出せば、俺一人じゃなくても回せるかもしれない。——だが、今は何も決まってない」


「決まってないのに言ったのか」


「あの場で十八本のままだと言ったら——誰もついてこない。ヴォルクを殺した意味がないと思われる。未来が見えなければ——人は動かない」


「……ハッタリで人を動かす男か。——ヴォルクと同じだな」


 賢治は——答えなかった。


「あと——イレーナだ。明日戻ってくる。イレーナにも——伝えなければならない。カティアよりは冷静だが——読めない女だ」


「イレーナは——マーラから伝えてくれ。俺から言うより——お前から言った方がいい」


「……そうだな。あたしから言う」


 マーラが出ていった。


 ザハールも出ていった。「リーザに会ってくる」とだけ言って。


 セレナと賢治が——残った。


 セレナは扉の前に立っていた。いつもの位置。護衛の位置。


「蒸留師殿」


「何だ」


「……お疲れさまでした」


 賢治は——セレナを見た。


 薄い金髪。碧い目。痩せた頬。包帯の巻かれた右手。——それでも、ナイフを握れると言った女。


「セレナ。——俺はヴォルクを殺した。お前のヴォルク様を」


「はい」


「何も思わないのか」


 セレナは——三秒間、黙った。


「わたしは——ヴォルク様の道具でした。命じられれば殺し、命じられれば守り、命じられれば指を差し出しました。——ですが、蒸留師殿」


「何だ」


「ヴォルク様の命令で蒸留師殿を守っていたとき——わたしは、命令がなくなっても守りたいと思いました。それが——いつからだったかは、わかりません」


 セレナは——それ以上何も言わなかった。


 賢治も——何も言わなかった。


 広間に——二人だけの沈黙が落ちた。蝋燭の光が揺れていた。


***


 賢治は——一人で小屋に戻った。セレナは路地の入口に立っていた。護衛の位置。


 藁束の上に座った。


 手が——まだ震えていた。ポケットの中で。


 酒がない。VDの精製をしなければならない。明日から。明後日から。——ずっと。


 ヴォルクは死んだ。だが——VDは止まらない。


 止められない。止めれば——組織が崩れる。給料が止まる。構成員が離れる。


 ヴォルクを殺して——自由になるはずだった。


 だが——自由にはなっていなかった。ヴォルクの檻が消えて——別の檻に入っただけだった。


 VDという名の——灰の檻に。


 第一部「灰の檻」- 終 -

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