表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

いつものこと/エピローグ

 会ってからは、連絡の頻度が増えた。

朝。昼。夜。何をしているか。何を着ているか。

『今日は写真、ある?』

短い言葉。軽い調子。

でも、その一つ一つが、確実に生活に入り込んでくる。


 朝、目が覚める。

スマホを見る。

宮野からのメッセージ。

『おはよう。今日もユナでいられる?』

悠真は、その一文を見つめる。

“いられる?”

許可を求めているようで、実際にはもう答えは決まっている。

『うん。』

短く返す。

それだけで、少しだけ安心する。

仕事中。スマホは、もう隠さなくなっていた。

画面を開く回数が増える。通知を待つ時間が増える。

現実の作業は、後回しになる。


 昼休み。

宮野からのメッセージ。

『今日、どんな感じ?』

悠真は、少しだけ迷ってから、トイレの個室に入る。

鍵をかける。

しばらく動かない。

ポケットの中のスマホの重さだけが、やけに意識に残る。


――今じゃなくてもいい。


 そう思うのに、体はもう動いていた。

鏡の前に立つ。バッグの中から、小さなポーチとウィッグを取り出す。

ファンデーション。アイライン。リップ。

最低限のものだけ。

急いで整える。手つきは、昨日よりも迷いがない。

少しずつ、“いつもの顔”が薄れていく。

途中で一度、顔を上げる。中途半端な状態の自分が、鏡に映る。

男でもなく、ユナでもない。

その曖昧さに、少しだけ息が詰まる。

もう少しだけ、と指が動く。線を引く。色を乗せる。整える。

ようやく、呼吸が少しだけ楽になる。


 スマホを構える。

『こんな感じ。』

すぐに返信が来る。

『いいね。もうちょっと髪、横流してみて。』

一瞬、止まる。

でも、そのまま手が動く。言われた通りに整える。

もう一度、撮る。送る。

『うん、その方がいい。かわいい。』

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

同時に、どこかが静かに削れる。でも、もう気にならなかった。


 夜。部屋に戻る。

真っ先に服を脱ぐ。下着を身につける。

ニット。ミニスカート。ウィッグ。

鏡の前に立つ。

スマホが震える。

『今日は全身見たいな』

少しだけ、躊躇う。

でも、それはほんの一瞬だった。

距離を取る。カメラをセットする。全身が映る位置。

少しだけポーズを取る。

送る。数秒後。

『いいね。ちゃんとユナだ。』

その言葉で、すべてが肯定される。存在が確定する。

それだけで、十分だった。

気づくと、基準が変わっていた。

何を着るか。どう見せるか。

全部、“どう見られるか”で決めている。


 悠真としての時間が、減る。

仕事は、最低限。会話も、最低限。必要なことだけ。

それでも、問題は起きなかった。

誰とも、深く関わってこなかったから。


 ある日。

宮野からのメッセージ。

少しだけ長い。

『ねえ、ユナって、いつまで“ユウマ”でいるつもり?』

指が止まる。意味が、すぐには理解できない。

続けて、送られてくる。

『別にさ、無理に分けなくていいと思うんだよね』

『その方が、自然じゃない?』

自然。その言葉に、引っかかる。

『だってさ、ユナの方が、ちゃんとしてるじゃん』

ちゃんと。その一言で、何かが決定的に揺れる。


 悠真は、鏡を見る。

ユナがいる。もう、見慣れた顔。

違和感は、ほとんどない。

『……どういう意味?』

少し間が空く。

『そのままの意味だよ』

『ユナでいる時間の方が、ちゃんとしてるでしょ?』

否定できない。

『じゃあさ、そのままにすればいいじゃん』

静かな提案。命令じゃない。

でも、逃げ道もない。

画面を見つめる。何かを考えようとする。

でも、うまくまとまらない。頭の中に浮かぶのは、断片だけ。

“自然”

“ちゃんとしてる”

その全部が、ユナに紐づいている。

悠真は、ゆっくりと息を吐いた。

『……うん』

送信。

その瞬間、何かが静かに決まる。

返信はすぐに来た。

『よかった』

『その方がいいと思う』

それだけ。でも、それで十分だった。


 その夜。

メイクを落とさなかった。

鏡の前に立つ。ユナがいる。その顔を見て、思う。

これでいい。違和感は、なかった。

スマホが震える。

『おやすみ、ユナ』

名前を呼ばれる。

その響きが、自然に体に馴染む。

ゆっくりと、目を閉じる。

もう、“戻る”という感覚はなかった。


 朝。目が覚める。

最初に見るのは、鏡。そこにいるのは、ユナ。

スマホが震える。

『おはよう、ユナ』

そのメッセージを見て、少しだけ笑う。

その表情には、もう迷いがなかった。


“ユウマ”という名前は、その日、一度も使われなかった。


 朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。

目が覚める。枕元のスマホを手に取る。

通知が一件。

miyano

『起きてる?』

画面を見て、少しだけ笑う。

指が自然に動く。

『起きてるよ』

既読はすぐにつく。

『今日、どんな感じにする?』

少しだけ考える。


 ベッドの横。ハンガーにかけられた服。

いくつか並んでいる。淡い色。柔らかい素材。どれも、よく着ているもの。

クローゼットは、ほとんど変わっていた。

スーツは端に寄せられている。しばらく着ていない。

指先で、一着選ぶ。ベージュのニット。

『これにする』

送る。

『いいね。それ好き』

それだけで、少しだけ安心する。

起き上がる。床に足をつける。

軽い。前よりも、ずっと。


 洗面所へ向かう。鏡の前に立つ。そこにいるのは、見慣れた顔。

名前を考えようとして、やめる。必要ない。

メイクを始める。手順は、もう迷わない。

肌。目元。輪郭。少しずつ、整っていく。

途中で、スマホが震える。

『今日は、髪まとめてみて』

手が止まらない。言われた通りにする。結ぶ。整える。

鏡を見る。少しだけ、違う。でも、それがいい。

スマホを手に取る。写真を撮り、送る。数秒後。

『うん、それ。すごくいい』

胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 外に出る。

廊下。階段。外の空気。全部、もう慣れている。

通りを歩く。人とすれ違う。視線が、少しだけ触れる。気にならない。

スマホが震える。

『今日も、ちゃんと“いる”ね』

画面を見て、少しだけ笑う。


 信号待ち。

ショーウィンドウに映る。そこにいるのは、いつもの姿。

自然に、呼吸ができる。

青になる。歩き出す。

そのまま、人の流れに混ざる。

ポケットの中で、スマホがもう一度震える。

『ねえ』

画面を見る。

『もうそっちの名前、いらないよね』

一瞬だけ、足が止まる。

何の名前か、考える必要はなかった。

少しだけ考える。そして、打ち込む。

『うん』

送信。

風が吹く。髪が揺れる。


ショーウィンドウに映る姿は、もう一度も振り返らない。


*************************


 白い光が、やけに眩しい。

目を開けると、天井が近い。

匂いが違う。静かで乾いた空気。

体を動かそうとして、やめる。

重い。でも、不思議と嫌じゃなかった。


 名前を呼ばれる。

一瞬遅れる。でも、すぐに理解した。

それが自分の名前だと。


 視線だけを動かす。

窓のガラスに、ぼんやりと輪郭が映る。

違和感は、なかった。

むしろ、ずっと前からこうだった気がする。


 枕元のスマホが震える。

『終わった?』

少しだけ指を動かす。

『うん』

瞬時に返信が来る。

『すぐ会いにいくね』

それだけで、胸の奥がゆっくりと緩む。


 目を閉じる。

これでいい、と思う。理由はもう考えない。

しばらくして、ドアが開く音がする。


「……ユナ」

聞き慣れた声。

目を開ける。少しだけ視界が揺れる。


 宮野が、そこにいる。

ゆっくりと近づいてくる。

ベッドの横に立つ。

少しだけ見下ろす。その視線は、変わらない。

でも、ほんの少しだけ、満足そうに見えた。


「いいね」

短く言う。

「ちゃんと、そうなった」

頷く。自然に。

その言葉に、違和感はなかった。

宮野が、軽く触れる。確かめるみたいに。

逃げようとは思わなかった。

むしろ、それで完成した気がした。


 スマホが、また震える。

『今日もかわいいね』

少しだけ笑う。

その言葉が、ちゃんと自分に届く。もう、どこにも引っかからない。

窓の外の光が、揺れる。


「ユナ」

今度は、迷わずに応える。

宮野が、身を寄せる。距離が近づく。

一瞬だけ、呼吸が止まる。

拒む、という発想が浮かばない。

そのまま、軽く触れる。

唇。

ほんの一瞬。確かめるみたいに。

触れる。離れる。

何も言わない。

でもそれで十分だった。


 目を閉じる。

その感触が、ゆっくりと馴染んでいく。

違和感は、なかった。

むしろ、それが一番自然だった。


――最初からそうだったみたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ