はじめまして
待ち合わせ場所に向かう途中、何度も引き返そうと思った。
駅前の雑踏。見慣れたはずの景色。
でも、今日は全部が違って見える。
人の数。音。光。その中に、自分がいることが、やけに現実的だった。
スマホの画面を開く。
miyanoとのトーク画面。
『今日、来れる?』
『駅前のカフェ、わかる?』
『無理なら全然いいから。』
“無理ならいい”。
その一文に、逃げ道が用意されている。
なのに、ここに来ている。ユナとして。
店の前で、足が止まる。ガラス越しに中が見える。
人がいる。笑っている。会話している。
普通の場所。そこに入る。
それだけのことが、異様に重い。
スマホが震える。
『着いたら教えて。』
短い一文。
悠真は、少しだけ息を吸って、扉を押した。
店内の空気が、肌に触れる。
温度。匂い。音。全部が、直接体に入ってくる。
視線が、少しだけ集まる。ほんの一瞬。すぐに逸れる。
それでも、心臓が強く打つ。
席を見渡す。
奥の席。スマホを見ている人がいる。
顔は知らない。でも、わかる。あれだ。
近づく。距離が縮まる。あと数歩。
ここまで来て、初めて実感する。
“ユナ”が、現実の中にいる。他人の目の前に、出ていく。
顔が上がる。目が合う。
「……ユナ?」
声。少し低くて、柔らかい。
性別がはっきりしない。でも、違和感はない。
悠真は、ほんの少しだけ頷く。
「ほんとに来たんだ」
笑う。自然な笑い方。距離を詰めすぎない、でも遠くもない。
「座る?」
促されて、向かいの席に座る。
距離が、近い。
テーブル一枚分。
それだけで、逃げ場がなくなる。
「写真のまんまだね」
そう言いながら、宮野の視線が一度だけ下に落ちる。
顔から、首元、肩のラインへ。
すぐに戻る。何も言わない。
でも、その一瞬で、どこを見られたのかがはっきり分かる。
「……そう?」
やっと声が出る。ユナとしての声。
少しだけ高く、柔らかく。
それを出している自分に、違和感が薄れていることに気づく。
「うん。むしろ、実物の方がいいかも」
さらっと言う。その一言で、胸の奥がじんわりと緩む。
注文をする。何を頼んだのか、あまり覚えていない。
会話が始まる。
普通の会話。
どこに住んでるのか。何してるのか。
SNSいつからやってるのか。
どれも、軽い質問。
でも、その全部が、“ユナ”に向けられている。
「最初の写真、覚えてる?」
宮野が言う。悠真は少しだけ頷く。
「なんか、すごい良かったんだよね」
「……どこが?」
聞いてしまう。知りたくない気もするのに。
宮野は少しだけ考えてから、言う。
「無理してない感じ」
そう言った後も、視線は外れない。
瞬きの回数が、少しだけ少ない。
まるで、表情の変化を見逃さないようにしているみたいに。
「普通、こういうのってさ」
宮野は、スマホを軽く触りながら続ける。
「頑張ってる感じ出るじゃん。可愛く見せようとしてるっていうか」
画面を見せながら、ちらりとこちらを見る。
写真じゃなくて、今の顔を確認するみたいに。
比較されている。そう思った瞬間、喉が少しだけ乾く。
「でもユナは、なんか違った」
視線が戻る。まっすぐ。
「ただそこにいるだけで、成立してる感じ」
成立。その言葉が、重く落ちる。
沈黙が、少しだけ続く。
「こういうの、慣れてるの?」
問いかけた後、少しだけ首を傾げる。
そのまま、返事を待つ。
待っているというより、反応を見る姿勢だった。
「……まあ、少しは」
「そっか」
軽く頷く。
それから、何でもないみたいに続ける。
「私もさ、前に付き合ってた人が、こういうの好きで」
一瞬、音が消える。
“私”。“付き合ってた人”。
頭の中で、遅れて意味が繋がる。
女性。
でも、その事実は、驚くほど自然に収まる。説明も強調もないから。
「だから、なんとなくわかるんだよね」
さらっと言う。
まるで、重要じゃないみたいに。
会話はそのまま続く。何も変わらない。
でも何かが確実に変わっている。
悠真は、少しだけ息を吸う。
「……俺は?」
気づいたら、口に出ていた。
一瞬、沈黙。
宮野は、少しだけ首を傾げる。
「俺?」
「……あ、いや」
言い直そうとする。でも、もう遅い。
宮野の視線が、わずかにずれる。
顔から外れて、少しだけ下へ。
すぐに戻る。何かを切り分けたあとみたいに。
――さっきから、その視線が気になる。
見られているはずなのに、どこかで“見られていない”感じがする。
それでも、目が離せない。
宮野は、少しだけ考える顔をしてから、言った。
「ユウマくん、だっけ」
名前。一瞬、思考が止まる。
「……なんで」
宮野は、少しだけ笑う。
「なんとなく、見えたから」
そのまま、軽く続ける。
「……普通かな」
普通。その一言が、静かに落ちる。痛みはない。
ただ、何かが確実に切り分けられる。
「でも」
宮野が続ける。
「ユナは、いいと思う」
その一文で、呼吸が戻る。
さっき失ったものの代わりみたいに。
会話は続く。
笑う。頷く。相槌を打つ。全部、自然にできている。
でも、その全部が、“ユナ”としての反応だった。
店を出る。
外の空気が、少しだけ軽い。さっきよりも、現実が遠い。
「今日はありがとう」
宮野が言う。
少しだけ距離を取って、こちらを見る。
「やっぱり、会ってよかった」
その言葉に、胸が温かくなる。
「また、会える?」
その一言。迷いはなかった。自然に出ていた。
「ユナならね」
そう言って、少しだけ笑う。
でも、その目は笑っていない。
どこかで、もう結果が決まっているみたいだった。
帰り道。
ショーウィンドウに映る。ユナがいる。
その奥に、もう一つの輪郭は、ほとんど見えない。
部屋に戻る。ドアを閉める。
静寂。
いつもの空間。なのに、どこかが違う。
鏡の前に立つ。ユナがいる。しばらく見つめる。
ゆっくりと、口が動く。
「……ユナなら、か」
その言葉を繰り返す。違和感は、ほとんどなかった。
普通、と言われたのに、なぜか離れようとは思わなかった。
スマホが震える。
宮野から。
『今日は楽しかった。また、ユナに会いたい。』
悠真は、そのメッセージを見て、静かに笑った。
その表情は、どちらのものなのか、もうわからなかった。




