外出
ドアノブに触れたまま、しばらく動けなかった。
部屋の中は静かで、いつも通りで、何も変わらない。
鏡の中だけが違っている。ユナが、そこにいる。
スマホの画面にも、同じ顔がある。
さっき投稿した写真。いいねが増えている。コメントも。
『かわいい』
『ほんとに女の子みたい』
『どこで撮ってるんですか?』
――どこで。
その言葉が、少しだけ引っかかる。
ここだ、と答えられないことが、急に不自然に思えた。
ずっと部屋の中だけで完結している“存在”。
それでも、外の誰かはユナを“いるもの”として扱っている。
だったら。外に出ても、いいんじゃないか。
そう考えた瞬間、喉の奥がひりついた。
やめろ、と思う。
ここまででいい。十分だ。これ以上は、取り返しがつかない。
わかっている。それでも、指はドアノブから離れない。
鍵は、もう開いている。
靴を履く。ヒールの低いパンプスに、足を滑り込ませる。
まだ少しだけ慣れない感覚。
スカートの裾が、普段より少し高い位置で揺れる。足元が、妙に軽い。
ドアを開ける。
夜の空気が、直接肌に触れる。
冷たい。それだけで、現実だとわかる。
一歩、外に出る。ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。
廊下には、誰もいない。それだけで、少し安心する。
階段を下りる。一段一段、足の置き方を意識する。
いつもと違う感覚。重心が、少しだけ不安定。
下に着く。外灯の下に出る。
自分の影が、細く長く伸びる。
それを見て、足が止まる。影の形が、いつもと違う。
それが、妙に現実味を帯びる。
歩く。アパートの前の道。見慣れているはずの風景。
なのに、全部が少しだけ新しく見える。
視線が、気になる。誰も見ていないのに、見られている気がする。
通りの向こうから、車が一台通る。
ヘッドライトが一瞬だけ体を照らす。その光の中で、自分の姿が露出する。
心臓が跳ねる。でも、何も起きない。車はそのまま通り過ぎる。
誰も止まらない。誰も振り返らない。
それが拍子抜けで、同時に、少しだけ寂しかった。
駅前に向かうにつれ、人が増える。コンビニの前。信号待ち。
何人かの視線が、こちらをかすめる。
完全に無視されているわけじゃない。でも、決定的に何かを言われるわけでもない。
その曖昧さが、息苦しい。
バレているのか。バレていないのか。わからない。
信号が青になる。人の流れに混ざる。
その瞬間、少しだけ楽になる。
個人として見られない場所。ただの一人として、溶け込める場所。
その中で、自分の姿を確認する。ショーウィンドウに映る。
ユナが、歩いている。
スカートが揺れる。髪が肩にかかる。
それを見て、ほんの少しだけ、呼吸が深くなる。
外でも、成立している。その事実が、じわじわと広がる。
スマホが震える。ポケットの中で、小さく鳴る。取り出す。
宮野から。
『今、何してる?』
悠真は、少しだけ迷ってから、画面を見つめる。
正直に言うか。嘘をつくか。
ほんの数秒。指が動く。
『外、出てる。』
すぐに既読がつく。数秒後。
『ユナで?』
その一文に、呼吸が止まる。画面を見たまま、動けない。
どうしてわかる。何も書いていないのに。でも、否定する気にはならなかった。
『うん。』
短く返す。
少し間が空く。
その時間が、やけに長い。
やがて、返信が来る。
『いいね。ちゃんと“いる”感じする。』
胸の奥が、じわっと熱くなる。
ちゃんと、いる。
その言葉が、外の空気と混ざる。
駅前のベンチに座る。
人の流れを横目に見る。
誰も自分を知らない。誰も自分のことを気にしていない。
それでも、ここにいる。ユナとして。
その事実が、現実になる。スマホの画面と、同じ場所にいる。
内側と外側が、繋がる。
ふと、隣に誰かが座る。視界の端に、女性の細い腕。
少しだけ体が固まる。相手は、こちらを見ない。スマホを見ているだけ。それでも、距離が近い。
呼吸が浅くなる。バレるかもしれない。
いや、何が。わからない。ただ、心臓の音だけが大きい。
数分後、女性は立ち上がる。何事もなかったみたいに、去っていく。
それを見送って、ゆっくりと息を吐く。
何も起きなかった。それが、すべてだった。
その瞬間、気づく。
何も起きなかったことに、少しだけ満足している自分と、少しだけ物足りなさを感じている自分がいる。
見られなかった。でも、見られたかった。
その矛盾が、胸の奥で静かに広がる。
スマホを見る。
通知が増えている。新しいコメント。
『外でも絶対かわいいんだろうな』
悠真は、その一文を見て、小さく息を吸った。
今、ここにいる。外で。かわいいと言われている存在として。
それを証明したくなる。
立ち上がる。
駅前の明るい場所へ移動する。人通りの多い場所。光の中。
スマホを構える。カメラを起動する。
周りに人がいる。
それでも、構わなかった。むしろ、それが必要だった。
シャッター音。一枚。もう一枚。
少しだけ笑う。その表情は、部屋の中より自然だった。
投稿する。キャプションは、短く。「外。」
数秒後。
いいねとコメントが一気につく。
その中に、宮野。
『やっぱり、ユナは外の方がいいね。』
その一文を見た瞬間、胸の奥で何かが決定的にずれる。
外の方がいい。それは、つまり。
悠真は、ゆっくりと顔を上げた。
周りには、人がいる。音がある。光がある。その中に、自分がいる。ユナとして。
もう一度、ショーウィンドウを見る。
映っているのは、ユナ。それを見て、思う。
こっちの方が、ちゃんと現実だ。
その夜、部屋に戻っても、すぐには服を脱げなかった。
外の空気が、まだ体に残っている。
メイクを落とすのが、ひどく惜しい。
鏡の前で、長く立ち止まる。
ユナが、そこにいる。もう、部屋の中だけの存在じゃない。
スマホが震える。
宮野から。
『今度、ちゃんと会ってみたいな。』
その一文を見て、悠真は目を閉じた。拒否する理由は、いくらでも浮かぶ。
でも。
それ以上に、別の感情があった。
――会いたい。
その言葉が、自分の中から出てきたことに、まだ気づかないふりをした。




