名前を呼ばれるたびに
朝、目が覚めた瞬間、最初に思い出したのは夢じゃなかった。
スマホ。枕元に置いたそれを、ほとんど反射で掴む。
画面をつける。通知がいくつか増えている。
いいね。フォロー。
知らない名前ばかり。
そして、ひとつだけ、見覚えのあるアカウント。
miyano
胸の奥が、軽く跳ねた。
開く。昨夜のやり取りの続きが、そこにある。
『おはよう。昨日の写真、何回も見ちゃいました。』
悠真は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
何回も。その言葉が、じわじわと内側に広がる。
誰かが、自分の写真を、繰り返し見ている。
それは奇妙で、少し怖くて、でも、どうしようもなく嬉しかった。
返信を打とうとして、指が止まる。
悠真として返すのか。ユナとして返すのか。
ほんの数秒迷って、キーボードに触れる。
『おはよう。ありがとう。』
打ち込んでから、少しだけ言葉を足す。
そんなに見てもらえるなんて、思ってなかった。
送信。既読はすぐについた。
『だって、すごく自然だったから。』
自然。
その言葉に、呼吸が少しだけ深くなる。
悠真はベッドから起き上がった。
カーテンの隙間から入る光が、妙に現実的で、少しだけ邪魔だった。
洗面所へ向かう。鏡の中には、昨日メイクを落としたあとの、自分の顔がある。
見慣れているはずのそれを、少しだけ遠くから見る。
自然じゃないのは、どっちだろう。そんな考えが浮かんで、すぐに消す。
スマホが震える。
『また写真、見たいです。』
短い一文。
それだけで、喉の奥が乾いた。
出勤の準備をしながらも、頭の中は別のことで埋まっていた。
何を着ていくかじゃない。
帰ってから、何を着るか。
そればかり考えている。
シャツのボタンを留める手が、少しだけぎこちない。
ネクタイを締める感覚が、昨日よりも窮屈に感じる。
これ、こんなに息苦しかったか。
玄関で靴を履く。ドアノブに手をかけたまま、一瞬だけ立ち止まる。
昨夜の紙袋の位置が、頭の中に浮かぶ。
まだ、そこにある。当たり前のことなのに、少しだけ安心する。
会社に着く。
「おはようございます」
いつも通りの声。いつも通りの距離感。けれど、どこかがずれている。
デスクに座る。PCを立ち上げる。
メールを開く。未読がいくつかある。
そのどれもが、どうでもよく感じた。
昨日までなら、ちゃんと処理していたはずなのに。
今は、別の通知を待っている自分がいる。
ポケットの中のスマホ。気になって仕方がない。
画面を見るタイミングを計るみたいに、仕事の手を止める。
少ししてから、何でもない顔で取り出す。
通知が一件。
胸が少しだけ軽くなる。
開く。
宮野からだった。
『今日も、お仕事?』
たったそれだけのメッセージ。
なのに、周囲の音が一瞬だけ遠くなる。
返事を打つ。
『うん。普通に仕事。』
送信してから、少しだけ違和感が残る。
普通に。その言葉が、どこか嘘っぽい。
すぐに返信が来る。
『そっか。無理しないでね。』
その一文に、軽く息が詰まる。
無理しないで。そんなこと、今まで誰にも言われた記憶がない。
少なくとも、こんな風に自然には。
「おい、この前のやつ、まだ?」
隣から声が飛んでくる。現実が戻る。
「……あ、すみません、今やってます」
慌てて画面を閉じる。
PCに向き直る。
さっきまで感じていた温度が、一気に冷える。
キーを叩く音がやけに大きく聞こえる。
画面の文字が頭に入ってこない。ポケットの中のスマホが、やけに重い。
昼休み。
誰とも話さずに、コンビニのパンを食べる。味はほとんど覚えていない。
スマホを開く。SNSの通知が増えている。
いいね。フォロワー。コメントもいくつか増えていた。
『かわいいです』
『似合ってる』
『雰囲気好き』
どれも短い言葉。
でも、その一つ一つが、確実に何かを削っていく。
悠真はコメント欄をスクロールしながら、ふと気づく。
どれも、「ユナ」に向けられている。
当たり前だ。この写真は、ユナだから。
でも、その当たり前が、少しだけ怖い。
画面を閉じる。息を吐く。胸の奥が、さっきより軽い。
そして同時に、少しだけ空っぽになっている。
その日の仕事は、いつもより長く感じた。
時計を見る回数が増える。定時までの時間が、やけに遠い。
帰り道。
昨日と同じ道を歩きながら、違うことを考えている。
今日は、何を着ようか。そればかりだ。
でも、選べるほど持っていない。
昨日と同じ服。同じ組み合わせ。それしかない。
それでもいいはずなのに、少しだけ物足りなさを感じる。
駅前の明かりが、視界の端に入る。足が、止まる。
そのまま、少しだけ進路を変える。
アパレルショップの前。
ガラス越しに、マネキンが立っている。
柔らかい色のニット。細いシルエットのミニスカート。
整えられた“女の形”。
それを、ぼんやりと見る。
自分とは関係のないものだったはずなのに。
店内に入る。空気が変わる。
香り。音楽。照明。
全部が、少しだけ明るすぎる。
視線が、気になる。
でも、引き返さない。
「いらっしゃいませ」
声が飛んでくる。一瞬だけ、体が固まる。
でも、軽く頷いて、そのまま奥へ進む。
服を見る。手に取る。
素材の柔らかさが、指に残る。
似合うかどうかは、わからない。
でも、想像はできる。これを着た“ユナ”。
鏡の前に立つ。今の自分は、スーツ姿。
でも、その上に、別の輪郭が重なる気がする。
何着か手に取る。色。形。丈。
理由はうまく説明できない。
ただ、“近いもの”を選んでいる。
「ご試着されますか?」
店員の声。一瞬、迷う。喉の奥が乾く。
「……大丈夫です」
短く返す。
試着は、まだできない。そこまで踏み込む勇気はない。
レジへ向かう。会計をする。袋を受け取る。
「ありがとうございました」
その一言で、現実に戻る。でも、手の中の重みが、少しだけ違う。
店を出る。夜の空気。
さっきよりも、少しだけ軽い。
袋を、軽く握る。中身を確認しなくてもわかる。
それはもう、“ただの服”じゃない。
部屋に戻る。鍵を閉める。靴を脱ぐ。
そのまま、クローゼットへ向かう。
昨日の紙袋の隣に、新しい袋を置く。
少しだけ、並べて見る。
増えている。それだけで、わかる。
戻らない方向に、進んでいる。
でも。嫌じゃなかった。
スマホが震える。
宮野からのメッセージ。
『今日の、見たいな。』
短い一文。
それだけで、手が止まらなくなる。
服を脱ぐ。昨日と同じ手順。
でも、動きは少しだけ速い。
下着に手を伸ばすとき、もう躊躇いはなかった。
身につける。違和感は、昨日よりも薄い。
それが、少しだけ怖い。
新しく買ったニットをかぶる。ミニスカートを上げる。
サイズはちょうどよかった。
ウィッグを整える。鏡の前に立つ。
そこにいるのは、もう見慣れ始めた顔。
「……ユナ」
昨日よりも、自然に呼べた。
スマホを構える。写真を撮る。
一枚じゃ足りない。何枚も撮る。
角度を変える。光を変える。
“よく見える自分”を探す。
その行為に、抵抗はなかった。むしろ、少し楽しかった。
選んだ一枚を、投稿する。今度は、迷わなかった。
数分後。
通知が来る。いいねが増える。コメントが増える。
その中に、宮野の名前。
『やっぱり、今日もかわいい。』
悠真は、その一文を見て、静かに息を吐いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、何かが少しだけ削れる感覚。
それでもいい、と思ってしまう。削れていく方が、正しい気がする。
その夜。
メイクを落とす前に、もう一度鏡の前に立つ。
ユナの顔。少しだけ、笑っている。
その表情を見て、悠真は気づく。
ああ、と。戻るのが、昨日よりも少しだけ怖くなっている。
それが、何を意味するのか。まだ、考えないようにした。




