鏡の前でだけ、少し楽になる
金曜の夜は、街が少しだけ浮つく。
駅前のコンビニには缶ビールと揚げ物の匂いが混じっていて、改札から吐き出される人の顔はみんな疲れているくせに、どこか緩んでいた。明日が休みだからだろう。たったそれだけのことで、救われたような顔ができるのが少し不思議だった。
悠真は人の流れから半歩だけずれた場所を歩く。ぶつからないように、目立たないように、誰の記憶にも残らないように。
それは昔から得意だった。
会社でもそうだ。
会議では必要なことだけを言う。飲み会は呼ばれれば行く。笑うところでは笑う。怒られない程度に働いて、褒められもしないまま一日が終わる。
今日もそうだった。
「悪い、これ今日中に直せる?」
退勤五分前、隣の席の先輩が当然みたいな顔で言った。断れる空気じゃない。
悠真が「はい」と返したときには、もう先輩は上着を羽織っていた。
「助かる。じゃ、お先」
その一言だけ残して、すぐにいなくなる。
助かる。
便利な言葉だと思う。感謝しているようで、していない。
相手の中でこっちは、いてもいなくてもいい部品みたいなものだ。たまたま使えたから声をかけただけ。壊れたら別の何かに取り替えればいい。
別に、怒っているわけではなかった。そういうものだと、もう知っている。
知っているから、傷つかないように最初から期待しない。
なのに、帰り道でふとした拍子に、胸の奥が鈍く痛む日がある。
今日が、そうだった。
アパートに着く。築二十年を超えた二階建ての一室。外廊下の電気は片方が切れかけていて、白いはずの光がじりじりと鳴いていた。
鍵を開けて部屋に入る。誰もいない。当然だ。
靴を脱いで、ネクタイを緩める。鞄を床に置いた瞬間、全身から力が抜けた。冷蔵庫の低い唸り声だけが聞こえる。静かで、狭くて、他人の視線がない。そこだけは少しだけ好きだった。
電気もつけないまま、しばらく壁にもたれて立っていた。
暗い部屋の中で、窓に自分の輪郭が薄く映っている。
スーツ姿の男。背は平均より少し高いが、特徴のない顔。疲れた目。寝癖を押さえつけたみたいな髪。見慣れているはずなのに、鏡やガラスに映るたび、ほんの少しだけ違和感がある。
これが自分だと言われても、うまく飲み込めない。
悠真は息を吐いて、部屋の奥へ進んだ。クローゼットを開ける。
シャツ、ジャケット、冬物のコート。その奥。仕事用の服に隠すみたいにして、紙袋がひとつ押し込まれている。
少しのあいだ、手を伸ばせずにいた。
やめよう、と思う。
今日は疲れているし、シャワーを浴びて寝た方がいい。こんなことをしたところで、何かが変わるわけじゃない。わかっている。
それでも指先は、もう紙袋の紐に触れていた。
取り出す。
中には、淡いベージュのニット、黒いスカート、安いウィッグ、ピンクの下着。
必要なものは、だいたい揃っていた。
通販の画面を何度も開いては閉じて、結局、酔った勢いみたいに買ってしまったものだ。先月の終わりだったと思う。
最初は、ただの好奇心だった。正確に言えば、そういうことにしておきたかった。
昔から、女の服を見るのが少し好きだった。可愛いとか、きれいとか、そういう感覚はわかる。けれど、それは別に変なことじゃない。男が女物の服を見て「いいな」と思うことくらいあるだろう、と自分に言い聞かせてきた。
でも、本当は違うと、ずっと前から知っていた。
見ているだけでは足りなかった。
触れたかった。着てみたかった。
できることなら、そのまま別の誰かになってみたかった。
そんなこと、誰にも言えるはずがない。
悠真は袋の中身をベッドの上に並べた。部屋の空気が少し変わる。隠していたものを明るい場所に出したときの、あの居心地の悪さと、同時に少しだけ呼吸が深くなる感じ。
スマホを取り出して、音楽もかけずに洗面所へ向かった。
白い照明の下で、自分の顔を見る。
相変わらず冴えない。眉を少し整えてみても、劇的には変わらない。むしろ、男としての中途半端さが浮き彫りになる気がした。
「……何してんだろ」
誰もいないのに、小さく口に出る。
それでも手は止まらない。昨日の夜、動画を見ながら覚えた通りにファンデーションをのせる。失敗して拭き取る。もう一度やる。眉を描き足して、アイラインを引こうとしてまぶたをつつく。何度もやり直して、少しずつ顔の輪郭がぼやけていく。
男の顔を隠していく作業だった。
そう思った瞬間、喉の奥がひくりと動いた。
隠したいのか。消したいのか。わからない。
たぶん、どっちもだった。
服を着替える。ワイシャツを脱ぐ。肌に触れる空気が少し冷たい。
一瞬だけ躊躇ってから、袋の中の下着に手を伸ばす。
指先に触れた布は、思っていたよりも薄くて軽い。
「……」
言葉にならないまま、それを身につける。
サイズは合っていないはずなのに、不思議と強い違和感はなかった。
ただ、いつもの自分から一枚だけ剥がれたような、落ち着かない感覚だけが残る。
ニットを頭からかぶって、スカートのファスナーを上げる。
丈の感覚に落ち着かない。脚が妙に頼りなく見える。
ウィッグをかぶり、鏡の前で前髪を整える。
鏡の中にいるのは、知らない誰かだった。
もちろん、完璧ではない。肩幅は隠せていないし、手も骨ばっている。近くで見れば男だとわかる。そんなことは見ればわかる。
それでも。
スーツ姿でくたびれた顔をしていたさっきまでの自分より、今の方が、ずっと見ていられた。
悠真は鏡に近づいた。
曇ったみたいな目で、自分ではない顔を見る。
「あ」
声が漏れたのは、本当に無意識だった。
似合っている、とは思わない。
でも、醜くはなかった。少なくとも、いつもの自分よりは。
胸の奥のどこかが、じんわりと緩んでいく。
仕事のことも、駅前の人混みも、先輩の「助かる」も、少しだけ遠くなる。
息がしやすい。
その感覚に気づいた瞬間、逆に怖くなった。
こんなことで、と思う。
こんな格好をしただけで、少し楽になってしまう自分が怖い。
悠真は鏡から目を逸らし、洗面台の縁を握った。指先に力が入る。
やばい。これは、たぶん、よくない。
そう思うのに、もう一度だけ確認したくなる。
顔を上げる。鏡の中の自分もこちらを見る。
女、ではない。でも、男の自分より、少しだけましな何か。
その曖昧な存在が、たまらなく心地よかった。
部屋に戻ると、スマホの画面が暗く光っていた。
何となく手に取る。カメラを起動する。自撮りをする気なんてなかったはずなのに、自然に前面カメラへ指が動いた。
「……載せるわけないだろ」
誰に言い訳しているのかわからない。
でも、試しに一枚だけ撮る。
画面の中の自分は、鏡で見るよりも少し整って見えた。アプリが勝手に粗を消しているのだろう。肌の質感が曖昧になって、目元も少しやわらかい。
悠真はベッドに腰を下ろしたまま、写真を見つめた。
知らない誰かだった。けれど、嫌ではなかった。
SNSのアプリを開く。
鍵のかかっていない、ほとんど使っていないアカウント。学生のころに作って、そのまま放置していたものだ。アイコンも初期設定のまま。フォロワーは数人だけ。知り合いと繋がっていないことは確認してある。
指が止まる。
ここに上げたら、どうなるだろう。
誰かに見られるかもしれない。笑われるかもしれない。気持ち悪いと言われるかもしれない。
でも同時に、別の考えが浮かぶ。
可愛い、と言われたら。
その想像をした瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
悠真は唇を噛んだ。
そんなわけがない。都合のいいことを考えるな。そう思うのに、頭の奥ではもう、見知らぬ誰かの反応を待っている。
アカウント名を変える。
yuma_92
その文字列を消して、少し迷ってから打ち込んだ。
yuna
たった四文字で、背中が熱くなる。
名前が変わるだけで、別の扉が開くみたいだった。
プロフィール文は空白のまま。アイコンも設定しない。写真だけを選ぶ。キャプションを打とうとして、結局何も書けなかった。
投稿ボタンの上で指が止まる。
やめれば、まだ間に合う。
今日のことはなかったことにできる。服を脱いで、メイクを落として、眠ればいい。明日の朝には、またいつもの自分に戻っていられる。
そう思って、数秒。
悠真は、なぜか無性に悲しくなった。
戻りたいのか。あれに。
会社で目立たないように息を潜めて、必要なときだけ使われて、何も残らないまま一日が終わる自分に。
スマホを持つ手が震えた。
次の瞬間、投稿ボタンを押していた。画面が切り替わる。
あっけないほど簡単に、写真は世界のどこかへ放り出された。
「……馬鹿だろ」
笑おうとしたが、声はうまく出なかった。
急に怖くなる。すぐ消そうかと思う。誰かに見つかる前に。
でも、投稿されたばかりの画面を閉じられない。数字は当然、何も増えない。通知も来ない。静かなままだ。
当たり前だ。こんな無名のアカウントに、すぐ反応があるわけがない。
なのに、五分おきに画面を見てしまう。
シャワーを浴びようとしても、先にスマホを手に取る。水を出しているあいだにも気になって仕方がない。結局、メイクを落とす前にもう一度ベッドに戻った。
通知は、まだない。
少しだけ安心して、同時に少しだけ落ち込む。
何を期待していたんだろう、と自分で呆れる。
そのとき、画面の上部に小さく赤い数字が灯った。
息が止まる。
恐る恐る開く。
いいねが一件。知らないアカウント。プロフィールを見ても、誰だかわからない。女装系の投稿に反応しているらしいことだけがわかる。
たったそれだけなのに、指先が熱くなる。
さらに数分後、もうひとつ通知が来た。
今度はコメントだった。
悠真はしばらく開けなかった。
開いた瞬間に何かが決まってしまう気がしたからだ。
それでも見ないままでいられず、親指でそっとタップする。
そこに書かれていたのは、短い一言だった。
『かわいい。』
たった四文字。
それだけで、世界の見え方が少し変わった。
悠真は画面を見たまま動けなくなった。
冗談かもしれない。適当な社交辞令かもしれない。そういう文化圏の、軽い挨拶みたいなものかもしれない。
それでも、その一言はまっすぐ胸に入ってきた。
会社で「助かる」と言われるときには、何も残らない。
でも、今の一言は違った。
かわいい。
その言葉が、まるで薄い刃みたいに、男としての自分の表面をそっと削った。痛くはない。むしろ、心地よかった。いらない膜が一枚剥がれて、奥の方にやっと空気が触れるみたいだった。
画面を持つ手に、少し汗が滲む。
もう一度読む。
かわいい。
誰かが、自分に。いや、“自分”ではないのかもしれない。
今ここにいる、この格好をした誰かに。
それでもよかった。
悠真はゆっくりと、ベッド脇の姿見へ目を向けた。鏡の中の自分は、さっきよりも少しだけ輪郭を持って見える。
「……ユナ」
自分で打ち込んだ名前を、初めて口にする。
その二文字は思っていたよりも柔らかく、喉の奥で自然に転がった。
ユナ。
それは冗談でも、遊びでもなくなり始めていた。
スマホがもう一度震える。
通知。新しいフォロワーが一人。さらに、さっきのコメントをくれた相手から、短いメッセージが届いていた。
『はじめまして。すごく似合ってます。』
知らない名前のアカウント。
アイコンは風景写真。プロフィールは簡素で、年齢も性別もわからない。
けれど、その文面は妙に丁寧で、妙に優しかった。
悠真は何度もそのメッセージを読み返した。
画面の向こうにいる誰かは、今の自分を笑っていない。気持ち悪がってもいない。ただ、似合うと言っている。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
同時に、ぞっとした。
こんな言葉ひとつで、ここまで揺らぐのか。
洗面所の鏡ではなく、姿見の前に立つ。
スカートの裾を指先でつまむ。ウィッグ越しに肩へ落ちる髪を見下ろす。
さっきまでは、ただ楽だった。
でも今は違う。ここにいていい、と初めて言われた気がした。
もちろん錯覚だ。
相手は何も知らない。自分の本名も、職場も、帰り道に何を考えていたかも知らない。たまたま流れてきた写真に、軽く言葉を投げただけかもしれない。
それでも、悠真にとっては十分すぎた。
ずっと欲しかったのは、たぶんこういうものだったのだと、認めたくないのにわかってしまう。
必要とされたいわけじゃない。役に立ちたいわけでもない。
ただ、見てほしかった。できれば、少しでもきれいなものとして。
その夜、悠真はなかなかメイクを落とせなかった。
落としてしまったら、せっかく受け取った言葉まで一緒に消える気がしたからだ。
鏡の前に立ってはスマホを見る。スマホを見ては鏡を見る。
コメント欄の「かわいい」が、何度見ても現実味を帯びない。
深夜を回るころ、ようやくクレンジングを手に取る。
コットンに液を含ませて、頬へ当てる。
するりと肌色が戻る。
まぶたの線が消える。
少しずつ、知っているはずの顔が現れる。
それを見て、胸の奥が静かに沈んだ。
ああ、と悠真は思う。
戻るのが、こんなに嫌だなんて知らなかった。
全部落とし終えてからも、しばらく鏡の前を離れられなかった。
そこにいるのは、見慣れた自分だ。名前も戸籍も、明日の出勤も、この顔に紐づいている。
なのに、さっきまでの方が、少しだけ本物だった気がする。
スマホがまた震えた。反射的に振り返る。
新しい通知ではなく、さっきの相手からもう一通、短いメッセージが届いていた。
『無理してない顔、してますね。』
悠真はその文を見たまま、息をするのを忘れた。
何それ、と思う。
そんなこと、写真一枚でわかるわけがない。
でも否定できない。
今日、鏡の前にいたときだけ、確かに少し楽だった。
会社でも帰り道でもなく、あの狭い洗面所で、知らない顔をしていたあの時間だけ。
喉がひりつく。 返事を打つべきか迷って、結局できない。
ただ、相手のアカウント名だけを見つめる。
Miyano
宮野。
本名かどうかもわからない名前。
悠真はスマホを胸の上に置いて、ベッドへ倒れ込んだ。天井の薄い染みが視界に入る。いつもと同じ部屋の、いつもと同じ天井のはずなのに、何かが決定的に違ってしまった気がした。
眠気は来ない。
胸の奥だけが妙に熱い。
明日になれば、きっと冷静になる。
こんなのは一時の気の迷いで、また普通に戻る。そう思うべきだった。
けれど、目を閉じた瞬間に浮かんだのは、会社のデスクでも帰り道でもなく、コメント欄に並んだたった四文字だった。
かわいい。
その言葉を反芻するたび、暗い場所に小さく火が灯る。
そして同時に、別の何かが少しずつ薄くなっていく気がした。
悠真は布団の中で目を開けた。
真っ暗な部屋の中、クローゼットの奥にしまい直した紙袋の位置だけが、なぜかはっきりわかる。
明日も、と思ってしまう。
もう一度、あの服を着たら。もう一度、あの名前になったら。
また少しだけ、息がしやすくなるだろうか。
そう考えたところで、悠真はゆっくりと息を呑んだ。
たぶん、もう遅い。
その夜、自分の中で何かが始まってしまったことを、
まだ言葉にはできなかった。




