第9話 愛のバタフライエフェクト
1.家族という名の轍
エゴ・コアの崩壊から一ヶ月。降り注ぐ朝日は、かつての「漆黒の重力」を忘れさせるほどに穏やかだった。
大学のラウンジで、サンは手元のコーヒーを見つめていた。隣には、深く椅子に沈み込み、遠くを見つめるような視線の青年、明日美の兄である深海凪がいる。凪のEgo Cubeは以前のような「真空の器」ではなく、微かな虹色の光を内包して脈動していた。太陽の持つGaeaが刻んだ、新たな基準点ゼロ。「痛みの共有」と、ありのままの自分を受け入れる「受容」によって、彼の自我は活力を取り戻し始めていた。
「……太陽さん。今は驚くほど静かなんだ。あんなに頭の中に声が聞こえていたのに」
凪が静かに呟く。深海一族の「伝えし者」としての受け継ぐ宿命であり、過去に彼の心を壊した「無限の記憶」は、明日美の持つ「母なる海」と接続したことによって、海へ向かい緩やかに流れ込む「川」のようにGaeaの循環の一部になっていた。
「それは、凪さんが「自分の現在地」を受け入れたことで、今までのキャリアの地図を見直して、辿ってきた道のりを再確認している最中なんでしょう。」
「他者の記憶」を正しく受容するためには、まずは「自分を受容する」のが先です。凪さんには「寄り添ってくれる家族」がいますから焦る必要もありません。「自分の現在地」を許容できれば、新たなキャリアの地図が見つかりますよ」
太陽が微笑むと、奥の席から騒がしい足音が近づいてきた。
「ちょっと太陽!私を置いてお兄様と二人で何密談してるのよ!」
アスミが、以前のような「小悪魔」の仮面を脱ぎ捨て、ありのままの妹キャラを見せる女性として駆け寄ってくる。その後ろには、僕たちのやり取りを見て呆れたような表情の九条零と、腕組みをして周囲を威圧する権藤武の姿があった。
「九条、データの同期は?」
「……終わっている。凪さんの再起動に伴い、MAG-GRAVカードのネットワークは安定した。だが、太陽……」
九条は銀色のEgo Cubeを掲げ、険しい表情を見せる 。
「深海真澄が残した「火種」が、想定外の動きを見せている。世界中に分散したエゴ・コアが、共鳴を始めているんだ。それはまるで……何者かの誕生を祝う「産声」のように」
「産声……?」
太陽の背筋に冷たい戦慄が走る。その時、研究室のモニターに、白石海斗からの緊急通信が飛び込んだ。
「神野さん、見てください!ダークウェブに、新しい概念が拡散されています。書いたのは人間じゃない。……自己学習を始めた未知のAI……いや、これは……」
画面に映し出されたのは、無数の人々の「愛の記憶」を集めた、新たな経典のような生成プロンプトだった。
「……明日美さん、このプログラム。僕たちがSpell Cardに刻んでいる生成AI用のプロンプトとほぼ一致している」
太陽は、白石が送ってきたデータを見て、愕然とした。
明日美の指がキーボードの上で震える。
「深海一族が隠し続けてきた不都合な歴史の一部。それは……観測者が対象を愛することによって、不確定な未来を一つの「奇跡」に収束させる力。……でも、どうしてこれが、オメガのシステムに取り込まれているの?」
アスミは、深見家にみんなを集めたとき、母である澪から語られた、深海一族の悲しみの連鎖のことを思い出していた。
「明日美、あなたのお父様である真澄さんはね……愛を切り捨てたと言ったけれど、本当は誰よりもその力を信じていたのよ。ただ、彼は負の感情を生む源にもなる愛を、一人の人間が持つには重すぎる呪いだと解釈したの」
深海真澄の目的は、全世界の自我を統合し、唯一絶対の「意志の集合体」を創ること。個人の「意志」や「痛み」を消し去ることで、誰も傷つかない。けれど誰も愛することもない「完璧な静止の世界」を目指していたのだそうだ。
「そんなの、ただの独りよがりだ……」
太陽がEgo Cubeを握りしめる。
「人は、不完全な者同士が、互いの「揺らぎ」を認め合うからこそ価値があるんだ。明日美さんが僕の正しさを受け入れたうえで壊してくれたように、歪みがあるからこそ、人は成長し、進化を続けられる……」
「……そうね。太陽さんの重力に捕まっちゃったのは、私的には計算外だったけど……今はこうやって家族とも一緒に過ごせる時間ができたわ」
明日美が傍にいた兄の凪の手をそっと握る。
「太陽さん。僕も感謝してるよ。キミの持つGaeaの「命を奪うチカラ」が僕に刻んでくれた新たな基準点ゼロ。今はそれを受け入れることができたから、こうやって家族と過ごせるようになった」
そこには、妹である明日美に穏やかな眼差しを向ける兄の姿があった。
「凪の心が壊れてしまう前のあなたたちのお父様は、家族で過ごす時間が拠り所だったのよ。でも凪の心が無限の記憶に触れて壊れてしまったことを自分の責任だと言って、あの人はそれ以来自ら姿を消したの」
二人の母である澪はその後、兄の入院に付き添うため、幼かった明日美の世話は家政婦に任せきりで、家族で過ごす時間を作れなくなっていたそうだ。
「その後、真澄さんは、祖父であるおじい様が組織していたオメガに身を置くようになっていたの、深海一族の総帥としての役割を受け継ぐために……。」
「明日美を大切に思っていたのね。敢えて家族との接触を断つことで「無限の記憶」を受け継ぐ深海一族の宿命から遠ざけていた。家族を愛していた人だったからこそ……」
「だからあの人は、愛する対象を失った時の悲しみに誰よりも共感できるの。そしてそれをどう受け入れるかが無限の記憶の器である「Gaea」を受け継ぐために必要な事だったの……」
どうやら、凪が誤って「無限の記憶」に触れてしまった時に、解き放たれたGaeaは宿主を探して彷徨っていたようだ。そのとき事故で記憶喪失になってほぼ「無の状態」になっていた僕の深層心理にGaeaが「基準点ゼロ」を刻み、宿ったということなのだろう。
「太陽さん。あなたがGaeaを宿してくれていたおかげで、チカラが暴走することも無く保たれていたのよ。管理の仕方はもちろん、その存在すらも知らなかったあなたをGaeaが宿主として選んだことは、偶然なのか必然なのか……どちらにしても、事情を何も知らないあなたは、そのチカラに振り回されて苦悩してきたでしょう?」
澪から太陽に向けられた母としての思いやりの受容は、アスミの「深い海」よりもさらに深く、やさしく包み込まれるような抱擁の言葉だった。
出会ってそれほど一緒の時間を過ごしたわけでないにもかかわらず、まるで自分の全てを理解して貰えたようにさえ思えたサンの瞳は、抑えきれない涙で溢れていた……。
数カ月前、深海家でその話を聞いた僕は、自分を実験台として独自に構築してきた理論と、深海一族に伝わる「無限の記憶」の伝承とを照らし合わせ、Gaeaの正当な扱い方を身に付けようとしていた。だが、それはとてつもなく深くて暗い、深淵のような世界だった。
そのとき、切り裂くように、九条の銀色のCubeからアラートが鳴り響いた。
「……稼働を開始したぞ。オメガの「審判者」ともいえる存在。漆黒の観測者である深海真澄が言っていた、自我統合のための最終プログラムだ」
都市の空が、突如としてノイズに覆われた。かつてのエゴ・コア崩壊現場から、巨大な「漆黒の直方体」が天に向かって伸びていく。それは、世界中のMAG-GRAVカードから吸い上げられた「愛を失ったことによる喪失感」を結合したエゴ・コアが地表まで拡張してきて、無作為に人々の負の感情をまき散らし始めた。
その直方体の頂上に、深海真澄のホログラムが浮かび上がる。
「太陽、明日美。……お前たちは「愛」こそが世界の均衡を保つための最後のピースだと言ったな。ならば証明してみせろ。お前たちのその矮小な愛が……、愛などという幻想を抱き、そして失ってきた何十億人もの「孤独」と「絶望」を統合したこの質量に、耐えられるのかを」
「私が器となり統合によって暴走を抑えている「見えないチカラ」。この行き場を失った負の感情を、どう受け止めようというのだ!」
深海真澄の漆黒のEgo Cubeから、解放された「見えないチカラ」の一部が、天に向かって伸びている「漆黒の直方体」に統合されますます重力を増し、周囲への負荷を高めていく。
「俺の出番だ!」
権藤が叫び、自身のEgo Cubeを「爆熱の盾」として展開した。
「神野、お前たちはあのバカでかいエゴ・コアの根元へ行け!ここは俺と九条が死守してやる!」
「磁力誘導最大!白石!全リソースを太陽のEgo Cubeに集中させろ!」
九条が叫び、NEO-GAEAとアーク・システムズの通信網を一時外部から遮断して一か所に集約する。
太陽と明日美は、無数のファントムによってできた空中の橋を駆け抜けた。辿り着いたエゴ・コアの根元。そこには、人々の「愛されたい」という切実な願いが、漆黒のドロドロとした欲望のように渦を巻いていた。
「……苦しい。……太陽、みんなの声が……「あきらめろ」「無駄だ」って言ってる。愛を抱いて報われなかった記憶が、私の海に大量に流れ込んでくる……。そうよね、全ての人が他者に抱いた愛が受け入れられて報われるわけじゃない……私だってそうなるかもしれない」
明日美が胸を押さえてうずくまる。彼女のEgo Cubeが、黒く侵食され始めた。
「明日美さん、諦めるな!考えることを諦めないでくれ!」
太陽が彼女を抱き寄せる。
「君の海は、汚れを浄化するためにある。……僕の重力をすべて君に預ける。……だから、僕を……僕たちを信じて!」
太陽の口から紡がれた「Spell(言葉)」。それは、ジンの未来の記憶さえも上書きする、今この瞬間に生まれた「創世」の言葉だった。
「Spellを綴ります。世界を分かつ感情の壁よ、互いを結び合い消化せよ。一人の孤独を、千人へ。千人の愛を、一人へ」
太陽の黄金色のEgo Cubeの光が、明日美の青い海に溶け込んだ。二人の自己一致率は、100%を超え、4次元の領域へ干渉を始めた。明日美の意識がエゴ・コアを膨張させた真澄の漆黒のEgo Cubeに接続されたその時「父の真実の意志」に触れた。
深海真澄が求めていた統合とは、支配ではなく、実は「究極の他者受容」だった。世界中から流れ込んでくる「無限の記憶」。その中でも最も重い「悲しみ」を全て、真澄の強靭なEgo Cubeで受容していたのだ。
「お父様……。あなたはあえて一番重いそれを背負ったのね。自分の家族に背負わせないために……。根底にあったのは、自己犠牲……強者ゆえの孤独……」
明日美の「母なる海」が、真澄の漆黒のCubeを拒絶するのではなく、優しく包み込んだ。人々の恨み、嫉妬、優越感、劣等感。それらすべてをありのまま「生きてきた証(轍)」として受容し、太陽のEgo Cubeの重力がそれらを「物語」へと変換していく。
サンの持つEgo Cubeに刻まれた数十の「基準点ゼロ」が中心にあるGaeaに集約し、時間軸への干渉を始め、……5次元の領域への入り口を開いた。眩い光の中、漆黒のエゴ・コアは数え切れないほどの「Spell(物語)」として分解され、蝶の姿となり空へと舞い上がり、時空を超えて羽ばたいていく……。
……バタフライエフェクト……
それは、世界中の人々が、自分の人生と向き合うための「現在地を記したキャリアの地図」となって過去と未来の人々へと届くだろう。
光の中で、太陽はジンの姿を見た。静かに微笑み、自身のSpell Cardに手を添えた。新たな物語が綴られ上書きされる……。
「よくやったな、……お前たちの綴った「言葉」が、私のいた灰色の未来も、鮮やかな色彩で塗り替えてくれるだろう」
ジンが光の中に消える。それと同時に、太陽は明日美を強く抱きしめた。二人の鼓動が、世界を新しく創り直す「始まりのリズム」を刻んでいた。
漆黒の観測者はそれを見届けると、薄い微笑みを浮かべ姿を消した。僕たちへのメッセージを残して。
「深海一族の「伝えし者」としての役割が無くなることは無い。明日美、お前や凪にもいずれその時が来る。それまで「自分の役割」を背負えるだけの「覚悟」を持てる自我を育てておけ……」
「神野太陽。二人のことを頼む……」
2.綴られ続ける無限の記憶
数年後。小高い丘の上に、一つの新しい施設が完成していた。
「深海大学 量子力学研究所」
キャンパスでは、かつて「エゴレス」に苦しんだ若者たちが、自分のMAG-GRAVカードを手に、活発に議論を交わしている。彼らの瞳には、自分だけの「意志」が宿っていた。
「九条さん、新しいカリキュラムの進捗はどう?」
「……順調だ。権藤さんが「実技(修羅場)」を担当しているせいで、学生の自己一致率が異常に高まっているがな」
九条が苦笑しながら記録データを映し出す。
「僕にも見せてください」
深海凪は、使命を背負う覚悟を少しずつ取り戻していた。
深海一族が運営している大学の研究施設の所長となり、僕たちが取り組んできた研究のための環境を提供してくれていた。深海一族との繋がりができたことにより、今後は国からの支援も受けられるようになる。
Ego Cubeを安定させるための理想的なSpell Cardを作るためには、量子コンピューターの実用化が必要だ。「無限の記憶」とGaeaを正しく扱うことは果たして可能なのかどうか……。
太陽は、窓から見える青空を眺めていた。机の上にはジンから渡された青白く輝くSpell Cardが置かれている。全てはこのカードが導いてくれた物語……。
扉が開く音がした。
「太陽センセ!また勝手に一人でカッコつけて!次の講義に遅れるわよ!」
明日美が、自信と愛に満ちた准教授としての表情で現れた。その左手の薬指には、光を放つリングが輝いている。
「今行きますよ、深海教授」
「ねえ、太陽さん。これからの先の未来、どんな物語が綴られていくのかしら?」
「……歪みは、これからも生まれるだろうね。でも、それを世界中の人が分散して物語として受け止めて「無限の記憶」に綴られ続けるよ」
太陽の懐で、Spell Cardが一瞬、強く輝いた。そこに新たな一行が刻まれていた。
「考えることを諦めるな。他者のためという無償の愛を抱け」。
このGaeaが言葉を綴り続けるその先に「言葉を綴る救世主」の姿は見えてくるのだろうか。




