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第10話 偽りの墓標と禁忌の扉

1.神童と呼ばれた少年


世界が「愛」によって書き換えられ、新たな創世記が始まったその裏側で、深海大学の敷地内に鬱蒼とした森に囲まれた旧病棟がある。現在は「第0研究棟」と呼ばれ、その周囲はまるで時間が静止しているかのような、そんな佇まいの場所だ。


所長室の窓から差し込む月明かりが、深海シンカイ ナギの横顔を白く切り取っている。 31歳。線の細い身体を白衣に包み、色素の薄い瞳で手元のコーヒーカップを見つめるその姿は、まるで硝子細工のように美しく、そして脆そうだった。


「……所長。例の物の解析、準備が整いました」


部下の研究員が、恐る恐る声をかける。凪はゆっくりと顔を上げ、穏やかな、しかし感情の読めない微笑みを浮かべた。


「ありがとう。……置いておいてください」


机の上に置かれたのは、焼け焦げたような黒い金属片と、古びた革表紙の日記帳。父・深海真澄が姿を消すときに置いて行ったものだ。凪はその黒い金属片。初期型Ego Cubeの残骸に、震える指先を伸ばした。


触れた瞬間、指先から冷たい電流が奔る。それは物理的な電気ではない。数十年前に封印されたはずの、忌まわしい記憶の奔流。「静寂サイレンス」によって保たれていた凪のEgo Cubeに封印されていた、過去を呼び戻す。


「ああ、そうだ。僕は、知っていたんだ。この世界の残酷な真実も。父さんの本当の顔も。そして……明日美が、本当はどうなったのかも。」


視界がぐらりと歪み、凪の意識は、色彩を失った「あの日」へと引きずり込まれていった。


記憶の中の世界は、常に薄曇りの灰色だった。深海家の広大な屋敷。厳格な規律と、静寂だけが支配する家。


「凪様は天才だ」


「一族の悲願、無限の記憶を受け入れられるだけの器をお持ちだ」


大人たちの囁き声が、幼い凪の耳にこびりついて離れない。当時7歳の凪は、一族の期待を一身に背負い、毎日過酷な「訓練」を受けていた。膨大な歴史のデータ、人類の負の感情、それらを受け入れて自我を保つ訓練。

予防接種や英才教育と呼べば聞こえはよいが、普通の子供なら数分で逃げ出すような、一歩間違えば人体実験ともとれる訓練だ。凪はただ静かに、無表情でそれに取り組んでいた。


耐えられた理由は、たった一つ。離れに住まわされている、4歳年下の妹、明日美の存在だった。


「お兄様!見て、お庭で綺麗なお花を見つけたの!」


訓練の合間、こっそりと抜け出して会う明日美だけが、凪の世界に残された唯一の「色彩」だった。彼女の無邪気な笑顔。温かい小さな手。


「僕が頑張れば、明日美はこの苦しみを知らなくて済む。僕が「器」になれば、明日美は普通の女の子として生活できる。」


そう信じていた。

だが、運命は、幼い兄妹の願いを踏みにじった。


ある晩、凪は父である真澄の書斎に呼び出された。重厚な扉を開けると、父は背を向け、窓の外を見つめていた。


「……凪か。入りなさい」


父の声はいつも通り優しかったが、どこか決定的な「冷たさ」を含んでいた。机の上には、見たことのない小さな黒い箱のようなものが置かれ、不気味な明滅を繰り返している。


「父さん、今日も訓練ですか?」


「いや。今日は……お前に、伝えなければならないことがある」


父はゆっくりと振り返り、凪の目を見ずに言った。


「明日美が……死んだ」


時が止まった。


「……え?」


凪の口から、乾いた音が漏れる。


「伝染病だ。病院に連れて行ったが手遅れだったよ……。感染拡大の恐れがあるからと誰も面会できなかった」


父の言葉が、記号のように頭の中を滑っていく。嘘だ。昨日の夕方、あんなに元気に笑っていた。明日また遊ぼうと約束した。そんな急に、死ぬはずがない。


「……嘘だ……!会わせてください!明日美に……明日美に会わせて!」


凪は父にすがりついた。だが、父は無表情のまま、凪を冷たく突き放した。


「泣くな。感情はノイズだ。……明日美の死を無駄にするな。お前にはもう、守るべき「個」への執着は必要ない。これで心置きなく、一族の使命に没頭できるはずだ」


父の瞳に映っていたのは、息子への哀れみではない。「不純物が取り除かれた」ことへの安堵だった。その時、凪は悟ってしまった。明日美が本当に死んだのかどうかは分からない。だが、父にとって、明日美という存在は、器を完成させるための「邪魔なノイズ」でしかなかったのだと。


絶望が、凪の心を黒く塗り潰していく。守りたかった色彩。生きる意味。それら全てが、一族の使命の前に消え失せた。


「……わかり、ました。父さん」


凪は涙を拭い、立ち上がった。その瞳からは、少年らしい光が完全に消え失せていた。


(もし明日美がいないなら……この世界に、僕が自我を保つ意味なんてない)


その夜。凪は、屋敷の使用人たちが寝静まるのを待ち、再び父の書斎へと忍び込んだ。父への復讐ではない。明日美に何があったのか、ただ、確かめたかった。

父が家族を犠牲にしてまで、守ろうとしている「一族の使命」とは何なのか。「無限の記憶」とは何なのか。



2.深淵の少女と呪い


月明かりの下、机の上に置かれた黒いEgo Cube。それはまるで、地獄へと続く小さな門のように、凪を誘っていた。


凪は震える手で父の日記を開いた。そこには、深海一族が数千年前に犯した「罪」と、Gaeaという存在について綴られていた。


「Gaeaは地球の意志ではない。人類が排出し続けた負の感情を濾過するための、巨大な集積回路のことを指している」

「我ら一族は、そのフィルターの管理者。汚れきった記憶を自ら背負い、世界を浄化する人柱となる宿命」


ページをめくる手が止まらない。「初代Gaeaの暴走」「人柱の選別」「失敗作の廃棄」……。おぞましい言葉の羅列。


そして、最後の日付のページに、走り書きのような文字があった。


「凪の適合率は過去に類を見ない高さだ。彼はフィルターではなく、Gaeaそのものと成り代わることのできる「王」の器だ。……だが、彼には「愛」という欠陥がある。妹への執着が、適合を阻害している。……排除しなければならない」


「……排除……」


凪の喉から、ヒューッという音が漏れる。父は、僕を「王」にするために、明日美を……。


怒りよりも先に、底知れぬ虚無が凪を襲った。こんなもののために。こんな、ゴミ捨て場の管理者になるために、僕たちは生まれたのか。


凪の視線が、黒いEgo Cubeに吸い寄せられる。この中に、世界の全てがある。父が狂信し、僕たちを犠牲にした元凶。


(……見てやる。父さんが見た景色を。……そして、壊してやる。こんな世界、僕の記憶ごと……!)


凪は、禁忌とされるEgo Cubeに、その小さな手をかざした。


瞬間。屋敷全体が揺れるほどの衝撃と共に、凪の意識は肉体を離脱した。視界が弾け飛び、極彩色のノイズが脳髄を焼き焦がす。


それは、「情報」などという生易しいものではなかった。何億、何兆という人類の、嫉妬、憎悪、絶望、悲嘆。死にゆく者の呪詛。産み落とされた瞬間の苦痛。太古から未来へと続く、終わりのない「悪意」の濁流。


「あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!!」


凪の絶叫は、声にならなかった。幼い自我など、瞬く間に粉砕され、情報の海に溶けていく。 「個」としての輪郭が消え、自分が誰なのか、ここがどこなのかも分からなくなる。


だが、その意識が完全に消滅する直前。無限の闇の底で、凪は「それ」を見た。


それは、Gaeaの中心核コア。全ての記憶が流れ着く最深部に、一人の「少女」が眠っていた。


(……あす、み……?)


いや、違う。よく似ているが、明日美ではない。もっと古く、もっと神々しく、そして誰よりも深く「絶望」している少女。彼女は、泥のような記憶の底で、静かに泣いていた。


「……見つけてくれたの? ……新しい、にえの子……」


少女と目が合った瞬間、凪のEgo Cubeは崩壊した。


意識が砕け散る寸前、凪の精神は、奇妙な空間に漂着していた。そこは、泥のように重く、けれど羊水のように温かい、漆黒の海の底。あらゆる感情が溶け合い、形を失っていく「感情の海」の中心で、凪は彼女と対峙していた。


体育座りをして、膝に顔を埋めている少女。その姿は、やはり明日美に酷似していた。


「……あなたは、だあれ?」


少女が顔を上げる。その瞳は、何千年もの時間を吸い込んだように深く、そして空っぽだった。 凪は、自我が溶け出しそうな恐怖を必死に抑え、震える声で問いかけた。


「僕は……深海、凪。……君は、明日美じゃないの?」


少女は首を横に振る。その動きに合わせて、繋がれた鎖がジャラリと悲しげな音を立てた。


「アスミ……?知らない名前。……私はただの器。最初の「にえ」。……お父様が、私をここに閉じ込めたの」


「お父さん……?」


「そう。……生きるために、……人間の汚い感情を、全部私が飲み込めば、みんな幸せになれるって。……だから、私はずっとここで、悲しんでいる人たちの声を聴いているの」


少女の言葉が、凪の脳裏に直接イメージを流し込む。

それは数千年前の記憶。ある一人の国王が、愛する娘の病を治すために禁断の秘術に手を染めた。太陽の神に祈りを捧げ彼女の頭部に王国に伝わる虹色に輝く石「Gaea」を埋め込むことで生命維持を図ったのだ。その際Gaeaの「命を奪うチカラ」が発動した。彼女はGaeaの宿主として適合したのだ。

だが、その代償として娘は全ての記憶と感情を失ってしまった。

愛する娘が、父である自分のことすら忘れてしまったことに国王は絶望し、そして狂った。


「娘を感情の無い人柱にした太陽の神など価値はない。……ならば、このGaeaのチカラを利用して、ほのかの者を犠牲にしてでも、私が理想とする「悲しみのない世界」に創り直してやろうぞ」


それが、深海一族の伝えし者としての「使命」の始まりとなった。一族が守り続けてきたのは、世界の安定のためではない。 王が犯した「愛ゆえの過ち」と、娘への罪悪感から生まれた「世界への復讐」のためだったのだ。


「……そんなの……ひどすぎる……」


凪は涙を流した。父、真澄が言っていた「一族の悲願」の正体が、こんなにも身勝手で、救いのないものだったなんて。明日美を排除してまで、父さんが手に入れたかったのは、この「呪われた少女」の力だったのか。


少女は、泣いている凪を見て、不思議そうに手を伸ばした。その冷たい指先が、凪の頬に触れる。


「……どうして泣くの? ……あなたの瞳、とっても綺麗。……私の中にある「泥」とは違う、キラキラした光が見える」


少女が微笑んだ瞬間、周囲の闇が凪の体内に逆流し始めた。それは攻撃ではなかった。少女が、数千年ぶりに触れた「純粋な同情(愛)」を欲して、凪と一つになろうとしたのだ。


「……一緒にここにいれる? ……そうすれば、もう寂しくないよ。……あなたの体をちょうだい?」


「う、あぁぁぁぁぁぁッ!!!!」


凪の絶叫が深淵に響く。少女の膨大な「寂しさ」が、凪の自我を侵食していく。記憶が混ざる。感情が溶ける。深海凪という存在が消え、Gaeaの一部として上書きされていく。


(……ダメだ。……飲み込まれる……!でも……)


意識が消える寸前、凪は最期の力を振り絞って、少女の手を握り返した。


(……君も、寂しかったんだね。……僕と同じだ。……独りぼっちで、怖かったんだね)


拒絶ではなく、共感。その瞬間、少女の瞳が見開かれた。


「……え?」


凪の「鏡面ミラー」のような自我が、少女の孤独を反射し、彼女自身に見せつけたのだ。少女は自分の姿を見て、驚き、そして怯えたように手を引っ込めた。


「……違う。……私は、あなたを壊したくない。……あなたは、私とは違う……」


少女の姿が遠のいていく。深淵の底から、凪の意識が弾き飛ばされる。


「……忘れないで。……いつか、本当の「愛」が私を見つけてくれるまで……私はここで待っているから」


少女の最期の言葉が、呪いのように、祈りのように、凪の心に焼き付いた。



3.壊れた心と父の背中


「――ッ、はぁッ、はぁッ、はぁッ!!」


凪は、書斎の床で目を覚ました。全身が汗で濡れ、心臓が早鐘を打っている。目の前には、沈黙した黒いEgo Cube。


「……何か見えたのか?」


低い声に、凪はビクリと震えた。振り返ると、入り口に父、真澄が立っていた。その表情は、怒りでも悲しみでもなく、ただ底知れぬ「虚無」だった。


「……父、さん……。……あの女の子は……誰……?」


凪は、壊れかけた意識で問いかけた。父はゆっくりと歩み寄り、凪の前にしゃがみ込んだ。そして、優しく、しかし氷のように冷たい手で、凪の頭を撫でた。


「……あれは私たち深海一族の祖先の「意志」だ。我ら一族の罪の深淵……。そして、私たちが背負わなければならない「無限の記憶」そのものだ」


父の目には、狂気的なまでの「使命感」の奥に、押し殺した激情の炎が見えた。あの少女が抱える孤独。そして、囚われてしまったのだ。彼女を救うためなら、実の子供たち(明日美や凪)を犠牲にしても構わないという、歪んだ愛の迷路に。


「凪。お前は「深淵」を覗き、そして生還した。……やはり適正があることは間違いない」


父は立ち上がり、冷徹に告げた。


「そして、お前の心は壊れた。……感情回路が焼き切れ、もう二度と「愛」を感じることはないだろう。……それでいい。それが、王に必要な資質だ」


「……あ……ぅ……」


凪は何かを言おうとして、言葉が出てこないことに気づいた。感情が動かない。涙も出ない。ただ、胸の奥に異様な「静寂」だけが広がっている。


父は背を向け、部屋を出て行こうとした。その背中が、かつて遊んでくれた優しい父のものとは、別人のように小さく、そして孤独に見えた。


「……明日美のことは忘れろ。……お前は今日から、深海家の跡継ぎとなるべく生きるのだ」


扉が閉まる。暗闇に残された凪は、表情のない顔で、ただ黒いEgo Cubeを見つめていた。


(……父さんは、間違っている)


感情を失ったはずの心の底で、小さな「ノイズ」が発生した。それは、あの深淵の少女も気が付いた、死んだと聞かされた妹、明日美への想い、消えることのない「結び」が残っていたのだ。


(……僕は、壊れてなんかいない。……ただ、静かに待っているだけだ。……いつか、この呪いを終わらせる時が来るのを)


凪の瞳に、鏡のような光が宿った。それが、彼が「心を閉ざす」ことで自分を守り、父と対峙する道を選んだ瞬間だった。


「……所長?大丈夫ですか?」


部下の声で、凪の意識は急速に現在へと浮上した。第ゼロ研究棟の所長室。窓の外は変わらぬ月夜。手元のコーヒーは冷え切っていたが、額には冷たい汗が滲んでいる。


「……ええ。少し、昔の夢を見ていました」


凪は、指先に触れている黒い金属片。初期型Ego Cubeの残骸からゆっくりと手を離した。物理的な接触時間はわずか数秒。だが、その瞬間に脳内を駆け巡った情報の奔流は、彼が数十年間「静寂」の檻に閉じ込めてきた感情の蓋を開いたようだ。


(……思い出した。すべて)


父、真澄の冷徹な瞳。「明日美は死んだ」という嘘。そして、深淵の底で待ち続ける、あの少女の嘆き。


あの日、父は凪に「心を壊せ」と命じた。 感情を捨て、愛を捨て、ただ情報をろ過するだけの「王」になれと。だから凪は、鏡になった。悲しみも、怒りも、絶望も。すべてを反射し、自分の内側には何も残さない「空虚な鏡面」。そうすることでしか、狂った父の期待に応え、そして亡くなったと告げられた妹、明日美との「結び」を守る方法はなかったからだ。


「……でも、父さんは間違っていた」


凪は、机の上に置かれた古びた革表紙の日記帳を手に取った。父が失踪する直前まで書き記していたと思われるその手記。パラパラとページを捲ると、最後の方に、震える文字で新たな記述が追加されていた。


「計画は修正する。……凪は失敗作ではない。彼は「愛」を知ることで完成する。……だが、その愛は彼を殺すだろう」


(……まだ、諦めていないんですね。父さん)


凪の瞳が、鏡のように冷たく光る。父は生きている。そして、数年前のオメガ騒動の裏で、今もまだ「一族の使命」を全うするための実験を続けている。この日記と金属片を残して行ったこと自体が、父からの「招待状」なのだ。


「来い、凪。……お前の「静寂」で、私の絶望を終わらせてみろ」


凪は、父からのそんなメッセージだと受け取っていた。


凪は立ち上がり、そのポケットに、父の日記と、彼自身のEgo Cube「鏡面ミラー」を滑り込ませた。


「所長?どちらへ……?」


不審に思った部下が声をかける。


「しばらく、外の空気を吸ってきます。……ああ、それから」


凪は足を止め、穏やかに微笑んだ。それは、明日美に見せるような優しい笑顔ではなく、どこか突き放すような、儚い笑みだった。


「太陽さんと明日美には、黙っていてください。「第ゼロ研究棟で少し調べたいことがあるから、一人で集中する」とだけ伝えて」


「は、はあ……。ですが、アシスタントも付けずにですか?」


「必要ありません。……僕もいつまでも「守られる側」でいるわけにはいかないので」


凪は静かに部屋を出て行った。廊下を歩く足音が、夜の静寂に吸い込まれていく。


なぜ、太陽たちに黙って行くのか。それは、これが「父と自分」の戦いで、自ら行動することで終わらせるべき呪いだと捉えていたからだ。太陽と明日美は、「愛」を知り、未来への地図を描き始めたばかりだ。光あふれる彼らの世界に、二人にこれ以上、一族のドロドロとした闇を持ち込むわけにはいかない。


(明日美。……君は、愛のある温かい場所で生きていいんだ)


凪の脳裏に、幼い頃の明日美の笑顔が浮かぶ。父に「死んだ」と聞かされたあの日から、凪はずっと、心の中で彼女の墓標を守り続けてきた。だが、彼女は生きていた。そして、あんなにも強く、美しい「母なる海」へと成長した。


(僕の役目は終わった。……いいや、ここからが本当の役目だ)


兄として、そして一族の「失敗作」として。父が残した負の遺産を、すべてこの手で葬り去る。 それが、僕が明日美にしてあげられる、贈り物だ。


量子力学研究所を出て、第ゼロ研究棟のある深い森の中へ向かった。冷たい夜風が頬を刺す。凪は立ち止まり、懐から自身のEgo Cubeを取り出した。


それは、太陽の黄金や九条の銀とは違う。周囲の景色をそのまま映し込み、存在感を消してしまうような、七色に光る「鏡面」の立方体。


「起動。……対象、深海真澄」


凪が呟くと、Cubeの表面が波打ち、ホログラムではない「実像の反射」が浮かび上がった。そのファントムは、日記に残された父の残留思念を反射させ、現在の居場所を逆探知する凪のEgo Cubeが持つ特性の一つだ。


鏡の中に映ったのは、荒涼とした砂漠。そして、その中にそびえ立つ、巨大な「黒い直方体」。


「……見つけた」


そこは無限の記憶の深層領域。物理的な世界ではなく、無限の記憶の深淵にある仮想空間。

凪はEgo Cubeを握りしめ、夜空を見上げた。満月が、鏡のような瞳に映り込んでいる。


「待っていてください、父さん。……そして、名もなき少女」


凪の姿が、月明かりの中に揺らぎ、蜃気楼のように消えていく。「静寂」が動くとき、世界は音もなく書き換わる。


孤独な王の、帰還の旅が始まった。

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