第17話 虚構の救世主と未来への楔
1.オルタと未来のジン
凪たちとの闘いを一人離れ、神殿を後にしていたオルタは、無限の記憶の深層にある「未踏領域」を彷徨っていた。そこは、色彩も音も重力も存在しない、ただ情報のノイズだけが吹き荒れる灰色の荒野だった。
「……私は、何だ」
オルタは、自身の手のひらに浮かぶ鉛色のEgo Cubeを見つめた。オメガによって作られた、神野太陽が持つGaeaの「命を奪うチカラ」のみを抽出したデータで具現化された戦闘兵器。オリジナルが持つ「愛」や「未来を信じる意志」という不純物を排除し、純粋な力のみを追求した完成品のはずだった。
だが、明日美の「母なる海」に触れた時、彼の中に決定的なエラーが生じた。
「寂しさ」。完璧であるはずの自分が、他者を求めているという矛盾。
「アイデンティティー……。私が私であるための証明……」
オルタが思考の海に沈みかけていたその時、荒野の空間が不自然に歪んだ。ノイズが集まり、巨大な漆黒の扉を形成する。その向こうから、圧倒的な質量を持った「視線」が彼を貫いた。
『……戻ったか、失敗作よ』
深海一族の長にして、オメガの総帥、深海 源の声。扉の奥には、現実世界のオメガ本部と思われる、無機質な司令室の光景が映し出されていた。そこには、数千、数万という世界中の人間のEgo Cubeのデータをリアルタイムで監視・解析している様子が見て取れた。
「……何の用だ。私はもう、オメガの駒ではない」
オルタはCubeを構え、警戒する。
『フン。自我に目覚めたつもりか?笑わせるな。お前を構成するデータ、思考パターン、そのCube の設計図に至るまで、全て我々がデザインしたものだ。お前が何を考え、どこへ行こうと、それはオメガの掌の上での「誤差」に過ぎん』
源の声には、凪や真澄とは違う、絶対的な「支配者」としての冷酷さがあった。オメガは深海一族が中心にはなっているが、単純な組織ではない。政治、経済、軍事、宗教……あらゆる分野の中枢に「観測者」を送り込み、人類の歴史そのものを影から操ってきた現代社会のシステムそのものだ。
『凪と明日美が「深淵の少女」への接触を試みているようだが……無駄なことだ。少女の封印が解ければ、無限の記憶から溢れ出す「泥」が世界を飲み込む。それを防ぐには、新たな「器」が必要不可欠だ』
「……あんたが接触してきた目的はやはり明日美か」
『そうだ。それが一族の宿命であり、世界の秩序を保つ唯一の方法だ。……オルタよ。お前に最後のチャンスをやろう。凪たちを止め、明日美を私の元へ連れてこい。そうすれば、お前に「完全な魂」を与えてやる』
そのとき、空間の隙間から「何か」が放り投げられた。それは、青白く輝くデータの結晶片。オルタがそれに触れると、脳内に鮮烈なイメージが流れ込んできた。
それは、「未来の神野太陽」が経験した、ある時間軸の記憶。愛する人を守れず、世界が崩壊していく中で、たった一人で絶望に立ち向かう男の、魂の慟哭。
「……これは……?」
何者かの声が聞こえてくる。
『オリジナルの「欠落」したデータだ。……愛などという不確定要素がもたらした、悲劇の末路だよ』
オルタは、流れ込んできた記憶の奔流に飲み込まれそうになった。悲しみ、後悔、無力感。これほど重い感情を、オリジナルは背負っていたのか。
その時、記憶の深淵から、一つの「声」が響いた。
『……諦めるな』
オルタの意識が、灰色の荒野から別の場所へと飛ばされる。そこは、青い光が満ちる静寂の海。その水面に立つ、一人の男がいた。深い青色のコートを纏い、オルタと同じ顔をした男、オリジナルのジンだ。
「……貴様は……!」
『久しぶりだな、私の影よ。……いや、もう影ではないか』
ジンは穏やかに微笑んだ。
「なぜここにいる?お前は、太陽と明日美の未来を確定させて、消滅したはずだ」
『消滅ではない。私は「観測者」として、5次元の領域から全ての時間軸を見守っている。……オメガが私のデータを使ってお前を作った時、わずかに生じた「量子の揺らぎ」を通じて、私はここに干渉できるようになった』
ジンは、オルタの鉛色のEgo Cubeに触れた。
『アイデンティティーとは、誰かに与えられるものではない。……自分が何を「選び」、何を「捨てた」か。その選択の積み重ねが、お前という存在を形作るのだ』
「……選択……」
『オメガは、世界を管理するために「個」を消そうとする。だが、サンは「個」の輝きこそが世界を救うと信じている。……お前はどちらを選ぶ?ただのデータとして管理されるか、それとも「意志」を持って抗うか』
ジンが手をかざすと、オルタの中にあった「オリジナルの欠落データ」が光り輝き、彼のCube と融合し始めた。鉛色だったCubeに、鮮やかな「青」と「金」のラインが刻まれていく。それは、オルタが「愛」の概念を理解し、独自の進化を遂げた証だった。
『……凪たちに伝えてくれ。深淵の最深部には、「深淵の少女」だけでなく、もう一つの「特異点」が存在することを。……それが、オメガと対話するための鍵になる』
ジンの姿が薄れていく。最後に彼は、オルタの目を見て言った。
『……頼んだぞ。もう一人の、私』
意識が荒野に戻る。 目の前の巨大な扉の向こうで、源が怪訝そうな声を上げた。
『……何をした?お前のデータ構成が……書き換わっている?』
「……断る」
オルタは、進化したEgo Cubeを構えた。そこから放たれるのは、かつての破壊の重力ではない。 全てを拒絶し、己の存在領域を確定させる、強固な「自我の境界線」。
「私は、オメガの道具ではない。……そして、オリジナルのコピーでもない!私は……『オルタ』という、一つの意志だ!」
「Spell『事象拒絶』!」
オルタがCubeを解放すると、衝撃波が空間を裂き、漆黒の扉を粉砕した。オメガとの通信が強制的に遮断される。
「……ふう」
オルタは大きく息を吐いた。体の中で、何かが熱く脈打っている。これが「感情」か。これが「生きている」という感覚か。
彼は、凪たちのいる神殿の方角を見つめた。今すぐ合流することはできない。オメガの本部が動き出した以上、自分も独自のルートで奴らを撹乱しなければならない。
(だが、伝えなければ。ジンから託された、未来への希望を)。
オルタはEgo Cubeを展開し、暗号化したメッセージを作成した。それを、幻影の一種である「青い蝶」の姿に変え、神殿へと放つ。
『深海凪。深海明日美。オメガの狙いは「少女」だけではない。深淵の最深部には、時間軸そのものを操作する「クロノス・コア」が存在する。祖父はそれを使って、歴史を根底から書き換えるつもりだ。……急げ。未来の分岐点は、もうすぐそこまで来ている』
青い蝶が、灰色の空を舞い、光の速さで飛び去っていく。それを見送ったオルタは、新たな決意と共に、オメガの本拠地がある現実世界への「逆侵攻」を開始するために歩き出した。
「……待っていろ、オメガ。……私が、お前たちの計算外の「バグ」となって、その完璧なシステムを食い破ってやる」
その背中は、かつての虚無な人形ではなく、一人の「冒険者」として、力強く輝いていた。
2.最深部への鍵と時の迷宮
白亜の神殿に、一匹の青い蝶のファントムが舞い降りた。それは、去っていったオルタからのメッセージだった。
『……深海凪。深海明日美。オメガの狙いは「少女」だけではない。深淵の最深部には、時間軸そのものを操作する「クロノス・コア」が存在する。……急げ。未来の分岐点は、もうすぐそこまで来ている』
蝶は凪の指先に止まると、Ego Cubeに深淵へ繋がるアクセスコードが共有された。それと同時に、神殿の奥、誰も立ち入ることのできなかった祭壇の床が、音もなくスライドを始め、地下へと繋がる階段が現れた。
「……クロノス・コア。無限の記憶の心臓部にして、時間の集積回路のような存在ですか」
凪は、底の見えない暗黒へ続く階段を覗き込んだ。そこからは、これまで感じたどの階層とも違う、冷たく、そして懐かしい風が吹き上げてくる。
「行きましょう、お兄様。……この先に、深海一族の呪いの「始まり」があるのなら」
明日美が凪の手を握る。彼女のEgo Cube「母なる海」は、未知の恐怖よりも、真実を知りたいという渇望で青く輝いていた。四指たちに神殿の守護を任せ、凪と明日美は最深部への階段を下りていった。
階段を下りきった先には、奇妙な空間が広がっていた。そこは、無限に続く鏡の回廊のようでもあり、同時に無数の時計が時を刻む部屋のようでもあった。壁も床も天井もなく、ただ無数の「映像」が空間に浮遊している。
「……何、ここ?……私の子供の頃の部屋?……こっちは、大学の研究室?」
明日美が、宙に浮く映像の一つに触れようとする。そこには、幼い頃の彼女が一人で絵本を読んでいる姿が映っていた。
「触れてはいけません、明日美」
凪が制止する。
「ここは『時の迷宮』。過去、現在、未来……あらゆる時間の可能性が混在している場所です。不用意に触れれば、意識がその時間軸に囚われ、二度と戻れなくなる」
凪は自身のEgo Cube「鏡面」を展開し、周囲の映像を反射させながら慎重に進む。この空間では、直進しているつもりでもいつの間にか過去に戻っていたり、数秒先の未来を見ていたりする。「鏡」の特性を持つ凪でなければ、瞬く間に方向感覚を失い、時間の渦に飲み込まれてしまうだろう。
「……見てください、あそこ」
凪が指差した先に、一つの大きな歪みがあった。他の映像とは違い、そこだけ色が褪せ、ノイズが走っている。まるで、誰かが意図的に記憶を「改ざん」しようとした痕跡のように。
二人がその歪みに近づくと、周囲の景色が一変した。そこは、深海家の屋敷。……凪と明日美が幼い頃に過ごした、あの庭園だった。
「ここは……。私たちが、よく遊んだ庭……」
明日美が息を呑む。夕暮れの庭園。ブランコが風に揺れ、錆びた音が響く。そこに、二人の子供の影があった。
一人は、本を抱えた少年、幼い頃の凪。もう一人は、花冠を作っている少女、幼い頃の明日美。
『ねえ、お兄様。大きくなったら、何になりたい?』
『僕は……一族の後継者になって、この家を守るよ。……明日美は?』
『私はね……お兄様のお嫁さんになる!ずっと一緒にいるの!』
無邪気な会話。幸せな記憶。だが、凪の表情は険しかった。
「……これは、僕の記憶じゃない」
「え?」
「僕の記憶では……明日美は、この庭で倒れ、そのまま隔離されたことになっている。……そして父さんから『死んだ』と告げられた」
凪がそう言った瞬間、庭園の空が割れた。空から黒い泥が滴り落ち、幼い明日美の影を飲み込んでいく。
『……イヤ。……死にたくない。……助けて、お兄様……!』
少女の悲鳴。幼い凪は、ただ呆然とそれを見ているだけだ。動けない。声も出せない。父の言いつけ通り、「感情」を殺して、妹が消えるのをただ見ている。
「……違う!僕は……助けたかった!心を殺してでも、君を生かしたかったんだ!」
大人の凪が叫び、幻影の中へ飛び込もうとする。だが、その手は空を切った。
『……嘘つき』
泥の中から、少女の声が響く。
『お兄様は、私を見捨てた。……自分が助かるために、私を殺したのよ』
「……ッ!?」
泥が凝縮し、形を変える。そこに現れたのは、成長した姿の、しかし全身が黒く染まった「死んだはずの明日美」の幻影だった。
「久しぶりね、お兄様。……いいえ、深海家の後継者様」
黒い明日美は、冷たい瞳で凪を見下ろした。その頭上には、どす黒く濁ったEgo Cubeが浮いている。
「貴方は知っていたはずよ。お父様が私を排除しようとしていることを。……でも、貴方は黙っていた。神童としての地位を守るために、妹を犠牲にした」
「違う……!父さんは、君を守るために……!」
「守る?隔離して、存在を抹消することが守ること?……いいえ、それは『廃棄』よ」
ダーク・アスミがCubeを展開すると、黒い泥が刃となって凪に襲いかかる。凪は「鏡面」で防ぐが、その衝撃は物理的なもの以上に、心に重くのしかかる。
「……やめて!お兄様を責めないで!」
本物の明日美が、二人の間に割って入った。「母なる海」を展開し、黒い刃を受け止める。
「貴女は……誰?私の偽物?」
ダーク・アスミが明日美を睨む。
「偽物じゃないわ。……私は、貴女が選ばなかった未来。貴女が諦めなかった希望よ!」
明日美は叫んだ。この黒い幻影は、凪の中に残っていた「罪悪感」と、明日美自身が心の奥底で抱いていた「見捨てられたかもしれない」という疑念が、クロノス・コアの影響で具現化したものだ。
「お兄様は、私を見捨ててなんかいなかった。……心を壊してまで、私との約束を守ろうとしてくれたのよ!」
『……証拠は?今ここで幸せそうに生きている貴女に、あの時の絶望が分かるの?』
「分かるわ。……だって私は、貴女だから」
明日美は防御を解き、ダーク・アスミへと歩み寄った。泥の刃が、明日美の肌を切り裂く。赤い血が流れる。それでも彼女は止まらない。
「痛い……。寂しい……。怖かった、よね。……ずっと、暗い箱の中で、お兄様を待っていたんだよね」
明日美の手が、ダーク・アスミの頬に触れる。温かい体温が、冷たい泥の身体に伝わっていく。
「……待たせてごめんね。……もう、一人じゃないよ」
明日美が抱きしめた瞬間、ダーク・アスミの瞳から黒い涙が溢れ出した。
『……会いたかった。……ずっと……お兄様に……』
黒い泥が剥がれ落ち、光の粒子となって消えていく。それは、凪と明日美の間に横たわっていた「わだかまり」のような存在だったのか……。
幻影が消え、庭園の景色も霧散した。後に残されたのは、静寂を取り戻した時の迷宮と、寄り添い合う兄妹の姿。
「……ありがとう、明日美。……君に、救われてばかりだ」
凪が、明日美に歩み寄る。
「お互い様よ。……さあ、行きましょう。この迷宮の出口に、本物の『元凶』がいるはずだわ」
二人の前方に、巨大な時計の文字盤を模した扉が現れた。 針は「12時」を指して止まっている。 ここが、時間の終着点。クロノス・コアの間だ。
凪はEgo Cubeを扉にかざした。「鏡」が光を反射し、止まっていた時計の針を動かす。
ギギギ……と重苦しい音を立てて、扉が開く。そこには、深海一族の悲願と絶望、そしてオメガの真の目的が待っていた。
時空を超えた旅の果て。凪と明日美は、ついに「無限の記憶の心臓部」へと足を踏み入れる。




