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第18話 深淵に響く呼び声

1.泥の海と父の背中


時計の扉をくぐり抜けた先は、もはや神殿の形を留めていなかった。そこは、あらゆる色彩が混ざり合い、端が見えないほど広がる黒く濁った「泥の海」だった。数千年分の人類の負の感情、そして深海一族が隠蔽してきた罪の記憶。それらが決壊し、渦を巻いている。


「……父さん!」


凪が叫ぶ。泥の海の中心、わずかに残った岩礁のような足場に、その姿はあった。深海真澄。彼は、泥に下半身を飲み込まれながらも、これ以上広がらないように抑え込んでいた。


「……来るな、凪!明日美!」


真澄が顔を上げる。その顔色は土気色で、Ego Cubeの光も風前の灯火だ。彼の体は、少女から溢れ出る無限の記憶の奔流を、受け止めるフィルターのようになっていた。


「……限界だ。深海一族の祖先でもある始まりの女性の特性を受け継いでいた血族の末裔たちがオメガの意志を拒絶したことで、深淵の少女に施されていた封印が解けかけている。……もうすぐ、この泥が世界を覆い尽くす」


真澄の言葉通り、空間の至る所に亀裂が走り、そこから現実世界の風景、都市の大きな交差点や深海大学のキャンパスがノイズのように明滅して見え始めていた。深淵の崩壊が、現実世界への浸食を引き起こしているのだ。


『……イヤ。……もう、イヤぁぁぁッ!!』


深淵の少女の口から、絶叫がほとばしる。それは言葉ではなく、純粋な「拒絶」のエネルギーだった。泥の海が爆発的に膨れ上がり、大波となって凪たちに襲いかかる。


「くっ……!鏡面ミラー、最大展開!」


凪が障壁を張るが、泥の質量は桁違いだった。鏡にヒビが入り、ミシミシと悲鳴を上げる。


「お兄様、私の海でも……中和しきれない!」


明日美の青い光も、黒い濁流の前ではあまりに心許ない。


「……逃げろ、二人とも!私が……人柱になる!」


真澄が叫び、自らのEgo Cubeを砕かんばかりに握りしめた。彼は、自分ごとその身を深淵の少女と統合させるつもりだ。そうすれば、数十年は時間を稼げるかもしれない。


「ダメだ……!そんなこと、させません!」


凪は、父の覚悟を理解した上で、それを否定した。犠牲の上に成り立つ平和など、もういらない。


(……僕が、代わります)


凪は決意した。自分の「鏡」の特性ならば、少女の絶望を反射し続け、永遠に膠着状態に持ち込めるかもしれない。それは、凪自身が永遠にこの深淵に留まり続けることを意味している。


「明日美、父さんを連れて逃げてくれ。……ここは僕が食い止める」


「何を言ってるの!?お兄様を置いていくなんて、できるわけないでしょ!」


「行くんだ!……これは、これはみんなに助けられて人生を取り戻した僕が引き受けるべき役割だ!」


凪が明日美を突き飛ばそうとした、その時だった。


『馬鹿野郎!!』


怒号が、頭の中に直接響いた。深淵のノイズを切り裂き、鮮明に届くその声。


「……権藤、さん?」


凪が目を見開く。続いて、冷静沈着な男の声。


『……早まるな、深海凪。君の判断は間違っている。自己犠牲は「解決」ではなく、ただの「損失」だ』


「……九条?」


そして、誰よりも温かく、力強い声が響いた。


『諦めるな、凪!……僕たちが、そっちへ「道」を繋ぐ!』


「……太陽さん!」


空間の亀裂から、眩い光が差し込んだ。それは、現実世界にいる神野太陽、九条零、権藤武たちが、MAG-GRAVカードのネットワークをフル稼働させ、強引に深淵へと干渉した証だった。


現実世界、深海大学の研究室。太陽は、自身の黄金色のEgo Cubeをコンソールに接続し、叫んでいた。


「九条、磁場固定!権藤さん、エネルギー供給を頼みます!……僕たちの意志を、Spell Cardを通して深淵へ送る!」


「おうよ!若い連中にカッコつけさせるために、俺がこっちで踏ん張ってやる!」


権藤が叫ぶ。


「……やれやれ。君の無茶に付き合うのも、これが最後にしてくれよ」


九条が苦笑しながら、銀色の光を放つ。


『Spell「境界を越えろ。孤立した魂に、我らの結びを届けよ!」』


太陽の言葉が、量子データとなって時空を超える。黄金、銀、赤。三色の光の奔流が、深淵の空を突き破り、泥の海へと降り注いだ。


「……これは……」


凪の目の前で、奇跡が起きた。降り注いだ光が、泥の海を押し留める「巨大な堤防」となったのだ。権藤の熱量が泥を焼き固め、九条の磁力が空間を固定し、太陽の重力が少女の暴走を優しく抑え込む。


『今だ、凪!明日美さん!……その少女を!』


太陽の声に背中を押され、凪と明日美は走り出した。父・真澄が支えきれずに倒れ込む。その腕からこぼれ落ちそうになった少女を、凪と明日美が左右から抱き止めた。


「……捕まえた!」


『……う、あ……』


少女が目を開ける。その瞳は、泥の黒ではなく、透き通るような無垢な色をしていた。


「もう大丈夫。……君の声は、届いたよ」


凪が囁く。


「寂しかったね。……でも、もう一人じゃない。私たちがいるわ」


明日美が微笑む。


兄の「鏡」が少女の孤独を映し出し、妹の「海」がそれを浄化する。そして、現実世界からの「結び」が、その状態を強固に固定する。


過去、現在、未来。深淵と現実。時間と空間がリンクし、少女の中にあった「無限の絶望」が、急速に「安らぎ」へと変換されていく。


光が収まると、泥の海は消え去っていた。そこには、静かな水面が広がる、美しい湖のような空間が残された。


少女は、穏やかな寝息を立てて、凪たちの腕の中で眠っていた。その姿は、もはや呪いの象徴ではなく、ただの年相応の子供に見えた。


「……何が起こったのだ。助かったのか?……」


真澄が、信じられないという顔で呟く。


「ええ。……太陽さんたちが、助けてくれました」


凪は、空を見上げた。亀裂の向こうには、現実世界の星空が見える。


だが、安堵する凪の視界の端で、湖の底に沈んでいた「何か」が、怪しく明滅した。それは、巨大な砂時計のような装置「クロノス・コア」。少女の暴走は止まったが、この装置はまだ生きている。そして、その針はまだ「不確定な未来」を指したまま、不気味に時を刻んでいた。


(……Gaea。……そして、僕たち一族が本当に向き合わなければならない、最後の謎)


凪は、眠る少女と、疲れ果てた父、そして愛する妹を守るように抱きしめた。すべてが解決したわけではない。だが、今の彼には、時空を超えて繋がれる「仲間」がいる。


「……帰りましょう、みんな。……僕たちの家へ」


凪の声が、静寂の湖に優しく響いた。



2.未来へ向けて演じ続けること


泥の海が浄化され、生まれた静寂の湖。その湖底には、巨大な砂時計のような装置「クロノス・コア」が、淡い光を放ちながら鎮座していた。深淵の少女の暴走は止まったが、この装置の針は止まっていない。不規則なリズムで、世界のどこかにある「時間」を刻み続けている。


「……これは一体何なのでしょう」


凪は、湖面越しに揺らめくクロノス・コアを見つめて呟いた。祖父・深海源は、これを「時間を巻き戻すループシステム」だと言った。父・真澄は、「人類の記憶を管理する中枢」だと言った。 だが、凪の「鏡」に映る姿は、そのどちらとも違っていた。


「僕には……これが『観測機』に見えます。過去を記録し、未来の分岐をただ淡々と見つめるだけの、巨大な瞳のような」


明日美が、眠っている少女の髪を撫でながら答える。


「……そうかもしれないわね。これは私たちの研究している理論からの仮説だけれど、この子はGaeaの無限の記憶を蓄積する記憶装置のような存在。クロノス・コアは、全ての時間軸の分岐の可能性をシミュレーションして収束させる機能を備えた、量子力学の結晶であるGaeaの中枢であり『演算装置』のような存在。」


「太陽さんが確立しようとしている研究論文にあった、些細な出来事が、最終的に想像もしていなかったような大きな出来事に繋がる現象『バタフライエフェクト』。地球上で起こる台風や地震のように、全てが止まることなく動き続けて、この世界に自然現象を起こす増幅器となる存在なのかもしれない」


支配しようとすれば、負荷が偏りバランスが崩れて歪を生む。それは、現代の理論ではまだ解明できていない、光も電磁波さえも到達できず、その先の情報を見ることも知ることのできない「事象の地平面イベントホライゾン」の向こう側の存在。あるいは、宇宙の物理法則そのもののようにも感じられる。


「……父さん。貴方は、この少女と共にここに残るのですか?」


凪が父・真澄に問いかける。真澄は、憑き物が落ちたような穏やかな顔で、明日美の代わりに少女を抱きかかえた。


「ああ。この少女が限界を迎えていることは事実だ。誰かがここに留まり補助しなければならない。それに、私は一族の使命を優先して多くの罪を犯した。今更家族に……お前たちに許してもらおうとも思えないほどに……。この静寂の中で少女の孤独に寄り添い、一族としての役割を全うすることが、私に残された唯一の贖罪だ」


真澄は、凪と明日美を真っ直ぐに見つめた。


「全てを明らかにして、分かり合う必要はない。……解決できない課題があるということを理解して新たな概念を作り、互いが思考を止めずにバランスを保ちながら生きていくこと。それが、お前たちが選んだ『共存』という答えなのだろう?」


別れの時が来た。空間に亀裂が走り、現実世界への光が差し込む。


「行きなさい。……そして、太陽くんに伝えてくれ。『君の理論は間違っていない』と」


真澄が背中を押す。凪は一度だけ振り返り、父の姿を目に焼き付けた。もう二度と会えないかもしれない。だが、悲しみはなかった。父は、父なりの方法で「愛」を全うしようとしているのだから。


「……さようなら、父さん。……深海一族の『闇』は、ここに置いていきます。僕は、光の当たる場所で、一族の新しい在り方を探します」


「……ああ。頼んだぞ、深海凪」


凪と明日美は、光の中へと飛び込んだ。背後で、父と少女、そしてクロノス・コアが、深淵の闇へと溶けていく。それは、人類が解き明かそうとし続ける謎であり目標として、目に見える世界の向こう側で稼働し続けるだろう。


意識が肉体に戻る。第0研究棟の資料室。窓の外では、夜が明けようとしていた。


「……戻ったのね」


明日美が、安堵のため息をつく。

凪はすぐにモニターを確認した。あのしつこかった祖父・深海源からの通信や、各方面への圧力。それらがどうなっているか……。


『議席の3分の2以上を確保した新政権が誕生。……新たな国家運営に期待と不安が入り混じる』


世間は初めての女性総理の誕生と、史上最多の議席数を獲得した新政権の話題で湧き上がり、明日美の仲間たちへの圧力は収束していた。画面に表示されているニュースを見て、凪は息を吐いた。

深淵での数千年分の泥の浄化。今回の一連の出来事を通して、深海源が一旦手を緩めたのか、オメガがどう判断したのかは分からないが、現実世界での騒ぎは収束しているようだ。

おそらくは、深淵の少女に対してオメガが干渉できないよう、真澄が何らかの交渉を行ってくれたのだろう。


「終わりましたね。とりあえずは……」


凪は、砕けた金属片の砂が残る机に、父の日記を置いた。これはもう、読む必要のない過去の遺物だ。


「お兄様。……これから、どうするの?」


「やることは山積みですよ。大学への補助金の回復、止まっていた研究の再開。それに……」


凪は、白衣のポケットから自身のEgo Cubeを取り出した。かつては他者を拒絶する「鏡」だったその立方体は今、明日美の海の色と、四指たちの想い、そしてオルタの意志が混ざり合い、七色の美しい輝きを放っていた。


「深海一族を変えます。……不都合な過去の記憶を隠蔽する『墓守』ではなく『未知を解き明かすための伝えし者』。Gaeaの『制御装置』の一族として歩んでいけるように」


数日後。深海大学のキャンパスにあるベンチで、凪は一人の男を待っていた。春の風が、桜の花びらを運んでくる。


「……お待たせ、凪さん」


現れたのは、神野太陽。少し疲れたような、しかし充実した表情で歩いてくる。


「いえ。……お久しぶりです、太陽さん」


二人は握手を交わした。太陽の手からは、圧倒的な「重力」が伝わってくる。対して凪の手からは、すべてを映し出す「静寂」と「冷徹な知性」が。


「聞きましたよ。無限の記憶の深淵での話。……まさか、未来の僕の『影』まで味方に引き入れてしまうとは驚きました」


太陽が苦笑する。


「味方というわけではありません。……ただ、彼らにも自分たちの『物語』があった。それだけのことです」


凪は、空を見上げた。青い空の向こう、目には見えない事象の地平面の彼方に、今もクロノス・コアは存在している。そして、その脅威は去ったわけではない。いつかまた、誰かの悪意や絶望がトリガーとなって、Gaea が暴走する日が来るかもしれない。


「……太陽さん。僕たちは、何も解決していないのかもしれません」


「そうかもしれないね……。僕に宿っているGaeaのチカラは『入力装置』のようなものではないかと仮定しています。『クロノス・コア(演算装置)』は、現在の僕たちのテクノロジーを超えた存在です」


太陽は隣に座り、同じ空を見上げた。


「でも、それでいいんだと思います。」


「……人間が自分たちの欲のために全てを管理しようとした結果がオメガという組織の誕生で、彼らが干渉したせいでGaeaの『主記憶装置メインメモリー』への負荷が大きくなり限界を迎えた」


「オメガは数千年前の王と同じように、新たに生贄を加えようとした……。現在のシステムを維持するためには、そうせざるを得なかった。僕たちは、それを理解して受け入れるだけで十分です」


「僕たち新しい世代は、Gaeaの『補助記憶装置(SSD)』として過去から蓄積されてきた膨大な記憶を『ありのまま』受け入れることができます。そしてそれを解き明かすための探求と議論を続けられて、今日をどう生きるかを自分で選択できる存在になりましょう」


「……三位一体。トライアングルのキャリア理論。ですか」


「そう。解けない謎を抱えたままでも、未来へ踏み出し自分たちの物語を創造して演じ続けること。……それが、人間が持つ最大のエネルギー源(感情)です」


明日美が手を振って走ってくる。その後ろには、九条や権藤、そして人間らしい表情を取り戻した白石海斗の姿もある。


「僕たちは皆、それぞれの『歪み』や『課題』を抱えながら、それでも笑い合っている。……行きましょう、凪さん。僕たちの綴る物語は、まだまだ先の展開があります」


太陽が立ち上がる。凪もまた、白衣を翻して立ち上がった。


「ええ。……これからは、僕も綴りましょう。過去の追憶ではなく、未来への探求の記録を」


二人は並んで歩き出す。その後には、わだちが刻まれていく。それは、正解のない世界で、彼らが迷いながら、悩みながら、それでも考えることを諦めない「愛」の軌跡。


無限の記憶の海が結んでくれている彼らの物語は、ここからまた新たな展開を生み出し続ける。

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