第12話 忘却の回廊と父の幻影
1.若き日の父との対峙
重厚な石の扉をくぐり抜けた先には、息が詰まるほどの「静寂」と「紙の匂い」が充満していた。 凪の目の前に広がっていたのは、上下左右、果てしなく続く巨大な書架の回廊だった。
天井は見えない。床もまた、ガラスのように透き通り、その下にも無限に続く書架が映り込んでいる。棚に収められているのは、通常の本ではない。背表紙の代わりに、微かに発光する「色のついた結晶」が埋め込まれた、分厚い記憶の記録媒体だ。
「……これが、歴史から消された「不都合な真実」ですか」
凪は、近くの棚にあった青白い結晶の本に指を触れた。その瞬間、脳内に映像が流れ込む。疫病に苦しむ村。神への祈り。救済を求めて生贄にされる子供たち。それは数百年前に起きた、ある宗教弾圧の悲劇的な記憶だった。表の歴史では「平和的な解決」として語り継がれている事件の、血塗られた裏側。
「吐き気がするほどの欺瞞ですね」
凪は指を離し、自身のEgo Cubeを展開しながら歩き出した。七色に輝くCubeの光が、薄暗い回廊を照らす。この場所は、深海一族が数千年にわたり、Gaeaの維持のために「記憶を変換」してきた「人類の歴史の原本」を保管している。正に無限の記憶のアーカイブだ。
カツーン、カツーン……。凪の足音が、永遠に続くかのような回廊に響く。しばらく進むと、回廊の中央に、一人の男が立っているのが見えた。書見台に向かい、背を向けて本を読んでいるその姿。
「……父さん?」
凪が声をかけると、男はゆっくりと振り返った。その顔は、凪がよく知る父、深海真澄のものだったが、年齢が違っていた。30歳前後。現実世界での凪と同じくらいの、若き日の父の姿だ。
「……おや?ここは生者が立ち入れる場所ではないよ」
その幻影は、穏やかに微笑んだ。だが、その瞳の奥には、現在の父と同じ、底知れぬ「虚無」と「狂気」が潜んでいた。
「僕は……あなたに会いに来たんです」
凪は一歩も引かずに言った。目の前の存在は、本物の父ではない。この回廊を管理するために父が残した、若き日の「記憶の残滓」だ。
「私に?……ふむ。君からは、懐かしい気配がするね。……それに、そのEgo Cube。……完成していたのか。私の「最高傑作」は」
幻影の真澄は、本を閉じた。その表紙には「Gaea制御記録・第一巻」と記されている。
「君は凪だね。……未来の私が作った、哀れな息子」
「……哀れ、ですか」
「そうとも。君は「器」として作られた。感情を持たず、愛を知らず、ただ世界の汚泥を飲み込み続けるためのゴミ箱だ。……それを哀れと言わずして何と言う?」
幻影は、嘲笑うように書見台を指先で叩いた。その瞬間、周囲の書架から無数の本が飛び出し、弾丸のように凪へと襲いかかった。
「排除しよう。……「感情」というノイズを持った不良品は、この神聖な回廊には不要だ」
「……相変わらず、強引ですね」
凪は動じない。襲い来る本の群れを、Ego Cubeを展開して迎撃する。
「Spell「万華鏡」……多重反射」
凪の周囲に無数の鏡が出現し、本を次々と弾き返す。だが、本はただの物体ではない。一冊一冊に込められた「呪い」や「怨念」が、物理的な衝撃を超えて精神を侵食しようとする。
「くっ……!」
凪の眉が歪む。だが、今の彼には統合した感情がいる。
(……怯えるな、凪! お前は一人じゃない!)内なる「怒り(ラース)」の声が響く。
(……冷静に。軌道は見えています)「恐怖」が索敵をサポートする。
(……僕たちがついてる。お前は王だろ?)「自負」が背中を押す。
「……ええ。僕は、もう壊れません!」
凪は鏡の角度を変え、反射した本の群れを一本の巨大な光の槍へと収束させた。
「お返しします……!父さんの「合理性」ごと!」
閃光が幻影を貫く。真澄の幻影は、驚きの表情で光に飲み込まれ、霧散した。……かに見えた。
「……見事だ。だが、物理的な攻撃では「記憶」は消せないよ」
霧が集まり、再び真澄の姿を形成する。彼は傷一つ負っていなかった。だが、その表情からは嘲笑が消え、真剣な眼差しに変わっていた。
「いいだろう。君がそこまで「意志」を保っていられるなら、見せてあげよう。……我ら一族が背負っている「罪」を」
真澄の幻影が指を鳴らすと、回廊の景色が一変した。そこは、数千年前の古代都市。空は赤く染まり、大地からは黒い泥が噴き出している。
「これが、最初のGaeaの暴走だ」
空間に映像が映し出される。真澄が指差す先には、巨大な神殿があった。その祭壇には、一人の少女が横たわっている。幼いとき父の書斎にあった漆黒のEgo Cubeに触れて迷い込んだ世界で凪が出会った、あの深淵の少女だ。
「当時の王は、病の娘を救いたい一心で、王国に受け継がれてきた小さな青白い輝きを放つ宝石を少女の頭の中に埋め込んだ。だが、それは間違いだった。……その宝石の中に封印されていたGaeaは記憶を綴る「概念」のような存在だ。個人の脳では処理しきれない膨大な量の無限の記憶が、少女の自我を破壊し、逆流しはじめたのだ」
2.最初の暴走と一族の罪
映像の中で、少女の周囲から黒い泥(触手)が溢れ出し、人々を飲み込んでいく。人々は恐怖し、その泥に触れた者から次々に精神を崩壊させ、自分を傷つける者、他人を傷つける者、人との関わりを拒絶し始める者……、争いが絶えなくなっていた。
「このままでは王国の存続が危ういと恐れた王は、……娘を「人柱」として洞窟の奥底に封印することにしたのだ。そのために、また多くの犠牲を生み、荒廃していった……」
「ある日、国王の娘が病気になった責任を取らされ、民から迫害を受けていた一人の女性が自ら志願して洞窟の奥へ少女を連れていく役割を名乗りでた。その女性は、次々に生まれる泥を全身に浴びても意志を保ち、少女を洞窟の奥底まで運び封印して生還した。その後、王からの命令を受け、その洞窟の管理者として溢れ出る泥を処理し続けることになったのだ……」
「……その女性は、洞窟の奥底に少女を連れていく過程で黒い泥の触手から自分の中に流れ込んできた、あらゆる記憶と感情を、まるで物語のように民の前で語り始めた。その物語に多くの民が耳を傾けるようになり、迫害を受けていた彼女は、王国の民に受け入れられていった。」
その後長い時を経て、無限の記憶の適合者ともいえるその女性は「言葉を綴る救世主」と呼ばれるようになっていった。そしてその子孫は代々、Gaeaを宿した少女から生まれる泥(無限の記憶)を「伝えし者」として語り継ぎ、その過程で、時には記憶を改ざんし、薄め、無害化して歴史の裏側に隠蔽してきたのだ」
「伝えし者などと大層な名で呼ばれているが、実際、私たちの一族は守護者ではない。……ただの「排泄処理係」だ。……こんな役目、狂わずに受け入れられると思うか?」
真澄の声には、深い絶望が滲んでいた。彼もまた、若き日にこの真実を知り、そして絶望したのだ。この終わりのない地獄から、子供たちを解放するために行動を起こした。
「だから私たちの一族は、オメガを組織した。……すべてを「無」に還すために」
「……あなたの絶望は、理解しました」
凪は、荒廃した古代都市の幻影の中で言った。
「でも、解せません。……なぜ、明日美を、妹を死んだことにしてまで、僕から遠ざけたのですか?明日美もまた、深海家の血を引く者。彼女にも役割があったはずだ」
真澄の幻影は、一瞬だけ沈黙し、そして悲しげに目を伏せた。彼は、一冊の本を凪に差し出した。それは、他の本とは違い、温かいピンク色の光を放っていた。
「……明日美は、一族の始まりの女性の特性を受け継いでいたのだ」
「始まりの女性……?」
「ああ。歴代の深海家の人間でもほとんどの者は、無限の記憶に触れると、恐怖か、狂気か、あるいは無関心か、何にしても自分の意志を保てなくなる。……だが、明日美は違った」
凪がその本に触れると、幼い頃の明日美の映像が流れた。庭で花を見つけ、笑っている明日美。だが、その背後には、黒い靄のようなものが漂っていた。それは屋敷に満ちる一族の負の念だ。普通の子供なら泣き出すような瘴気の中で、明日美は平気な顔で、その黒い靄に話しかけていた。
「……痛いの?寂しいの?……よしよし、痛いの痛いの、とんでけー」
明日美が触れると、黒い靄は浄化され、青い光の粒子となって空へ消えていった。
「……浄化……?」
「そうだ。明日美には、負の感情を受容し、浄化してGaeaの循環へと帰す、少女を洞窟の奥底に封印した祖先と同じ特性。……「母なる海」の片鱗だ」
真澄は苦渋の表情で続けた。
「だが、それは危険すぎる。……もし明日美があの少女と接触すれば、数千年分の「泥」が一気に流れ込む。受け止めきれなければ、また世界中をカオスで塗り替えてしまうかもしれない。……現代の管理社会にとって、それは滅びと同義だ」
一族が護ってきたのは表面上の「均衡」だ。臭いものに蓋をして、見なかったことにする。そうやって世界を安定させてきた。だが、明日美の持って生まれたチカラは、その蓋を開けて、その中身を愛して受容するチカラだ。それは、深海一族が長い時間と犠牲を払い、少しずつ変化させ管理しやすいように築き上げてきた無限の記憶のシステムを根底から覆す、劇薬だった。
「だから私は、明日美を死んだことにして、一族の呪縛から切り離した。……彼女を、普通の女性として生活させるために」
凪は呆然とした。父は、明日美を邪魔者として排除したのではなかった。この残酷な世界で利用され、摩耗してしまうことを恐れ、娘を守るために嘘をついたのだ。
そして、その代償として……凪を選んだ。「愛」を知らない冷徹な器となれれば、この地獄にも耐えられると信じて。幸い凪にはそれだけの資質が備わっていたからだ。
「……不器用すぎますよ、父さん」
凪は、涙をこらえて笑った。父の愛は、あまりにも歪で、独りよがりで、そして悲しいほど深かった。
「すまない……凪、お前に全てを背負わせようとした私の責任だ。だが、思い通りにはならなかった」
幻影の真澄が、身体を透けさせながら告げる。
「オメガは、明日美が「母なる海」を覚醒させたことを知り、無限の記憶の深淵にいるあの少女を、明日美のチカラを利用してコントロールしようとしている。……この回廊の最奥で、世界そのものを書き換えようとしているのだ。いつ明日美を無理矢理にでもオメガに取り込もうとするかわからない……凪。お前なら、止められるか?」
「……止めます。父さんのためにも、明日美のためにも」
凪の目線の少し上を浮遊するEgo Cubeから発せられた七色の光が、回廊の闇を切り裂く。
「行ってきます。……若き日の父さん」
幻影は満足げに微笑み、光の粒子となって消滅した。その後ろには、回廊の奥へと続く、重厚な扉が開かれていた。
父の家族への愛を知った凪は、新たな決意と共に歩き出す。この先に待つのは、狂気に囚われた現在の父、深海真澄と、おじい様率いる一族が組織したオメガ。そして、数千年の孤独を抱えた「深淵の少女」。
凪は、父の本来の意志を受け取った。そして、利用されようとしている妹を護り、呪いの根源を断ち切るため、オメガとの本当の戦いが始まる。




