13-1
「疲れただろう、今日はゆっくり休みなさい」
溢れそうになる充足感を抑えながら、討伐証明書を受け取る教官をしっかりと見届ける。これでようやく長い試験も終わった。あとは試験結果を粛々と待つだけだ。
帰るまでが任務といわれて気を張り続けたおかげか試験の帰りの道中は実に平和なものだった。途中にわかに天気が崩れ小雨に降られたが、逆に起きた問題はそれだけだ。
ヘンリッカはやれることはすべてできた、と思っている。
過程がよければ結果が伴わずとも、だなんて言う気はさらさらないが、少なくとも結果を出すために今のヘンリッカが出せるものはあらかた出し切れたつもりだ。きっとイェレだって同じことを考えているはずだろう。
だいぶ様になってきた敬礼を披露して教官の前を退出した二人は、部屋から十分な距離を取った廊下でほぼ同時に息を吐いた。窓から見える青空が綺麗だ。
「終わりましたね……」
「うん、リッカちゃんおつかれさま」
「イェレも、ですよ」
覗き込むようにして目線を下げるイェレと目が合って、自然と笑みが浮かぶ。
キラキラと陽を受けて揺らめくその瞳を見ていると胸がギュッとなるようだ。言わばこれはまだスタート地点でなにも終わってはいないけれど思えば初めてイェレに声を掛けられたあの日から色々なことがあった。
誇り高くあるために育てていたはずのプライドに呑まれかけていたヘンリッカは、ただ単純に相性のいいパートナーを得た以上のたくさんのものをイェレからもらったように思う。
それならばはたして、ヘンリッカはイェレになにかを与えることができたのだろうか。
「……私、イェレの期待に応えられましたか?」
「あはっ、それオレのセリフだよ。……オレこそ、ヴィーアライネの美しき花たるヘンリッカ様に相応しくあれたでしょうか」
「っ、あなた以上に相応しい人なんて、いません」
いつもみたいにくしゃりと笑み崩れていたイェレの表情が、すっと色を変えた。口調はおどけているのにどこか憂いを帯びたような薄い笑みが胸に刺さってじわじわと甘やかな痛みを広げてゆく。
誘われるように漏れた声はまるで自分の声じゃないみたいに媚びた色を含んでいて、それがすごく恥ずかしいと思うのに止まらなかった。
「イェレ……」
「リッカ!」
「ひぐっ」
止まらなかった、はずなのに物理で止められた。
意識外から背中に受けた衝撃に嫌な意味で心臓がギュッとなって、悲鳴ともつかない間抜けな声が口から漏れる。
「あれ、ミルカちゃん帰ってたんだ」
「ミ、ミルカさん……」
いい雰囲気のところを邪魔されたことを怒るべきか、公共の場で発情した猫みたいになっていた自分を恥じるべきか、人の心臓を止めかねない突然の攻撃に怒るべきか、間抜けな悲鳴を聞かれたことを恥じるべきか。
というかイェレのまるで何もなかったような切り替え方に少し傷つくヘンリッカである。
「リッカ、イェレ君お帰りー! ね、ね、試験どうだった?」
「ミルカさん」
とりあえず様々な観点からなかったことにするのが一番だと判断したヘンリッカは、くるりと体を反転させて背中にくっついていたミルカを引き剥がすと鼻を鳴らして彼女を威嚇した。
「あなたこそどうだったんです?」
「うう、私はちょっと失敗しちゃってライネに魔術が雑だって怒られちゃったよー」
さめざめと大げさに泣き真似をしてみせるがミルカのことだ、どうせ失敗を帳消しにするくらいの大惨事を起こしたに違いない。なんとなくライネの苦労が偲ばれるようである。
だがここで弱るミルカにマウントを取ってみせねばヘンリッカの名折れである。
「ふふん、私は上々です。日頃の練習量の差がでましたね」
「うっ」
長年鍛えたしたり顔を披露していると、遠くからイェレを呼ぶ声が聞こえた。
「あ、リッカちゃん、オレちょっと外すから。ミルカちゃん、リッカちゃんのことよろしくね」
「え……」
「はーい!」
どうやら騎士科の生徒に呼ばれたようだ。だいたいヘンリッカを優先してくれるイェレが他の生徒と一緒にいるところを見るのは稀だ。呼んだ相手が男性だったことに少なからずほっとしながらその背を視線で追っていると、ミルカがそれはそれは楽しそうにこちらを見ていることに気がついた。
「……なんですか」
「えー? 進展あったのかなぁって思って」
つい先ほどあなたに邪魔されましたけど。
「別にありませんっ」
喉元まで出かかった怒りの声をなんとか飲み込んで顔を逸らすと、ミルカはしばらく探るような目つきで見た後に、突然何かが閃いたように小さく声を上げた。
そのままきょろきょろと回りを見回して、ヘンリッカの袖を小さく引っ張る。忙しない子だ。
「ね、リッカ……ちょっとこっちに……」
「なんです?」
拒否したらまた面倒そうなのでしかたなく大人しく従うと、柱の陰に引っ張り込まれた。そのまま内緒話をするように耳元に口を寄せられる。
「エクルース君のこと聞いた?」
そういえば彼のことをすっかり忘れていた。
ミルカの口から飛び出した意外な名前に首を傾げる。確か事件のあとまもなくして一ヶ月の謹慎処分を言い渡されていたはずだが、その後のことは聞いていない。一瞬謹慎のことかと思ったが、当事者ということでイェレとミルカと一緒に教官に聞かされたことだ。また違う話だろう。
「いいえ、どうかしたんですか?」
素直に聞き返すとミルカは眉根を寄せると小さく首を振った。
「退学になったんだって」
「え」
「なんかね、自主退学だったみたい」
ほんの少しだけ驚いて、すぐに続いたミルカの言葉に納得する。
一ヶ月の謹慎ということで彼は今回の試験を受けていない。彼の不祥事に巻き込まれたパートナーがいなかったのが幸いと言うべきか、こうなってしまえばエンシオが選べるのは第二師団を諦めるか、二年目以降の少ないチャンスに掛ける以外はない。
だがエクルースはなによりも血統と名誉を尊ぶ家だ。嫡子の失態に侯爵は寛容ではいられなかったのだろう。間違いなく、後継者から外されたと思っていいはずだ。相手がヴィーアライネということも侯爵の心象に悪く働いたのかもしれない。
あんな軽率な行動で今までの彼にとってのすべてを失ってしまったことを、嗤うべきか哀れむべきか。
「……そう、ですか」
なんとも言えない気分になって黙り込むと、ミルカが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「リッカ、気にすることないからね」
「気にしてません」
どちらにせよ彼は自分の行動の代償を自分で払ったに過ぎない。となればもうヘンリッカが気にするべきことではないのだ。
首を振って笑ってみせると、ミルカもすぐに笑う。それから何かに気がついたように柱からぴょこんと顔を出して、誰かに向かって手を振った。
「あ、ライネだ……そういえば約束してたんだった。ごめん、リッカまた後でね!」
あとで一体なにがあるというのだろう。
相変わらず慌ただしい子だ。
一人になったヘンリッカはミルカの背を見送ると、ほっと息をついた。元の場所から少し離れてしまったが、ここから見る限りではイェレが戻ってきている様子はない。これから何をするわけでもないので、解散でもいいのだが黙って去るなんてできるわけがなかった。
それにこのあとイェレに時間があるのなら、約束した通り二人で色々と話をしたい。
ヤルヴでのイェレとの時間を思い出したヘンリッカはそっと頬を赤く染めた。あれから恋に振り回されている少女は何度もあの光景を思い起こしているが、やはりイェレもヘンリッカのことを悪しからず思っているような気がする。
ヘンリッカは基本的に前向きだ。
それなら自分からイェレを迎えに行こうか、なんて考えて彼の友人たちの輪に交ざることなどできないとため息をつく。別に他人が怖くてもじもじするような殊勝な性格ではないが、どう接してよいのかはやはりよくわからない。
ヘンリッカの態度でイェレに迷惑がかかるのは、少し怖かった。
「しっかしイェレも上手くやったよなぁ、ヴィーアライネだぜ」
そのまま柱に寄りかかってぼうっとしていると、突然イェレと自分の名前が聞こえてきてぴくりと肩が震える。すぐ側から聞こえて来たその声の主はたぶん柱の陰に隠れたヘンリッカの存在に気がついていないのだろう。
聞き覚えがない声だが騎士科の生徒たちのようだった。なんとなく姿を見られてはまずい気がして、そっと身を縮こまらせる。
「俺もヴィーアライネと組んだら第二師団行けたかな」
「さすがにおまえじゃあのお嬢様落とせないだろ」
「えーやっぱあの二人そう言うアレなの?」
「いや、イェレはありえないって言ってたけど」
「マジかよモテるやつは贅沢だな。でも確かにすげえワガママそうだもんな」
それはキルカ=サラスト中のどこでだって囁かれている下世話な噂の一つに過ぎなかった。
ヘンリッカはいつだってその根も葉もない噂で貶められてきたが、真面目に取り合ったことなど一度もなかった。なぜならそれが事実ではないことを自分が一番良く知っていたからだ。
だけどヘンリッカにはイェレの気持ちがわからない。
だからありえない、という言葉がどういう感情の元からこぼれた言葉なのかわからないのだ。
俯いて、笑い合う彼らの声が遠ざかったのを見計らって柱の陰から出る。ずきずきと胸が痛むのはあふれていた期待があっという間に萎んでしまったからだろうか。
元々垂れ気味の目が、へにゃりと崩れるような笑い方がいつの間にか好きになっていた。
だけどイェレが誰にだってああやって笑いかけているのだって知っている。
自分でも見えていないような、いいところを見つけて褒めてくれるところが好きだ。
だけどそれはイェレがただ単に人をよく見ているからなのだと知っている。
彼が優しいのも、すぐ距離を詰めてくるのも、全部誰にだって意識せずにやってることだ。
だから自分だけが特別だなんて、勘違いしてはいけなかったのかもしれない。
「リッカちゃん待たせてごめん! ……リッカちゃん?」
――ああ、もう駄目だ。




