09-1
訓練室での一騒動は、すぐに教官に知られることとなった。
さいわいヘンリッカたちの証言は全面的に認められ、エンシオに怪我を負わせたイェレとミルカの処分は始末書を書かされるだけという非常に軽いもので済んだ。
エンシオの処分はまだ決まっていないが、けして軽くは済まされないだろう。彼は高位貴族の嫡子ではあるが、軍およびキルカ=サラスト内部で起きたことに爵位の高さはなに一つ有利に働くことがない、というのがヴィフレアの不文律だ。
とはいえ一方の言い分がすべて通った理由はヘンリッカの手首にくっきりとエンシオの手の痕が残っていたことと、他に目撃者がいたからだった。特にイェレともエンシオ、そしてヘンリッカとも交流のないその目撃者たる魔術科の生徒は、抜き身の剣を持ってイェレに襲いかかるエンシオと、鞘にしまわれたままの剣で必死に応戦するイェレを見て慌てて教官に報告しに行ってくれたらしい。
その生徒からしてみればどう見てもエンシオが加害者――実際そうなのだが――で、最後まで剣を抜かなかったイェレの判断が功を奏したといえるだろう。
人の気配がなかったとはいえ、考えてみれば訓練室は隔絶された空間ではない。そんな空間であんな暴挙にでたエンシオは相当に浅はかだ。イェレとミルカが来てからは自棄を起こしていたようだが、ヘンリッカを襲ったのは婚約の話さえ持ち出せば簡単に彼女が折れるという確信があったのだろう。
見慣れた紅い封蝋がついたその手紙の内容を思い出して、ヘンリッカは小さくため息をついた。
エンシオがミルカの魔術ですっかり気を失ってしまってから、教官が辿り着くまでの間。いくらミルカだって手加減はしていたと思いたいが、なにか後遺症が残ってしまっても目覚めが悪い。放っておけばいいと渋るイェレと、治癒魔法が苦手なくせに自分がやると言って聞かないミルカを宥めてすぐに彼の治療に向かったヘンリッカは、彼の側にほんの少し端が焦げた状態で落ちていた手紙に結局自身を律することはできなかった。
一通りの治療を終えたあとに誰にも気がつかれぬようそっと取り上げて目を通したその内容は、エンシオの言っていたような婚約の打診とは少し違っていた。
正確には打診の打診、よりも前段階の品定めのような内容だった。正確にはエクルースの嫡子に内定しているだけの世間に公表されていないような婚約者候補がいないかどうか探りを入れたかったのだろう。それが貴族、というよりもヴィーアライネ公爵らしい迂遠な表現でしたためられていた。
慎重なヘンリッカの父のことだからおそらくこの手紙が送られてきたのはエクルースだけではない。パッと思いつくだけで四人は浮かぶ候補者の顔――残念ながらだいたい曖昧だが――を脳裏に浮かべる。最終的にヴィーアライネにとって一番利のある相手を選び取ろうとしているのだろうが、もともと騎士家であるエクルースが一番の有力候補であるとは思えない。今回のことは両家に報告がすでに行っているだろうし、エンシオがすでに候補から外れたのは間違いないはずだった。
それにエンシオからすれば公爵が娘の結婚をさっさとまとめてしまおうとしていることを知っただけでも勝ちを確信したのかもしれないが、ヘンリッカからすればとうに知っていたことだ。そんな勝ち筋の薄い自身の策に溺れて、人生に汚点を残してしまったエンシオに同情すべきか。
どちらにせよヘンリッカにはまだいくばくかの猶予が残されているようだった。
*
「ヘンリッカ様、一緒にお茶会をしませんか!」
廊下ですれ違った瞬間、ミルカに両手を掴まれたヘンリッカがそんな風に迫られたのは事件の二日後のことだった。
どうもあれからチラチラとこちらの様子を窺われていることに自覚はあったが、お茶会とは一体なんだ。有無を言わせないような強い意思を湛えた大きな珊瑚色の瞳を見つめ返しながら目を白黒とさせる。
「お茶、会?」
「最近女生徒の間で流行ってるんです、放課後中庭とかでお菓子を持ち寄ってお茶会。もし時間があれば今から。ヴィヴィが美味しいお茶とお菓子を用意してくれてるんです!」
試験を前に控えてなにを悠長なと思わないでもないが、だからこそなのかもしれない。聞けばまだ直前というわけではないこともあって、息抜きにちょっとした休憩と称してささやかなお茶会が各所で行われているらしい。訓練の虫であるヘンリッカからしてみれば考えられないことだが、授業以外の時間は基本的に自由時間として定められているからその時間を使って他生徒と交流を深めている者も多い。キルカ=サラストは人脈作りの場でもあるのだから、度を過ぎなければむしろ推奨されていることですらあった。
「それってオレも参加していーの?」
頭上から振ってきた柔らかな声にどきりと胸を高鳴らせて視線をついと上へ持ち上げる。すぐ側にイェレの柔らかな金髪が目に入って、ヘンリッカはその近さにどぎまぎと落ち着かない気分になった。
あれからずっとそうだ。
隙あらばイェレが側にいるようになったのも、こうしてことあるごとに鼓動がざわめくのも。
「イェレ君はだめ。女の子だけのお茶会だもん」
「えー、仲間外れかー。……まぁ、ミルカちゃんがいるならいいか」
心底残念そうに声を落としたイェレは、しかし食い下がるつもりはないらしい。ぼそりと付け足されるように呟かれた言葉に複雑な思いが渦巻いて、少しだけ胸が痛む。
「リッカちゃん、オレのことは気にしないで行っておいで」
「ま、待って、待って下さい! 私は参加するとは……」
「息抜きは大事だよ?」
そうこうしているうちにミルカに差し出すように肩をそっと押されて、ヘンリッカは慌ててイェレを振り返った。だいたい約束をしていたわけではないがこれから当然のように訓練室に向かう流れだと思っていたのだ。この前ようやく――火事場のなんとやらを存分に発揮して――成功させたばかりの遠距離の纏魔を早く自分のものにしたい気持ちだってあった。
「夕食後の訓練はいつもどおり一緒にやろう」
だけどイェレの柔らかな笑顔に当てられて、すぐになにも言えなくなる。エンシオに付けられた傷――背中の打撲と、両手首の鬱血――はあのあと自身で治すことは許されず、医務室に連れて行かれてすっかりと癒えていたが、彼がヘンリッカを休ませたがっていることには気がついていた。
それに。
視線をつい、とイェレからミルカへと移してその期待にらんらんと輝く珊瑚色の視線を見る。
ミルカとはどうせ話をしなければならないと思っていたのだ。すでに気持ちが傾いていることを自覚したヘンリッカはほんのすこしだけ躊躇いがちに唇を開いた。
「……わかりました。ぜひご一緒させてください」
あの日、八つ当たりして追い出したはずのミルカがイェレを伴って戻ってきたのは、いつも自信に満ちあふれた気位の高い少女の消沈した様子が気がかりであったから、らしい。
イェレならヘンリッカを浮上させられると思ったミルカはあのあとすぐに彼を探しに行って、無事送り届けたら大人しく戻るつもりだったようだ。おかげでヘンリッカはエンシオから逃れることができたわけだがミルカの底なしのお人好しっぷりには呆れるばかりだ。そしてどうしようもなく悔しくて、嬉しい。きちんとした感謝を伝えなければならないことくらい、ヘンリッカだってわかっていた。
「中庭に場所を確保してるんです! あ、ヴィヴィも一緒なんですけど大丈夫ですよね?」
「はい」
半歩先を歩くミルカの後頭部を眺めながらどう切り出すべきか考えながら、落ち着かない様子で手を握りしめる。ヴィヴィが待っているという中庭へ辿り着く前に済ませてしまいたいし、改まって場を設ければなにも言えなくなってしまうような気がした。きっと、今この場で伝えてしまうのがいいのだ。
しばらくさんざん頭を悩ませたあとに、結局普通に伝えてしまうのが一番だと思い切る。
「あの、トゥーリさん」
「なんですか?」
おずおずと声をかけると、ミルカはほんの少しだけ歩調を緩めるとヘンリッカの隣に並んでこちらを見上げてきた。まっすぐ向けられた珊瑚色に一瞬だけ怯んで、すぐに思い直して無理矢理口を開く。
「先日は……ありがとうございました。おかげで助かりました」
「わわっ、頭なんかさげないで下さい! 当然のことをしただけですし」
「そうではなく……、いえ、それももちろんですが、酷い言い方をしたのに、その、私を気にかけてくださったことと……」
唇をしめらせて、小さく息を吸う。
「助言をくださったこと。おかげで、ずっと練習していた魔術が成功しました」
「ヘンリッカ様……」
やっとのことで出せた声は緊張のためか、それとも別のなにかが邪魔をしたのか、ほんの少しだけ掠れていた。お人好しの少女はヘンリッカを嘲るようなことはたぶんしないけれど、その表情を見るのが怖くて俯きがちになる。
「……本当は……これからもあなたの助言を求めるべきなんでしょうね」
たとえば兄たちに助言を求めるように、ときには師として仰ぐような、そんな関係はきっとヘンリッカを今よりもっと高いところにつれていってくれるだろう。彼女の実力は何度だって見せつけられているし、さらにその着眼点は独特で、ヘンリッカが思いもよらないような意見を持っている。
「ですが、たぶん……いいえ、絶対。これからも私はあなたと張り合ってしまうと思います。やっぱり悔しいし、……あなたには負けたくない」
それでもヘンリッカはこの同い年の少女に膝を折って、一方的に教えを請うような真似は絶対にしたくなかった。ミルカへの嫉妬心に溺れそうになっても、その才能にプライドを折られても、やはり絶対にしたくなかった。
なるなら、そうだ。
並び立ってお互いに意見をぶつけ合うような、そんな存在になりたい。
ふと浮かんだ言葉にずっと胸に抱えていたわだかまりの答えを見つけたような気がして、顔を上げ強い眼差しでミルカを見据える。
ミルカは彼女にしては珍しくその顔に欠片も笑顔を浮かべることなく、ヘンリッカと同じ強さの眼差しを返してくれた。何故だろう、初めて彼女としっかりと視線が合ったような気がしてそわり、と心が浮き足立った。
「私ね、嬉しかったんです」
いつの間にか互いに足を止めて向かい合っていた二人の間に、午後の柔らかな風がふわりと吹き抜けていく。
ミルカはその大きな瞳をまるでなにかを懐かしむかのように微かに細めると、ちょうど吹き抜けていった風のような柔らかな声で言った。
「私、小さい頃近所に住んでいた先生……昔ヴィフレア軍の魔術士だったおじいさんに魔術を習ってたんですけど、私の周りに魔術を使える子なんてほとんどいなくて、すごいね、すごいねって言われて育ってきました。魔術を覚えるのは楽しかったけど、先生まで私に規格外の生き物を見るみたいな目を向けるのは……住む世界が違うって一線を置かれてるみたいで、少し寂しかった。
でもキルカ=サラストに入ればきっともっとすごい子がたくさんいて、心から競い合えるような友達ができるって期待してたんですけど……結局みんな、敵わない別世界の人間を見るみたいな目になっちゃう」
彼女の言葉は受け取りようによっては自賛としか聞こえないような内容だったが、本人にそのつもりはないのだろう。淡々と語られるその気持ちは、少しヘンリッカにもわかるような気がした。
ヘンリッカだってその魔術に対する情熱の深さを周囲に理解されなかった人間だ。
「だけどヘンリッカ様だけは絶対私をそんな目で見なかったから。本当は私の方こそ敵わないなって思うところ、たくさんあるんですよ」
珊瑚色が微かに揺れて、強い光がヘンリッカを射貫く。それからミルカは彼女にしては大変珍しいことにひどく挑発的な顔でにやりと笑った。
「私、待ってます……ううん、待ってる。私に勝つんでしょ? はやくここまできて」
ぞわ、と体が震えた。
ヘンリッカを震えさせるそれは、恐怖心ではなく高揚感だ。
目の前にいるのは圧倒的な才能の持ち主で、一年前にも、そしてつい二日前にもヘンリッカのプライドを残酷なまでにへし折った相手だった。きっと今のままでは到底ミルカには追いつけないだろう。だけどヘンリッカはいつだってその霊峰タイヴァスすら凌駕するプライドで不可能を可能にしてきたのだ。
今は敵わなくてもきっと追いついてみせる。嫉妬心に溺れている暇などないし、そのためだったらお人好しのミルカが送る助言だって喜んで利用してやろう。
「……トゥーリさんこそ、この私がすぐ後ろに迫っているんですから待つなんて悠長なことを言わずせいぜい頑張って逃げて下さい」
ヘンリッカはいつものように葡萄酒色の瞳を勝ち気に釣り上げて、それから心からの笑顔を浮かべた。
「もちろん!」
それに応えるようにミルカも拳をぎゅっと引き結んで笑う。
和やかに、だけど確かに存在する互いの対抗心を絡ませあいながら笑い合う少女達の間に、刻を報せる鐘の音が鳴り響いた。途端、さっきまでの勇ましい様子が嘘みたいにミルカが焦り出す。
「あっ、早く行かなきゃヴィヴィに怒られちゃう……。あ、ね! 私もリッカって呼んでいい?」
ミルカがそんなに焦るということは、あの黒猫のような小さな少女は怒ると怖いのだろうか。
猫、というかうさぎの垂れた耳のように結われたヴィヴィの髪が雄牛の角のように天を突き上げ激昂する想像に一瞬気を取られて、ついでのように付け足された言葉に瞳を瞬かせる。
それからついイェレのことを思い出したあとに、僅かに頬を染めて頷く。
「……別に、好きに呼んでくれて構いません」
「じゃあじゃあ私のこともミルカって呼んでほしいな!」
「それはちょっと……ま、まあどうしてもって言うのならば呼んで差し上げますけど」
「どうしても! ね、お願い!」
ヘンリッカからすればだいぶ難易度の高い願いに頷く気にはなれずつんと顔をそらして見せるのに、ミルカはまったくめげなかった。あの性格の悪いアルマースを懐柔しただけある、さすがの人懐こさと言うべきか。なんとなくミルカの周囲が彼女に甘い理由の片鱗を見た気がして、ヘンリッカは思わず軽やかに笑った。
「んんっ仕方ないですね……ほら、ミルカさん早く行きましょう」




