08-2
「……っ」
「ぐあッ!」
思わずぎゅっと目を閉じ来たるべき衝撃に備えて、しかしヘンリッカの耳に届いたのは鋭く風を斬る音と男の悲鳴。
「ヘンリッカ様!」
そしてバタバタとやかましい足音と悲鳴のように自分を呼ぶ少女の声だった。
ふわりと痛みに震える身体を包み込んだ柔らかな感触に、おそるおそる瞼を開ける。心配げに揺れる珊瑚色の瞳が誰のものかすぐにわかったヘンリッカは呆然とその名を呼んだ。
「トゥーリ、さん」
「ひどい、どうしてこんなこと」
一方的な怒りをぶつけて遠ざけたはずのミルカが、瞳を痛ましげに歪めながら身をかがめて自分をやんわりと抱きしめているこの状況がどういうことであるのか理解できないヘンリッカではない。本来であれば漂うはずの気まずさすら忘れて息を吐いた彼女は、だが次いで聞こえてきた鈍い音と相対する人物の名を呼ぶエンシオの声に一気に意識を持って行かれ慌てて身体を起こした。
「……ッ! イェレ!」
走る痛みに顔をしかめながらも、我を忘れミルカを押しのけて、自身と床に座り込むエンシオとの間に立つ見慣れた背中に声を投げる。いつもであればすぐに振り返って眦を下げる金髪の男は、僅かに剣の柄を持つ手に力を入れただけでその瞳をヘンリッカに見せようとはしてくれなかった。
「大丈夫だよ、リッカちゃん」
ただいつも以上に柔らかな口調で呼ぶ声だけが、未だ震えの残るヘンリッカの耳を優しくくすぐる。
「……ふん、模擬戦で一回も私に勝てたことがないくせによくそんな口が叩けるな、メリルート」
「あは、せっかく不意をついたんだからそのまま気絶してくれたらよかったのに」
普通に考えればもうエンシオに勝ち目はない。確かに相手がイェレだけであれば彼が言うように負けることはなかったのかもしれないが、今この場にはミルカがいてヘンリッカだっている。だがかえってこの状況にやけくそでも起こしたのか、剣呑に光る彼の瞳からは戦意の喪失というものを一切感じ取ることができなかった。
「不意などつかれたところで、出来損ないごときにやられるとでも思ったか」
言葉どおり多少ふらついただけですぐに体勢を立て直したエンシオが腰から剣を抜く。訓練室の灯りを受けて下品なほどに光る刀身は、当然だが本物だ。学内で対人戦を行う際には刃を潰した訓練用の武器を用いることが定められているのだが、頭に血が上った彼にはそんな決まりなどとうに消え失せているのだろう。
「こっちは一応気を使って抜いてないんだけどなぁ」
「抜け。どうせ届かない」
対して訓練用ではないものの鞘を付けたまま剣を構えていたイェレはエンシオの言葉に僅かに嘆息すると、拒否するように緩く首を振った。
「煽るね。……正直殺してやりたいくらいむかついてるんだけど、一緒に堕ちてやる義理はないな」
そして両者の間にふと落ちた沈黙が合図だったのかもしれない。
先に飛び出したのはエンシオだった。
ぬらりと妖しく光る刃が閃いて、耳障りな金属音が広い訓練室の静寂を切り裂いた。軽い牽制だったのだろう、受け止められることを知っていたように相手の鞘を滑った剣先は息を吐く間もなくイェレの喉元に突きつけられる。
ヘンリッカが悲鳴を上げる隙などなかった。
かろうじてそれを仰け反り避けたイェレが反撃とばかりにエンシオの横腹を薙ぐが、その攻撃は相手を捕らえることなくただ空気を掻き回す。
騎士科の授業風景すらまともに見ていなかったヘンリッカにしてみれば、彼らの攻防は目で追うだけでも一苦労だ。だけどこんな時でも憎らしいくらいに型の崩れない演舞のようなエンシオの剣が、徐々にイェレを追い詰めているのだけはすぐにわかった。ましてや相手が持つのは真剣だ。避けきれなければ軽い怪我などでは済まないのは確実だろう。
もちろんそんなことになればすぐにでも魔術で治癒するつもりだが、万が一がないだなんて一体誰が確約してくれるだろうか。
「だめっ!」
「へ、ヘンリッカ様! 危ないですよ!」
勢いよく薙がれた剣先がイェレの鼻先を掠めるのを見て思わず飛び出そうとしたのを、腰に巻き付いたミルカに押しとどめられる。構わず振り払ってやろうかとも思ったが、未だズキズキと痛む身体に存外力の強い少女をなんとかするのは少々荷が重いようだった。
「離してください! このままだとイェレが……!」
「だ、大丈夫です。い、いざとなったら私が」
それならば何故すぐにでもイェレを助けてくれないのかと詰りたいくらいだったが、普段ミルカと模擬戦を繰り返しているヘンリッカは、彼女が魔術の繊細なコントロールを苦手としていることを知っている。下手に手を出してイェレを巻き込んでしまうことを恐れているのかもしれない。実際彼女の爆発に区別無く巻き込まれている二人の姿を想像する方が容易かった。
むしろそういう繊細な作業に長けているヘンリッカだって近接戦闘をしながら動き回る人間の片方だけにうまく攻撃を当てる自信はない。
だけど、纏魔ならば。
「ちょ、ヘンリッカ様!」
印を描こうと腕を上げて、手首の痛みに顔をしかめる。それにめざとく気がついたミルカがヘンリッカの腕に向かって手を伸ばしかけて、しかし傷に障るのではと躊躇うのがわかった。だが鞘で受け止めるのが間に合わず腕で刀身を受けようとしているイェレが目に入ってしまえば、ミルカの存在も痛みすらも、なにもかもが吹き飛んでゆく。
もう、無我夢中だった。
自分がなにを描いているかも自覚がないまま素早く放った魔術は地を這いイェレとエンシオとの間に土の壁を作る。魔力も魔術印の精度も十分に練られたとは言えないそれは、本当に一撃エンシオの剣を受けただけで脆く崩れ去ったが、すでにヘンリッカの指先はもう一つの魔術印を完成させようとしていた。
何度も何度も指自身に覚え込ませるように繰り返した文様は、込められた魔力の想いに引きずられるように形を変えて滑らかな軌跡を描いてゆく。
あるがまま、と言っていただろうか。ミルカの言葉が無心の暗闇のなかにぽつんと浮かび上がって、さらさらと溶け込むように消えていった。なるほど、余計な力を抜いてみれば確かに魔力は自ら光芒を描く意思を持っているようにすら感じる。
一度としてつかえることなく綴じられた美しい魔術印は、ヘンリッカが最後に優しく触れると、まるで光の道筋のように人の身では認識できぬ速さでイェレの元へ辿り着くと、ふわりと羽毛が舞うように速度をゆるめて彼の腕に巻き付いていった。
「イェレ!!」
切実な響きを持たせて叫んだ名前は、正しくイェレに届いたようだ。ちらりとヘンリッカを見た瞳の森が優しく揺らめいたのが何故か――到底見えるような距離ではないはずなのに――よくわかった。長く細く伸びた紅い炎が、するりと吸い込まれるようにイェレに入ってゆく。
ヘンリッカの作り出した一瞬の土壁によろめいたエンシオに打ち込まれたイェレの一撃は、文字通り火花を散らす一撃だ。
さすがと認めるべきか体勢を崩しながら、からくも一撃を受け止めたエンシオも前髪を焦がす火に動揺を抑えることはできなかったらしい。ぐらりとよろめいた彼の足元に容赦のないイェレの足払いが綺麗に決まって、身体を強かに石造りの床へと打ち付ける。その衝撃でエンシオが手放した剣を遠くへ蹴り飛ばしたイェレは、さらに胴に一撃を食らわせると、呻いて動かなくなった彼をじっと見下ろしてようやく息を吐いたようだった。
「イェレ……!」
イェレが纏魔を解くのを見届けて、駆け寄ろうと立ち上がる。
「あっ、ご、ごめんなさい」
未だに腰に巻き付いていたミルカはすぐにヘンリッカの意図を察して離してくれたが、もたついているうちに駆け寄ってきたのはイェレの方だった。二、三歩動いたところで長い腕に優しく受け止められてどきりと胸が高鳴る。
「リッカちゃん……」
優しい色合いの瞳でいたわるような視線で見られてしまえば、ずっと張り詰めていた緊張の糸はいとも容易くプツンと切れてしまった。足の力が抜けて崩れ落ちそうになったところをぐっと抱き留められて背中をゆっくりと撫でられる。
「……かわいそうに、怖かったでしょう」
イェレの甘やかすような声と、温かな体温、そして優しくて大きな手のひらにぐずぐずに溶けてしまいそうだ。
「こ……怖くなんて、ありませんでした。それよりもあんな男に遅れを取るだなんて、その……、情けない、です」
ツンと鼻の頭にこみ上げた涙を隠そうと強がりに勢いづいた言葉が尻すぼみになったのは、腰を支えるイェレの手のひらにわずかに力がこもって、彼の呻くような吐息が耳を掠めたせいだ。急に自分を溶かす熱がイェレのものだいうことをまざまざと自覚させられる。安堵感にむしろ落ち着いていたはずの鼓動がうるさいくらいに騒ぎはじめた。
自慢じゃないがヘンリッカは今まで一度だって異性とこんな風に近くで触れあった経験はない。
ヴィフレアは婚前の男女交際に対して近隣諸国の中でもかなり寛容な国で、未経験が求められるのはせいぜい間違いがあってはならない王族の婚約者くらいだ。大昔ならいざ知らず、魔法薬による避妊技術が発達した今ではきちんと筋を通して節度さえ守っていれば恋愛は自由なのである。
ヘンリッカのように十六歳ともなれば恋人の一人や二人いたことのある子はけして珍しくないし、実際学内で恋人同士の逢瀬を見かけることもある。だが人間関係を疎かにするあまりまともな友人すらできたことのないヘンリッカが、そんな経験があると思うだろうか。いや、あるはずもない。甘酸っぱいささやかな触れあいすら架空のお話の世界にしか存在しなかったのだ。
一度意識してしまえばもう駄目だった。
騎士らしい広い胸に受け止められた体が燃えるように熱を持って、どこにも触れていないはずの顔をじわじわとのぼせ上らせてゆく。幸い両手を胸の前で握りしめていたおかげでこの暴れまわる心臓をイェレに押し付けることだけは避けられているが、全身の血がどくどくと波打ち始めているのを鑑みればバレてしまうのも時間の問題のように思えた。
「……リッカちゃん」
「ひゃっ、ひゃい!」
耳元で落とされた聞き慣れたはずの声に、身体が過剰反応してびくりと震える。裏返った声音がヘンリッカの心理状況を情けなくなるほど正直に自白していた。ますますどうしていいかわからなくなって身を強ばらせていると、ゆっくりと体が離されて少し困ったような笑みを浮かべたイェレと目が合う。恥ずかしくてすぐに目を逸らそうとしたのに、憂いを帯びた甘さのある視線にどきりとして目が離せなくなった。
「ごめん」
ぼうっと見蕩れているうちに小さく零された謝罪がなにに対してなのか掴みかねていると、イェレの視線がすっとヘンリッカの両手に落ちて険しくなる。
「手、大丈夫? あと背中も打ってたよね。手首痛めてるかもしれないから、はやく治してもらおう」
「え……あ……」
なんのことだかわからずに自分も視線を落とすと、手首にくっきりとついた赤黒い手形にぞっと体が震える。エンシオに掴まれたときについたものだろう。
イェレの指先がそっと痕に触れるように伸びて、思い直したように離れてゆく。それだけで痕に気がついたときの恐怖などころりと忘れて、ただそれを残念に思う気持ちがヘンリッカの胸を満たした。さすがに暴れ回るのはやめてくれたものの、未だ早鐘を打つ鼓動がやけに鮮明に全身を駆け巡っていくのがわかる。
離れていく長い指先を見るだけできゅっと胸が締め付けられるようなのに、どこか甘い疼きが胸を満たした。
ふと、パッとなにかが弾けるように自覚する。
触れて欲しかったのだ。
その欲望の意味を理解した途端、ぶわりとこみ上げてきた感情をどう処理すればよいのだろう。
甘くて穏やかな森のような色合いをした瞳が好きだ。
軽やかですっと耳に馴染む声に潜む、優しさと思慮深さが好きだ。
ただまっすぐに剣を振るってきたことがわかる、硬くて傷だらけの手が好きだ。
いつもしっかりと目を合わせて喋ってくれるところも、たまに見せるうっとりするような大人っぽい表情も、自身の境遇を笑って話すところも、まっすぐな言葉も。
「イェレ、私……」
衝動に突き動かされるように唇を開きかけて、あふれ出るその想いの大きさに喉がつかえる。新しい魔術に出会ったときのような高揚感と似ているようで根本的に違う不思議な感覚と胸の高鳴りは、どうしたって慣れぬヘンリッカを戸惑わせた。
そのまま目を合わすこともできないまま熱くなった頬を隠すように俯いたヘンリッカの視界の隅で、なにかが動いたような気がした。
「ヘンリッカ様!」
同時にミルカの叫び声と、響き渡る石を穿つ怖ろしい破壊音。
さきほどまで鳴っていた甘い音とはまったく違うふうに変な音を立てた胸を押さえながら、恐る恐るイェレの体の陰から身を乗り出して音の発信源を見やる。
「わー……やば」
頭上から聞こえた気の抜けたようなイェレの声に、思わず深く同意したくなる。
おそらくヘンリッカとイェレの興味が自身から逸れたその瞬間を狙ったのだろう。そこにはいつの間にかこちらへ体を向けたまま倒れ伏すエンシオの姿と、派手に抉れた床の残骸。
すっかりとイェレ以外の存在を頭から閉め出していたが、状況的にエンシオの行動にいち早く気がついたミルカが彼が愚行を重ねるのを止めるべく対処してくれた、ということに間違いないだろう。
しかし、これは。
「あはっ……、やりすぎちゃった、かも……?」
大きな瞳を瞬いて頬に手を当てながら小首を傾げるミルカは大変愛らしかったが、到底可愛いとは言えないエンシオの惨状にヘンリッカは顔を引きつらせることしかできなかった。




