08-1
一人になるべきではなかっただろうか。
それとももっと警戒して気を張っていれば、こうやっていとも簡単に捕まるのを回避できただろうか。
腕の自由を奪うエンシオの指が肌に食い込む痛みを忌々しく思いながら、漏れるため息を抑えてぎりりと唇を噛みしめる。脳裏に後悔と共に響くのはそれこそ今日言われたばかりのソニヤの忠告だ。あんなにも自信満々に大丈夫だと言い切っていたくせにこのざまである。
だがまさかここまでの強硬手段に出るだなんて思わないじゃないか。だいたい相手はいくらこのような腐った行動に出る男であろうとも騎士科の序列三位なのだ。魔術にしか打ち込んでこなかったヘンリッカが身のこなしで勝てるはずも無く、近づくのを許した時点でこうなることは避けられなかっただろう。
ヘンリッカは人気のない訓練室の壁に身体を預けながら頭から後悔の二文字を追い出すと、こちらを見下ろすエンシオの茶色い瞳を睨みつけてなんとかこの状況から脱出する方法がないか思考を巡らせた。
魔術士は印を描いて魔術を発動する関係上、手の自由を奪われてしまえばほぼ無力と言っていい。今は手首を掴まれているだけなのでなんとか指は動くが、さすがにこの状態でそれが許されるわけはないだろう。だが何か注意を逸らすことができれば、簡単な魔術でエンシオの指を引きはがすことは不可能ではない。
教官の同席する訓練時をのぞいて魔術で人へ危害を加える行為は当然禁じられているが、この場合は正当防衛が適用される。
問題はどうやって気を逸らすか、だ。
「手荒なことをしてすまない。だがどうしても私の話を聞いて欲しくてね」
なにか使えるものがないかと周囲に視線を走らせるヘンリッカを気にも留めずに、エンシオは悠々と口を開いた。
隠しきれない高慢さの滲んだ声音は、話さえできればヘンリッカなど簡単に御せるのだという自信の現れなのだろうか。彼がもしヘンリッカの解放を条件に要求を呑むことを強要するならば、これは立派な脅迫だ。適当に従うふりをして自由を得たヘンリッカが教官に訴え出れば、退学だって有り得るような行為である。
子どもでもすぐにわかるようなことなのに、彼がこうして笑っていられるのははっきり言って不気味だった。
「……パートナーのことでしたら、なにを言われても了承する気はありません」
だが例えこの場限りの嘘であろうとも、ヘンリッカは折れる気などない。
イェレを、ひいてはヘンリッカを侮辱したこの男に膝をつくことなど、彼女の誇り高い矜持が許すはずなどなかった。目元にありったけの嫌悪感を滲ませて、エンシオを睨みつける。
幼少の頃、茶会で直接嫌味を投げつけてくる年上の少年をも泣かせたヘンリッカの眼光を受け止め、しかしエンシオは怯むことすらせずに鼻を軽く鳴らして、それから余裕たっぷりに笑って見せた。
「これ、なにかわかるかい?」
なんて嫌な笑みだろう。
口元をいやらしく歪ませたエンシオはヘンリッカの細い手首をいとも簡単に片手でまとめ上げると、空いた右手でゆっくりと懐から取り出した白いなにかをまるで見せつけるようにひらひらと揺らして見せた。
手紙だ。
つられるように白く眩しい封筒を視線で追って、鮮烈に存在を主張する深紅の封蝋に吸い寄せられるように視線を絡め取られる。
「……っそれは」
見覚えのある紅だと、そう感じたのは当然のことだった。国王から名を戴いたその年から変わらぬ紅にはっきりと刻まれた印は、他ならぬヴィーアライネのものだ。特に複雑に炎が絡みあったようなあの刻印は公爵本人にしか押すことのできない特別なものである。
ヴィーアライネに生まれた以上見間違えることなど許されぬそれが、ヘンリッカの父親からの手紙であることは明白だ。それもエンシオの父親であるエクルース侯爵に宛てられたものだろう。
わざわざこうしてエンシオがこうしてヘンリッカへ見せつけている意味と照らし合わせてざわりと心が揺れる。
「その様子だと予想はついたか? もったいぶる必要はないか。……そうだ」
婚約の打診だよ。
誰と、誰の。だなんてそんなことを聞くまでもない。耳元に寄せられた唇が囁くように落とした言葉は、驚くほどの怖気を伴ってヘンリッカを総毛立たせた。
「ヴィーアライネ公爵は君がこのまま軍人になることを反対しているみたいだね。卒業前に君をさっさと嫁がせるつもりらしい」
娘に甘い、とされているヴィーアライネ公爵が娘の行く末について娘自身の意思と反目していることを知るものは、基本的には家族だけだ。そもそもヘンリッカの処遇について公爵がなにかを言ったことは一度としてなく、反対されているだろうというのも姉の現状とけして許されぬ支援を鑑みて自然と感じ取っただけのことである。
とはいえこの件に関しては兄たちもヘンリッカと同じ意見で、言葉少ない父の意思を読み間違えているということはきっとないだろう。だがそれを知らない周囲の貴族たちが見るのは、ただ甘やかされ生家からの手厚い支援により才能を欲しいままに発揮するヘンリッカの姿だけだ。
だからこうしてはっきりと公爵の意思を言い当てるエンシオの言葉が、けしてただのはったりではないのは明らかだった。
「公爵は君をただ甘やかしているだけだと思ったけれど、きちんと家の未来を見据えている方のようだ」
「……父がなにを考えていようと私は婚約などするつもりはありません。ましてやあなたとなんて……いッ!」
それでも折れる気などないとばかりに眼差しに力を込めれば掴まれた手首がギリギリと締め上げられた。思わず漏れかけた無様なうめき声を矜持で抑えつけて、血の滲んだ唇を硬く引き結ぶ。
「本気で公爵に逆らえるとでも思っているのか?」
「……ッ」
仄暗く光る茶褐色の瞳に浮かぶのは嘲りだ。
エンシオに指摘されずとも当然ヘンリッカとて父を説得するのが一筋縄ではいかないことなどわかっている。だからこそ既成事実をつくってなし崩しに認めさせる方法を目指しているのだ。それが可能であろうと不可能であろうと、その決意は今更誰になにを言われようが曲げるつもりなどさらさらない。
だがヘンリッカの沈黙を都合良く受け止めて満足げに頷いたエンシオは、唇を愉快そうに釣り上げて言った。
「私のパートナーになるなら口添えをしてやってもいい」
「なにを……」
「公爵は君を嫁がせることができなくなるから軍人になることを反対しているわけだろう」
その通りだ。
ヴィーアライネの娘を跡継ぎの伴侶に望むような貴族が求めているのは、結局のところ――ヘンリッカの価値観からすれば非常に不愉快ではあるが――濃い魔力をもった優秀で若く健康な胎だけ。優秀さという意味ではそうそう類を見ないヘンリッカだが、こと若さと健康という点では夢を諦めねば得ることができないのは明白だろう。
他の師団ならまだしも第二師団に所属すれば命の危険はずっと付きまとうし、いつかイェレにも言ったようにできるだけ長く続けたいという展望だってある。ただ魔術と夢に邁進している少女には結婚したいという願望すらなかった。
だがヘンリッカの父親は、自身の子どもたちをヴィーアライネの地盤固めの駒程度にしか考えていない公爵は、そんな娘の身勝手を許すつもりなどない。
「だが婚約者がそれを許すなら話が別だと思わないか? 一年か、二年か、いつまで英雄ごっこをしたいのかは知らないが、跡継ぎを産むのにさえ問題がなければ、エクルースは君が軍人になっても構わない」
「……あなたが、父を説得すると?」
「ああ、将来が約束さえされていれば公爵も必要以上に反対はしないはずだ。その代わり私のパートナーとして、だがな。未来の伴侶を守り、導くのは当然の義務だろう? それに……」
いやらしい笑みを浮かべたエンシオの視線が舐めるようにヘンリッカの肢体を撫でて、なめくじの這った跡のように粘ついた気色の悪さだけを残してゆく。
「出来損ないのお下がりをもらい受ける趣味はない」
いくらその手のやり取りに疎い自覚があるヘンリッカでも、さすがにその言葉の意味を理解するのは容易いことだった。
なんとか抑え込んでいた怖気が一気に噴出し、気持ちの悪い手のひらが絡みついた手首から伝播するようにぞわりと全身が総毛立つ。
「……っ!」
もしヘンリッカが少しでも不作法な振る舞いを知っていたとしたら、今頃エンシオの顔は吐きかけられた唾に塗れていただろう。だが幸か不幸かそのような知識を得ずに育ってきたヘンリッカは、この煮えたぎる怒りを表現する術をただ睨み付ける他に知らない。
「あなたと婚約するくらいなら、死んだ方がよっぽどマシだわ。同じ空気を吸うことすらおぞましい!」
「なんだと……!」
それでもありったけの嫌悪と怒りを込めて、けして豊富ではない語彙で罵倒を投げつける。怒りに震えるエンシオの瞳が憎々しげに自らの顔を突き刺しているのを確認したヘンリッカは、それを好機と見て素早く指が動かせる範囲で描ける魔術印を結んだ。
伊達にここ何日も印の簡略化に頭を悩ませていたわけではない。
今までの彼女ならば考えられないような手のひらの大きさにも満たない範囲に描かれた光芒は、それでもしっかりとヘンリッカの想定通りに形を結んで炎を噴出させた。
「チッ……!」
「きゃっ」
だが印の大きさよりもさらに小さな炎にエンシオが怯んだのは、ほんの一瞬のことだった。わずかに前髪だけを焦がした男の瞳がギラリと凶暴に光り、指先は緩むどころかさらに強い力でもってヘンリッカの手首をギリギリと締め上げてゆく。
「いっ、離して!」
「よくも……! ああ、お望みどおり離してやるさ!」
「ッあ!」
骨が折れるような痛みに完全に意識を持って行かれ、一瞬の浮遊感の後に鈍い音と共に打ち付けられた背中の痛みに息を詰まらせる。まるでゴミのように投げ捨てられたヘンリッカは、しかし自由の身になったことを喜ぶ暇すらなく振り上げられたエンシオの足先を見てただ身を硬く丸めた。




