07-3
中空に浮かぶ繊細なレースのように織られた光の文様に、慎重な手つきで緩やかな弧を繋ぎ印が持つ意味を重ねてゆく。たった糸数本分のずれが魔術印の持つ意味を違えてしまう精密な作業。その緊張感に指先が震えた途端、光芒が弾けて霧散した。
空気に溶けてゆく光を忌々しげに睨み付けながら行き場を失った指先でローブをきつく握りしめる。
いったい、これで何度目の失敗だろうか。
ヘンリッカが寝る間も惜しんで練習し続けている遠距離からの纏魔は、ひとまず魔術印の方向性はより簡略化すべしと決めたものの、やはり速く描こうとすればするほど成功の確率が著しく下がってしまっている。
同じことを繰り返し重ねることを苦とは思わないが、一向に望む速度で成功させることができない己への苛立ちはどうしたって抑えることができそうにもなかった。繰り返すことで成長しなくてはならないのに、結局やっているのは同じ失敗を繰り返しているだけ。
会う時間を減らしはしたものの、毎日顔を合わせているイェレはヘンリッカの個人訓練の進捗について聞いたりはしてこない。それをありがたいと思いつつも、このまま成功させることができずに彼が寄せてくれる期待を裏切ってしまうのではないかという恐怖が常に付きまとっていた。
もちろんイェレがそんな簡単にヘンリッカを見限るような人間でないことは、この一ヶ月で十分に理解しているつもりだが、だからこそ逆に怖いのかもしれない。
思わず漏れ出しそうになったため息をぐっとこらえて、もう一度挑戦しようと指を持ち上げる。
だが、ふと人の気配を感じてその動きを止めたヘンリッカは視線の先に会いたくなかった人物の姿を認めて、とうとう小さなため息を漏らした。
「ヘンリッカ様こんばんは!」
「……トゥーリさん」
ヘンリッカがこの世で一番無様な姿を見せたくなかったその人物、ミルカは、プライドの高い少女のため息にまるで気がついた様子もなく珊瑚色の瞳を嬉しそうに瞬かせて立っていた。
寮から一番遠いこの訓練室は、夕食後のこの時間になると利用者が非常に少なくなる。集中を要するためできるだけ静かな方がいいと敢えて選んだ立地だ。今もヘンリッカ以外は誰もいないはずだったのに、よりにもよって唯一の天敵と顔を合わせることになってしまった不運を嘆くべきだろうか。
「今日はお一人で訓練ですか?」
「そうです」
興味津々といった体のミルカに、なるべく冷たく聞こえるように言葉を短く切ってついっと視線を逸らす。できれば場所を変えてくれるか、そうでなくともこちらへ構わないでいてくれることを期待してとった態度だった。
しかし彼女がこれくらいでめげてくれるような性格であるはずがない。
案の定視界の端でそわそわとヘンリッカを伺うようなそぶりを見せたミルカは、意を決したように前のめりに口を開いた。
「あの! 見ていてもいいですか?」
「……勝手にどうぞ」
ミルカに失敗している自分の姿を見られるのは悔しかったが、だからと言って殊更に意識してここから追い出すのはもっと悔しい。ギシギシと悲鳴を上げ始めたプライドを自覚しながら、ヘンリッカは努めてミルカを意識から閉め出して再び魔術印を結ぶことに集中した。
僅かなずれも許されないのであれば、何度でも描いて目をつぶってでも描けるように身体に感覚を覚えさせればいい。ゆっくりと時間をかけて何度も、何度も正確に指を動かして徐々に描く速度を上げてゆく。
緊張に強ばる手首が柔らかな曲線を歪ませた。
情けないまでの動揺がそのまま表れた光跡に、痺れるような苛立ちが脳を揺さぶって息が詰まる。
「あの」
「……ッ」
衝動のまま怒鳴りつけなかった自分を褒めてやりたい気分だ。
ぎゅっと手のひらを握りしめて小刻みに震える鼓動を宥めながら、声を上げたミルカを見やる。いったいどういうつもりなのか、ミルカは大きな瞳を細めてなにやら考えるようなそぶりを見せたあとにヘンリッカの隣に立つと、滑らかな動作で魔術印を描いた。
「その、もしかしてなんですけどこっちの方がいいかもです」
たった今一度見ただけのはずなのに易々と意図を理解し改良案を示してくるミルカに、宥めたはずの震えが再び蘇る。
「……なぜです? こちらの方が手順が少ないでしょう」
ミルカの示すかたちはヘンリッカが考えたものよりも二手手順が多かった。それは普段シンプルな印を結ぶミルカからは考えられないほどに複雑で、しかし彼女の指はまるで氷の上を自然のままに滑っているかのように滑らかでつかえがない。
ああ、ここでも圧倒的な才能の差を見せつけられるのか。
結果として発動する魔術が敵わなくとも印を描くことの巧さだけはそう変わらないと思っていたのに、それすらもあっさりと超えられてしまったことに目の前がぐらぐらと揺れた。
「えっと、そうなんですけど魔力にも好きな向きがあって、こっちにいくと嫌がるっていうか」
「……好きな向き?」
「はい。なんていうのかな……魔力自身がするするーって動いてくれるので、速いし失敗も少なくすむんです!」
「……よく、わかりません」
「ですよね……ううっ、よく言われます。この前ヴィヴィにも言われました……」
まるでイェレが纏魔のことを説明するときのように、感覚に任せきりの言葉がするりと耳から入り込んでヘンリッカの中を痛めつけてゆく。
「でも、なんていうか! ヘンリッカ様の魔術ってすごくキレイなんですけど、整いすぎてるっていうか! もうちょっとこう、あるがまま? 自然な姿? に任せた方がいいんじゃないかなって!」
「……!」
イェレに褒められた、これだけは絶対に誰にも負けないのだと大切に守っていた部分を直接殴られたような気分だった。身体中を巡るちくちくとした痛みと強い衝撃を伴う痛みとで、努めて冷静であろうとした意識にヒビが入ってゆく。
たぶん、きっと、確実に、ミルカの言うことを素直に聞くべきなのだ。
彼女の言葉はおそらく何度やっても上達の兆しすら見えない単調な繰り返し作業に、大きく状況を改善する一刀を入れようとしている。ヘンリッカがいくら嫌味を投げつけようともにこやかな態度を崩すことのないミルカは、きっと善人で、それ以上に疑いようのない天才だ。
特に今ヘンリッカが求めている印を結ぶ速さという点においては、キルカ=サラスト内では誰も――もしかしたら世界中ですら――敵わないほどの力を持っている。そんなミルカに言われたことが間違っているだなんて誰も、ヘンリッカすらも思わないだろう。
「……哀れみですか?」
「え?」
だからこれはただの浅はかで醜く、惨めな嫉妬だ。
「必死になって無意味なことを繰り返している私への施しでしょうか? 私はあなたに負けないと言いました! あなたも私にも負けないと……それでもこうやって敵に助言をするような真似をするのは私があなたに絶対敵わないことがわかっているから? ええ、そうでしょうね、その通りです。ああ、貴重なご意見ありがとうございます。ですが私はあなたのような天才的な感性も才能も……ッ」
唐突に理不尽な怒りに晒されたミルカはただただ戸惑うばかりだろう。口を開けばあふれ出る言葉は、きっとミルカよりもヘンリッカ自身を傷つけていた。
魔術は才能だ。
例え恵まれた才能を持ち、時間も金も全てを費やしたところで、それ以上の才能があればあっさりと乗り越えられてしまう。そんなのは最初からわかっていたことだ。実際ヘンリッカだって才能を持たないものから同じようなやっかみを受けたことだってある。
ヘンリッカの才能程度ではいくら努力を重ねたところでいつかは天井にぶち当たるし、そもそもミルカよりも上を行くことに魔術士としての動機を持つのは国民を守るべき軍人として間違っているのだろう。それはソニヤにも指摘されたことだ。
だが全てわかった上で――ミルカへの敗北が決定的になってしまうような気がして、けして表に出さないようにしていた――醜い嫉妬心があふれ出て止まらなかった。それでもどうしても認めることができない一線が、忙しなく動いていた唇をわななかせて口を噤ませる。
「あ、あの私! そういうつもりじゃ全然なくて……!」
「……っ。すみ、ません」
ヘンリッカを傷つけてしまったことを詫びるようなミルカの態度が胸に突き刺さった。彼女はなにひとつ悪いことをしていないのに、こうして浅はかな感情に飲まれてしまう自分のなんと惨めなことだろうか。
「……一人に、してくれますか」
「あ……」
これ以上の愚行を重ねたくなくてまともな謝罪もしないままミルカに背を向けると、彼女はほんの少しだけまごついたような間を開けた後にぱたぱたと足音を響かせて去って行った。
その音を漫然と聞き流しながら己の指先を見つめる。
せっかく最近の振る舞いを褒められていたのに、イェレがけして才能によらないヘンリッカにしかない価値を見出してくれたのに、まったく成長ができていない。
ヘンリッカだってわかっているのだ。
ミルカと無駄に張り合おうとするのは、ヘンリッカ自身の首を絞めることと同義だ。
彼女への対抗心が実力の向上につながるのならばまだしも、こうして悪い方向に働くのならば今すぐに捨て去ってしまうべきだし、そもそもあれは張り合ったところで到底敵うような才能ではない。
わかっているのに、どうして止めることができないのか。
あまりの情けなさに滲んだ涙をこぼさないようにぐっと眉根に力を込めて瞳を閉じる。胸を詰まらせるどろどろとした澱を吐き出そうとゆっくりと唇を開こうとした瞬間、後ろから伸びてきた何かに口を塞がれた。
「!」
意識外から突如表れたそれにびくりと身体が震えて、飛び出し損なった悲鳴が喉奥だけを震わせる。
驚くほど強い力で何者かにあっという間に壁際に追い詰められたヘンリッカは、眼前に昼間睨みつけたばかりの茶色い瞳を見つけてぞっと身体の芯を凍らせた。
エンシオだ。
ほんの数刻前にソニヤに追い払われて退散したはずの青年は、瞳にどこか狂気の光を湛えて再びヘンリッカを見下ろしていた。
「なぜ……」
拘束が緩んだ口元から漏れたのは先ほど上げ損ねた悲鳴ではなく、疑問の声。
「昼間の話、まだ終わってなかっただろう」
つまり了承の答えを得るまではけして話が終わることなどないのだと言いたいのだろう。頭を抱えたいのにヘンリッカの両手首を壁に縫い止めるエンシオの腕はそれを許さない。
ヘンリッカには自身の迂闊さを呪って、ただ息を呑むしか無かった。




