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07-2

 幸いにもアルマースのおかげで冷静さを取り戻し、加えて日中の授業を終えて十分な時間を置いたヘンリッカは、夕食前の訓練の際にはすっかりいつもの調子を取り戻していた。


 くだらない噂を吹聴する輩は腹に据えかねるし、イェレが噂についてどう思っているのかは多少気になるところではあるが、わざわざ時間を割いて確かめるようなことでもない。


 そんなことよりも重要なことを思いついてしまったからだ。


 おかげで兵法の授業中に数十分ほど上の空になるという失態を冒したが、そこは反省してあとで復習をしっかりやれば問題ない。通い慣れた訓練室でイェレと顔を合わせたヘンリッカは、彼に勢いよく詰めよって口を開いた。


「魔術の勢いを殺す必要があるのは単純に速度の問題なんでしょうか? それとも一度勢いがつくと魔力の質が変わりますか?」 

「えーっと、いきなりどうしたの?」

「やはり長距離から放った魔術を纏えるようになった方がいいと思うんです。魔獣との交戦中にお互い近づける機会はほとんどないはずですし、特に補助系は臨機応変に対応できればその分危険も下がります」


 二人はあれからそもそもなにが出来るのか、実験を繰り返す日々を過ごしている。纏う側が融通を利かせられるヘンリッカとイェレの纏魔(てんま)は一般的に知られているものよりもずいぶんと使い勝手がよく、重ねがけこそ出来ないものの例えば左腕には硬化、右腕には炎といった具合に大まかな部位ごとに複数種纏うこともできた。


 だが現状どうしても二人が隣り合わせの状態でなければ纏魔(てんま)は成立せず、一度かけてしまえばかけなおすことは困難だ。通常の纏魔(てんま)は魔力の方が纏わりつくためか長距離からのかけなおしは可能で、だからこそなおさら出来ないことがもどかしい。


「んー、速度だよー。速いと目が掴めないんだよね」

「目……?」

「うん、目」


 編み目とかの目だろうか。

 相変わらず感性一辺倒のイェレの言葉に首を傾げながらも、問題なのは速さだけだということだけは理解する。


「つまり速いのだけが問題なら、着弾前に速度が落ちればいいんですよね?」

「え、そんなことできるの?」

「……」


 可能だ。

 授業中に意識を飛ばして考えていたことを思い起こす。単純に魔力を放つだけに特化した今の印に、魔力の動きを制御する印を組み込めばいいだけなのだ。とはいえただでさえ緻密なヘンリッカの魔術印にそれを組み込むとなれば、最終的な印はさらに複雑化する。


 ヘンリッカはかなり印を結ぶのが速いと自負しているが、指を動かして描く以上限界はある。印が複雑化すればするほどその分時間がかかるが、臨機応変さを追い求めるならばあまりもたもたとしている暇はない。


 だから参考にすべきなのはミルカの描く印だ。


 入学試験のあの日驚くほど簡略化された桁違いの魔術を目の当たりにしてから、その秘密を暴いてやろうとヘンリッカは彼女の扱う魔術を執拗に観察していた時期がある。

 まずミルカは膨大な魔力を注ぎ込むことによって威力を損なわずに印の簡略化に成功している。だが一度に扱える魔力の総量は生まれたときから決まっているものだ。そんなものは人の身でどうこうできる範疇を超えているし、今回の件に関しては神の御業で魔力がいきなり増えたからといってどうにかなるようなものでもない。

 だがどうやらそれだけではなく本来別々に描くべき異なった意味の印を重ねて、一つの印で二つの意味を持たせるようにしているらしいのだ。簡略化するとその分威力が落ちるせいかあまり見たことのない手法だが、実際それであの惨状を起こせるのだからつくづく怖ろしい才能である。


 ミルカを参考にするのは彼女の才能に屈服するようで悔しくもあるが、この際とことん吸収させてもらおう。密度を高めるために元々纏魔(てんま)用の印は複雑だから、その分動きを制御する印を重ねる余地は十分にある。


「おーい、リッカちゃん大丈夫?」

「待って下さい、今いい魔術印が思いつきそうなんです……!」


 ひとしきりああでもないこうでもないと頭を悩ませたヘンリッカは、ある程度具体的な印が脳裏に形作られたのを機に勢いよく顔を上げた。目を丸くしたイェレと視線がかち合う。


「たぶん、できます。いえ、やってみせます! なので、その、魔術訓練を増やして一緒に訓練する時間をしばらく減らしたいんですが……」


 彼なら当然笑って頷いてくれるだろうと思っての申し出だったが、イェレは案の定期待を裏切らずに頷いてくれた。


「あはは、うん、りょーかい。会える時間が減るのはさみしいけど、楽しみにしてるね」

「ありがとうございます」


 さて、そうと決まれば明日の朝からでも早速練習をはじめよう。新しい挑戦はいつだってわくわくするものだ。


「リッカちゃんのそういうとこ、すごくいいよね。大好きだなぁ」

「ッ! か、からかわないでください!」


 脳内に花が飛び始めたところに投下されたイェレの言葉に一瞬動揺が走るが、彼の態度はあくまで軽い。


「えーからかってないよ」

「見え透いた嘘はやめてください!」

「だから嘘じゃないってー」


 まったく、イェレがこんな調子だからくだらない噂が蔓延するのではないだろうか。

 多少苦々しく思いながらも、こうして軽口をたたき合えるような相手ができたことが正直嬉しくてたまらない。彼の笑顔にすっかりと毒気を抜かれてしまったヘンリッカは眉尻を下げて笑った。


「それじゃあ、今日の訓練もよろしくお願いします」



 *



 魔術印を簡略化すればするほど僅かなずれも許されない繊細な動きが要求されて、簡略化を妥協すれば複雑さが増して指がもつれ望む速さに追いつかない。


 今日も一人きりの昼食を中庭のベンチで食べていたヘンリッカは手早くサンドイッチ――寮の食堂で用意してもらったものだ――を胃の中に押し込んだ後、ぶつぶつと口の中だけで呟きながら虚空に印を描いては途中でかき消す行為をずっと繰り返していた。ただ光を走らせるだけの僅かな魔力しか込めていない魔術印は発動することはなかったが、たとえしっかりと魔力を込めていたところで失敗するのは目に見えている。


 イェレに待っていて欲しいと告げてから早五日、遠距離からの纏魔(てんま)の訓練は難航していた。

 いや正確には時間さえかければ成功はしているのだ。だが実戦で使うにはまだまだ不安が残る。僅かな遅れがイェレの命に、ひいては自分の命に関わるのだと思えば妥協する気はいっさい起きなかった。


 試験では実戦と同じように魔獣を狩りに行くことになる。現役の第二師団所属の先輩が試験官兼護衛としてつくことになるのでそうそう滅多なことは起きないが、過去に事故がなかったわけではない。

 すでに師団試験への正式な受験登録はイェレと二人でとっくに済ませていて、試験開始まではあと残り二十日だ。あまり猶予はなかった。


 やはり簡略化をある程度諦めて指の速さを追求すべきだろうか。

 未だに決めかねている魔術印の方針を考えて、らしくもなくため息を吐く。実戦訓練として何回か弱い魔獣を相手取ったことはあるが、まだまだ経験に乏しいヘンリッカがどれだけ落ち着いて魔術を使えるのか、不安は払拭できなかった。


 いや、こんな感傷は実にヘンリッカらしくないことだ。


 不安ならば何度だって繰り返せばいい。ヘンリッカはそうやって天才たる自分をここまで築きあげてきたのだ。


 首を振って残り少ない昼食の時間を有意義に使うべく顔を上げると、ふと目の前にすらりとした男性の足が伸びていることに気がついた。

 そのまま視線を上げると茶色の瞳とばちりと目が合う。金茶の髪の毛をきっちりと整えた神経質そうな騎士科の男に、ヘンリッカは見覚えがあった。


「やあ、ヘンリッカ壌」

「エクルースさん」


 エンシオ・ミエッカ・エクルース。


 彼は合同訓練でも何度か組んだことのある、騎士科では数少ないヘンリッカの知己だ。その名が示すとおり騎士家系の侯爵子息で貴族としても入学前に何度か顔を合わせたことがあった。もっともこうして昼食時にわざわざ騎士科から訪ねてこられるほど親しくした記憶はいっさいない。


「なにかご用でしょうか?」


 人気の少ない場所でこうして声をかけてきているのだからヘンリッカが目的なのは間違いないが、その理由がわからずに眉をひそめる。正直貴重な訓練時間を邪魔されたことに少しだけ腹立たしい気持ちがあった。思わずヘンリッカの声音に棘が混じるが、エンシオはまるで気にした様子もなく切れ長の瞳を細める。


「いや、せっかく待っていたのに君の方から来ないものだから、私の方から出向こうと思ってね」


 そう言って微笑むエンシオの笑顔は貴族然とした上品な笑い方だったが、なんとなく嫌な感じがしてヘンリッカは首元に怖気が走るのを感じた。同時になぜかイェレのヘラヘラとした笑顔が脳裏にぱっと閃いてほんの少しだけ動揺する。ちょっと前までああいう笑い方こそ見慣れないものだったはずだが、いつの間にかすっかり逆転してしまったようだった。


 どうにもやりきれない気恥ずかしさを覚えたヘンリッカは、とりあえず咳払いをして頭の中のイェレを追い出す。


「んんっ、ええとなんの話です?」

「パートナーだよ」

「え?」


 思わず間抜けな声を出して、よくわからないことを言い出したエンシオを首を傾げて見つめる。かわいらしいとも言える動作だったが、ヘンリッカの眉間の皺はますます深くなっていた。まさかあれだけキルカ=サラスト中の噂になっていたヘンリッカのパートナーの話を知らないとでも言うのだろうか。


「師団試験を一緒に受けようと言っているんだ。君と私なら序列も近いし、血筋も釣り合いが取れている。お互いふさわしいパートナーと言えるだろう?」


 確かにエンシオは序列三位、ソニヤに続く実力者だ。その実力はヘンリッカですらもきちんと覚えているくらいで、なんとかとかいう王都の名工が手がけたらしい長剣を振るう姿は非常に美しかった。パートナー探しに精を出していたあの日、ライネとソニヤに振られたヘンリッカがもしあのまま消沈して寮に戻っていたとしたら、きっと翌日エンシオに声をかけていただろう。


 しかしそれは単純に――浅はかにも――序列の上から順番に声をかけようとしていただけだ。

 それ以上でもそれ以下でもなく、なによりヘンリッカはあの日イェレと出会ってしまったのだ。


 どうも断られるとは思っていなさそうな態度が気にかかるが、なんとか眉間の皺を解いて穏便に断ろうと言葉を探す。仕方が無いこととはいえ断られることが存外精神に負担をかけることはヘンリッカも身をもって理解しているつもりだ。さすがにこの時期になるとほとんどの第二師団志望者はパートナーを決めているから彼も焦っているのかもしれなかった。


「……申し訳ありませんが、もうパートナーは決まっているんです」

「ああ、あのメリルートの出来損ないだろう? 大丈夫だよ、試験前日まで変更はきく」


 だが穏やかな気持ちでいられたのはそれまでだ。続いたエンシオの言葉に微笑みを浮かべていたはずの唇が引き攣り、カッと目の前に紅い炎が走った。


「なにを血迷ったのかわからないけど、大方あいつに強引に組まされたんだろう。でも大丈夫だよ。あの出来損ないがなにか文句を言ってきても私が君を守ってあげるから。だから安心して解消して……」

「お帰りください」


 ふつふつと湧き上がる怒りを爆発させないように出した声は、ヘンリッカ自身も驚くくらいに冷ややかな声だった。それなのに口からこぼれる氷よりも冷たい声とは裏腹に、まるで彼女が放つ業火のような怒りがぐらぐらと頭を揺らす。


「……は?」

「さっさと失せろ、と言っています」


 穏やかな気性だとはけして言えないが曲がりなりにも育ちの良い令嬢であるヘンリッカが、こんな風に人を拒絶するのは初めてのことだった。この世で一番目の敵にしているであろうミルカにすらここまでのことを言ったことはない。

 それほどまでにエンシオの言葉が許せなかった。もともと目つきがいいとは言えない眦を鬼のように釣り上げて目の前の無礼な男を睨み付ける。


「イェレを侮辱しないでください。出来損ないですって? 彼にそんなことを言えるあなたの方がよっぽど出来損ないだわ」

「なんだと……?」


 ヘンリッカの鋭い視線を受けてエンシオの茶色の瞳がギラリと光ったが、そんなことを構っている余裕などなかった。この不愉快な男と一秒でも同じ空気を吸ってなどいたくなくてベンチから腰を浮かす。


「あなたのような方と組むなんて絶対にごめんです」

「お前、噛ませ令嬢のくせに……!」

「エクルース」


 そのまま立ち去ろうとしたヘンリッカの肩に怒りに震える手が触れるか触れないか、まるでちょうどそのタイミングを見計らったかのように横合いから投げつけられた鋭い声にエンシオの指先がぴたりと止まった。


「……ソニヤさん」


 声の方向に視線を動かすと、そこにいたのは腕を組んでこちらを見据えるソニヤの姿だ。沸騰しかけていた脳内がじわじわと冷静さを取り戻し、遅れるように自身へ向けられたエンシオの手の意味に気がついてぞっと身を震わせる。

 魔術士であるヘンリッカが力で騎士に敵うはずもない。こうして普段はこのあたりでは見かけない騎士科の生徒が近くに、ましてそれが知り合いであるソニヤであった幸運に感謝すべきなのだろう。ヘンリッカは知らないことだが彼女もそろそろ試験のパートナーを決めた頃だろうから、魔術科に用事があったのかもしれない。


「休憩時間が終わる。そろそろ戻らないと遅刻するぞ」

「ちっ」


 さすがのエンシオも自分よりも身分も序列も上であるソニヤに逆らう気はないようだ。けして上品とは言えない舌打ちだけを残して足早に去って行く。


 ヘンリッカはその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、エクルースが一家揃って身分や血統への意識が非常に強いことを思い出して小さく息を吐いた。血統へのこだわりはヘンリッカ自身も強いと言えるが、彼女の場合は自分にだけ向けられる意識だ。

 エンシオがイェレを出来損ないと評した思考回路を追おうとして、凪いだはずの怒りがまたにわかに騒ぎ出し始める。


 もう犬にでも噛まれたと思って忘れるべきだ。


「あの……ありがとうございます」


 ヘンリッカが小さく首を振ってから向き直ると、ソニヤはほんの少しだけ目を見張ったあとに薄く笑った。


「いや、こちらこそ騎士科の同胞がすまない」

「いいえ、そんな。ソニヤさんに謝ってもらうようなことではありません」


 むしろ助けてもらったことに感謝しかない。さすがにこんなところで手荒な真似をされるようなことはないとは思うが、やはり身体能力的には自分よりもよっぽど強い人間に怒りをぶつけられるのは怖ろしいものだ。

 そう思うのだったら怒りをこらえて穏便に去ってもらえばよかったのだなとほんの少しだけ反省をしながら笑うと、思ったよりも気遣わしげな視線を向けるソニヤと目が合った。


「……少し気を付けた方がいいかもしれない。エクルースは……怒るとなにをするかわからないところがある」

「あら、大丈夫です。私の大事なパートナーの実力もわからないような輩にやられるほど柔じゃありません」


 こんな風に心配されることなんて滅多にないことだ。

 慣れない感覚に戸惑って先ほど怖いと思ったことを棚に上げて不敵に笑う。実際不意さえ突かれなければ負ける気はしなかったので、きちんと忠告に従って警戒していれば問題はないだろう。


「ふふ」


 したり顔で頷いて見せると、いつも涼しげなソニヤの目元が笑み崩れて軽やかな笑い声が唇から漏れた。こうして声に出して笑うソニヤを見るのは初めてのことだ。

 驚いてまじまじ見つめているとソニヤはますます笑みを深めて言った。


「最近のヴィーアライネはすごくいいな」

「そう、でしょうか……?」

「ああ、いいパートナーに巡り会えたみたいだ」


 考えてみればイェレと組むことができたのはソニヤに言われた言葉の影響も少なからずあったのかもしれない。ソニヤの言葉に感じ入るものを覚えてなんとなく神妙な気持ちになる。自分の実力だけを磨くことしか考えていなかったヘンリッカにはまさかこうして誰かと一緒に戦うことを意識して訓練を重ねる日がくるなんて、想像もしていなかったことだ。


「お前と第二師団で切磋琢磨しあえることを楽しみにしているよ」

「はい」


 頷いて、それからこほんと咳払いをして付け加える。


「ソニヤさんもせいぜい私たちについてこれるよう腕を磨いてください」

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