07-1
夏の気配が薫る季節を喜ぶような小鳥の歌声を聞きながら、ヘンリッカは寝台の上でぱちりと目を開いた。爽やかな朝の風がカーテンを揺らしているのを眺めながらゆっくりと身体を起こす。
窓の外では夜明けを迎えたばかりの校舎が曙色に染まっていて、美しい色彩を惜しみなく晒していた。
軍人として幸いなことに非常に寝起きのよいヘンリッカは、寮の窓から毎朝眺めるこの神秘的な時間がとても好きだった。機嫌良く鼻歌でも歌ってやりたい気分になりながら、日課である朝の訓練へ向かうために同室の生徒を起こさないように手早く静かに身支度を整えてゆく。
キルカ=サラストの生徒たちが寝泊まりする寮はそのすべてが多人数部屋である。
女生徒は数が少ないためまだいい方で、ヘンリッカには入学から生活を共にする三人のルームメイトがいるが、聞くところによると男子寮は最低でも六人が一部屋に押し込められているらしい。
全体で千人をゆうに超える生徒全員を広大とはいえ一つの寮に収めるためには当然のことで、公爵家の令嬢だからといって軍人を目指す以上そこに例外はない。
正式な軍人となった暁にはもっと劣悪な環境で寝泊まりすることだって必要になるのだから、恵まれた環境で暮らしてきたほとんどの貴族の子女たちにとって寮での生活はその入門とも言える。
暇さえあれば訓練をしているヘンリッカはほとんど寮に寝に帰っているだけだが、着実に一人でできることが増えてゆくこの環境をなかなか気に入っていた。
「あ、ヘンリッカ様! おはようございます!」
時折人とすれ違うだけの静かな朝の中で、なにもかもを吹き飛ばすような元気な声が響き渡ったのは寮を抜けてしばらく、あと数十歩で訓練室へと辿り着く頃のことだった。
「あら珍しく早いんですね、トゥーリさん。おはようございます」
後ろからぱたぱたと縋ってく足音に、歩みを止めてゆっくりと振り返る。
最近のヘンリッカはこうして朝からせわしなく揺れるミルクティー色の髪を見かけても心は凪のように穏やかで、以前に比べれば驚くくらい友好的にミルカと接していた。もちろん彼女への飽くなき闘争心と言葉の端に滲む嫌味は失われていないが、無駄にヘンリッカを追い立てていた焦りのような感情はずいぶんと薄くなっていた。
「えへへっ、私もヘンリッカ様を見習って魔術の練習頑張ろうと思って。ほら、試験近いですし」
だが格上に対してしたり顔で胸を張る癖はすぐに治るようなものではない。
「ふふん、焦るのは当然です。この私がすぐ後ろに迫っているんですから、せいぜい頑張ってください」
「はい!」
なぜか上から投げかけられたヘンリッカの言葉をなに一つ気にした様子もなく頷いたミルカは、それから照れたようにもじもじと手を摺り合せてから再度口を開いた。
「それにあの、私もパートナー決まったんです」
彼女のパートナーと言えば当然ヘンリッカにも心当たりがある。なんの躊躇いもなく彼女を拒絶したライネの声は、今思い返しても微かに苦い。
「……へリストさんでしょうか」
「そうです。ライネとは幼なじみっていうか、小さい頃によく遊んでて……。ここで再会するなんて思ってなかったからびっくりしちゃって。あっ、ごめんなさい、私の話なんてどうでもいいですよね!
ヘンリッカ様、最近イェレ君とずっと一緒に自主訓練頑張ってますよね? だから私もがんばろーって」
はっきりとミルカから告げられたことによって確定となった、序列一位同士という強大な壁は言い換えてみれば越え甲斐のある試練の壁だ。ライネとソニヤに断られてすぐ胸に落ちた絶望にも似た気持ちは、もう今は可能性という希望に押し出されて存在していない。
「あなたが誰と組もうがどうでもいいことです。負けませんから」
「はい、私もです!」
そうしてヘンリッカとミルカが決意を新たに視線を交し合したのもつかの間、ふとこちらを見ていたはずの瞳がヘンリッカを通りすぎてその背後へと投げかけられた。
「あ、アルだ。おはよー!」
げえ、と公爵令嬢らしからぬ声を上げなかった自身を、ヘンリッカは褒めてやりたい気分である。
「おはよう、ミルカ。ヘンリッカも」
「……おはようございます」
無駄に触りの良い美声がしっかりと耳に届いたことに観念して振り返ると、そこには予想通り悠然と微笑むアルマースの姿があった。最近ほんの少し精神年齢が上がったヘンリッカをもってしても、できれば朝から見たくなかった男だ。
だが残念なことにもちろんこの場でそう思っているのはヘンリッカだけである。ミルカは仲の良い友人に軽やかに駆け寄ると輝くように笑った。
「今ね、最近のヘンリッカ様とってもステキだよねって話してたの」
「へえ」
はたしてそんな話をしていただろうか。
ヘンリッカの優秀なはずの頭脳にすらそんな記憶はとんとなかったが、どうやら褒められているらしいのは間違いないので急降下した気分が多少上向きになる。
「アルもそう思うよね」
「うーん、そうかな?」
だがそれも一瞬のことだ。アルマースが口を開いた瞬間、上向きになったはずの気分が急激に下を向くのを自覚して、ヘンリッカは口の端をわずかに引きつらせた。
なぜこの男はヘンリッカに対してだけいちいち含みを持たせてしゃべるのだろうか。初めて茶会で顔をあわせたときからすでにこうだったので、ヘンリッカからしてみればだいぶ理不尽な幼い頃からの謎だ。単純に嫌われているのかもしれない。それはお互い様である。
「そうだよ! やっぱり愛の力なのかな?」
「!? な、ななななにを!?」
ヘンリッカが心の中でこっそりとアルマースを殴りつけて怒りを発散していると、突然横から思いも寄らない声が殴りかかってきた。盛大にうわずった声を上げながら声の主であるミルカをきょどきょどと見やる。
「えっ? ヘンリッカ様とイェレ君、付き合ってるんですよね。みんなそう言ってますよ?」
「ち、違います! 誰ですかそんな下世話な噂を流しているのは! 私とイェレはけしてそんな関係ではなく、純粋な友情で結ばれた! 信頼し合う! パートナーなんです!」
「えー……そうなんですか? うーん、でもそれでもステキです。私もヘンリッカ様たちみたいに運命の出会いがあったらなあ」
「……っ……っ!」
ミルカの声にはヘンリッカの否定の言葉をまったく信じていないのがありありと表れていたが、当の本人はまったく感知していなかった衝撃の噂の存在にそれどころではない。
周囲からすれば眼中にないと思われていた――実際まったくなかった――人物とパートナーを組んだことによって、噂の中心になっていることは自覚していた。だが逆に噂になっているのはそれだけだと思っていたのだ。ヘンリッカを噛ませ令嬢などと呼んでこそこそと噂話に花を咲かせる連中を、ただ煩わしいと真面目に取り合うのをやめていたのが完全に裏目に出た状態である。
イェレはこの噂を知っているのだろうか。
自分とはまったく違って友人も多いように見える騎士の姿を思い出して、ヘンリッカは自身の顔に血が上るのを自覚した。ミルカ曰くみんな言っているらしいのできっと知っているのだ。
その噂を聞いてイェレがなにを思ったのか想像だに怖ろしい。
まんざらでもない気持ちにでもなってくれていればまだ救われるような気がするが、不愉快にでもなっていたらと思えば心臓が苦しいぐらいに締め付けられた。いや、違う。ヘンリッカのようにくだらない噂を流す周囲に対して不愉快になる方がいいはずだ。きっとイェレであればヘンリッカを不愉快にだなんて思わないはず。
混乱のまま頭を抱えていたヘンリッカは、ふとアルマースが薄氷色の瞳でこちらを見ていることに気がついた。唇に揶揄するような笑みが乗っているのを見て驚くくらいにすっと頭が冷えてゆく。
「へえ、君にも存外かわいらしいところがあったんだね?」
「……あなたに言われても虫唾が走るだけです」
おもちゃを見つけた子どもみたいな表情は非常に腹立たしいが、冷静さを取り戻してくれたことには感
謝すべきだろう。だがやられっぱなしでいるのも大変癪である。
ヘンリッカがなにかやり返す方法はないものかと視線をさまよわせると、キラキラと輝く大きな珊瑚色の瞳と視線がかち合った。なにやら誤解が深まっていそうな雰囲気だが、それは一旦置いておくことにしよう。
「んんっ」
咳払いをして、すっと瞳を細めてアルマースを見やる。
「そんなことよりあなたが余裕をかましている間に、平民同士仲良くくっついてしまいそうですけどよろしいんです?」
「……なんの話かな」
「幼なじみだそうですよ? 私たちのようになりたいんですって」
「……はははっ」
「……ふふっ」
まったく笑っていないアルマースの目を見据えて、ヘンリッカも笑う。
この日の戦いは引き分けで終わったと見ていいだろう。




