名前の行方
「モーちゃん! ちょっと、モーちゃん、こっちいらっしゃい」
振り返れば割烹着姿の女将がこちらに手招きしている。
「いいのを取っといてあげたからね」
古くから商店街に軒を構えているレストランの老シェフから、手長エビのカルパッチョと仔羊のカツレツを頂いたので腹はそれなりに満たされていたが、産地直送の地鶏も捨てがたい。
地鶏の炭焼きをありがたく頂戴し、女将の世間話とも愚痴ともつかない長話を大きな耳に収めた。
腹に貯めていた鬱積を吐き出した女将の足取りは軽い。話を聞くだけで彼女の気が休まるならば、それはそれで有意義な日常であろうし、地鶏の炭焼きも心置きなく食せるというものだ。
勝手に呼ばわる「モーちゃん」も大目に見てやろうという気にもなる。女将が昔飼っていた猫の名前が「モズク」だったらしく、愛猫を懐かしむ気持ちは分からなくもない。
ただ納得できないのは、家族さながらに溺愛していた猫にモズクと名付けるにいたった過程も謎だし、そもそも、モーちゃんは別の動物を想像しないでもない。
人が変わる度に呼び名も変わるのだから、どうでもいいと言えばどうでもいい。
夕飯を済ませて家路に就こうにも、固く閉ざされた引き戸に毎度阻まれる。
気の利かない店主だ。
帰ってくる時間は決まっているのだから、猫が通り抜けられるだけの隙間を開けておくくらいの要領はないものだろうか。
引き戸を爪で引っ掻いていると、棚の奥からひょっこりと顔を出したのは最近になってここの常連となった青年だ。
外連味のない笑顔を浮かべる青年の手によって無事に帰宅を果たしたのだった。
「やっぱり四時に帰ってきましたよ。まるで時間を計ってるみたいに」
「偶然じゃないでしょうか」
思わず溜息が漏れた。決して短くはない時間を共にすごしてきた人間の言葉とは思えない。青年のほうが随分と勘働きがいい。
いつもの場所で身奇麗にしていると、大時計から容赦のない敵視が刺さった。端から襲う気もないので、そろそろ警戒心を解いて欲しい。
ネズミを捕まえるのは普通の猫の仕事であって、普通の猫ではない自覚がある己としては、ネズミ捕りは領分でない。
大きな欠伸をひとつ、視線をやりすごした。
「塩見さんに折り入ってご相談があるのですが」
青年に言い寄る店主の表情は真剣そのものだ。一方の青年は迫力に押されて腰が引けている。
「猫に詳しいですか?」
青年の表情は実に多様に変化した。何事かと青ざめ、まさかと瞳を輝かせたかと思うと、一気に落胆した。
「はぁ、猫。人並みだと思います」
「毎日新しいご飯と取り替えても食べないのは……その、病気なのでしょうか。水はちゃんと飲んでいるようですが、今日だってほら、まるで見向きもしません。一度病院で診てもらったほうがいいのでしょうか」
青年は思案顔を作りながらも、ちらりとこちらを窺った。
「余り心配しなくてもいいんじゃないでしょうか。随分と毛艶もいいようですし」
ドライフードは昔から口に合わない。美味いと思ったことは一度もないし、外を散歩するだけで美味い食べ物は向こうからやってくる。
「飼い主だからちょっとしたことで心配してしまうのは分かります。でも、見るからに元気じゃないですか」
青年の言葉に、意外にも店主の表情に影が差した。
「店に居着くようになったのはここ数カ月で、飼い主だと言えなくもないのですが。ただ――」
物憂げな店主は続けた。
「色んなキャットフードを試してみたのですが、それこそ一口も食べないのですよ。飼い主ならば好物を知っていて当たり前じゃないですか」
「いや、多分、多分ですが夜中にこっそり食べてるんですよ。だからあんまり思い悩む必要もないですし、食事を与えるだけが飼い主の務めじゃないですから。毎日帰ってくるのは、一番安心してる場所がここということで……」
青年は言いにくそうに口を噤んだ。
「寝床を与えているだけでは“飼っている”とは言わないのでしょうね」
店主は切ない笑顔を浮かべた。
「そ、そうだ! 名前は? 名前はちゃんとつけてるんでしょ?」
無駄に陽気を演じる青年が話の矛先を変えた。
「タマです」
青年の笑顔が固まり、しばしの沈黙が流れた。
「え――すごくオーソドックスというか、なんというか。白猫で赤いリボンだからですか」
「祖父が亡くなるまで大層可愛がっていた猫の名がタマだったのです。その猫も奇麗な白毛で、祖父の死を見届けると同時にふっつりと姿を消してしまったとか。不思議ないわれを残す白猫は、我が家にとっては特別な思い入れがあるのです」
「その時の猫が舞い戻ってきたのかな」
青年はいたずらっぽく肩を竦めた。
「祖父が亡くなったのは二十年近くも前の話ですよ」
慈愛に満ちた店主の笑顔が間近に迫り、頭を撫でる温かい手の平に身を委ねた。
気ままな一日の最後の至福は、心地のよいまどろみを引き寄せ安穏と眠ることだ。
愛慕にも似た仄かな温もりは遠い昔を思い出させる。
季節外れの雪の日だったと記憶している。いつの間に逸れてしまったか親も兄弟もおらず、言いようのない心細さと余りの寒さに身を縮こませ、身動きも取れずに半ば雪に埋もれていた。
分厚い灰色の雲から落ちてくる雪は勢いを増していくばかり。全身が凍えて視界と両手足の感覚が次第に薄れていく。震えは止まらず耳の先からぽろぽろと砕けるほどの寒さの中で、ふいに温もりを感じて目を開けた。
大きな手の平に包み込まれてすくい上げられると、眼前には陽だまりにも似た笑顔があった。
「雪と一緒に降ってきたのか」
今でも耳に覚えている優しい声音は、時折店主の声と重なる。かつての飼い主の血の縁を最も色濃く受け継いだ孫娘が、大事な忘れ形見である店を引き継いだのも当然かもしれない。
「お前に名前をやろう。玉雪はどうだ?」
本来の名前は忘れ去られて久しいが、ここでの暮らしは概ね気にいっている。




