マールとフィリッパ (下)
ガラスの引き戸越しに栄の後ろ姿があった。散乱する商品を右から左、左から右に移動するだけの不毛な作業に没頭している。
しばらくは様子を窺っていたが、機械的な動きをただ繰り返す栄に業を煮やした公太は引き戸を引いた。
「どうも」
栄の表情は僅かばかり緩んだが、目の下の隈は隠しようがなかった。栄の願いもむなしく、鬱々とした長い夜をすごしたのだろう。
「今日も寝不足のようですね」
「寝不足には違いありませんが、昨晩は鐘も鳴ることなく静かな夜でした。鐘の音がピタリと止まったことは喜ばしいのですが、少し神経質になっていたのでしょうか。次にいつ鳴るのかと、逆に気になってしまって眠ることができませんでした」
「その感じ分かる気がします。妙に構えちゃいますよね。結局鳴らないのかよって。で、変に目が冴える」
「はぁ、まったくその通りです。今日もお越しいただいてありがたい限りですが、作業も滞っています……」
それは見れば分かる。棚の位置は前日から変わっていない。
「今日は客としてではなく、店の片づけをお手伝いしようと思って」
公太としては、あくまでもさり気なく言ったつもりだが栄は生返事を返しただけだった。
公太の目論見はあえなく頓挫した。余計なお世話だったようだ。
「眠りが浅かったからか変な夢を見たのです。内容はうる覚えですが、大時計が出てきたような……でも大時計が夢枕に立つのはさすがに……今なんて仰いました? お手伝いをしてくださるって……? 喜んで!」
店先で回れ右をする寂しい結果にならずに済んだ公太は持参した軍手をはめて栄の指示の元に棚を運び、最低限の通路を確保しながら商品を戻していった。
栄は公太の手際の良さを頻りに褒めた。古い木製の棚はかなりの重量があったが、引越しのバイト経験が今になって活かされるとは、なにが幸いするか分からないものだ。
すべての棚の移動を終えて、ようやく店の体裁をなしてきたところで栄は紅茶と茶菓子をレジカウンターに置いた。
「やはり男手があると作業も捗りますね」
腰の痛みを隠しつつ人並みに謙遜してみせたが、少なからず役に立てたことで公太は普段にも増して胸を反らした。
「単純な男だ」
「うん、実に分かり易いね」
声のするほうに目をやったが、狭い店内を見回しても客と呼べる人影はなかった。視線の先には時間の狂った大時計だけが鎮座している。
公太は振り子の後ろに抱きついていた小さな手を思い出したが慌てて払拭した。
「今、変な声聞こえませんでした?」
ビスケットを頬張っていた栄は小首を傾げた。
「女は女で鈍感だ」
「うん、確かに鈍い」
やはり空耳ではないようだ。公太は栄と違って寝不足でもなければ体調不良でもなかった。
「ほら、聞こえるじゃないですか」
栄は笑って紅茶を飲んだ。
「これといってなにも」
もどかしい。栄の無頓着さはどうだろう。
「お疲れのようですから、しばらく休んでいてください。あ、お茶のお代わりはいかがですか?」
公太が断るよりも前に立ち上がった栄は、飲み終わったカップを下げて新たに淹れた紅茶を公太の前に差し出した。
栄は公太を置き去りに、倉庫から取り出したホウキとチリトリを手に掃除を始めてしまった。
栄の気遣いはありがたいのだが、途端に手持無沙汰に陥った公太はカウンターショーケースに収まった切子グラスに重厚な大皿を眺めて時間を潰すも、身の内に燻ぶるモヤモヤが限界に達した。
そこまで気になるならば心行くまで見てやればいいと、大時計の前に立った公太の目は振り子の左右に張りついている二つの影に自然と吸い寄せられていった。
公太を見上げる小さな何者かは互いに顔を向け合い、合わせ鏡を見るように同時に頷いた。
「わしらが見えているようだ」
「うん、僕らに気づく人間に会うのはいつ以来だろう」
意識して瞼を閉じ、再び目を開けても目の前の二人は消えず、ならばと天井を仰いで深呼吸してから大時計に目を戻したが相変わらずそこにいた。
公太は頬を抓ってみた。十分に痛みを感じるので夢ではないようだ。
小窓の向こうで揺れる振り子にちょこんと腰をかけた小さな人影に初めこそ動揺したが、その感情は見慣れないものに対する好奇心に変わった。
公太が想像し得る小人とは、三角帽を被り、愛嬌のある顔にサイズの合っていない大きな木靴姿という、誰もが容易に思い浮かべる小人像しか持ち合わせていないが、目の前の二人はその想像とかけ離れていた。
もさもさの赤い頭髪に口元を覆う濃いヒゲ、襟のないシャツにサスペンダーで吊るしたコーデュロイのズボンという出で立ちは、なんというか、厳格な職人を彷彿とさせる。
揃いも揃って二人とも同じ顔格好をしているので、いっそ明快な双子という他なかった。
「マールだ。隣はフィリッパ」
公太から見て左がマール、そして右の小人がフィリッパであった。
大時計の中にいる小さな二人のいきなりの自己紹介に戸惑う公太は言葉を失った。
「相手の名前を聞いておきながら名乗らないとは失礼な奴だ」
マールとフィリッパは同時に腕を組み、同時に眉根を寄せた。
「失礼しました。塩見公太と申します」
低頭する公太に対して、マールは慇懃に頷いた。
「礼儀を弁えない奴だが仕方あるまい。塩見公太、わしらは抗議する」
掃除に没頭している栄の背中にすがってはみたが、公太の挙動も小人の声にもまるで気にも留めず、埃に覆われた店内を履き清めようとホウキひとつで奮闘している。
「質問、よろしいでしょうか」
「許そう」
マールに続いてフィリッパはうんと言った。
「抗議とは、どういう意味でしょう」
マールは鼻を鳴らし、フィリッパは肩を竦めた。
そこは同調しないのか。
「なんとも察しの悪い木偶の坊め。わしらをこんな日当たりの悪い場所に押し込むとは何故だと意見申し上げているのだ!」
「店主の栄さんが決めたことですから……僕に言われても」
並んだ棚が外の光を遮り、店の奥に位置する大時計の辺りは確かに薄暗い。蛍光灯の明かりも、どこかおざなりに大時計を照らしている。
「あの娘は駄目だ。悪魔の使いだからな」
公太はしばし天井を見上げた。
「悪魔とは、具体的に?」
「この店を我が物顔で闊歩しておろうが!」
「うん、猫とも言うね」
「フィリッパ! 気安くするな!」
背格好は同じでも、多少なりとも性格は違うようだ。直情を地で行くマールの言動を、フィリッパが控え目に補っている。
この二人が悪魔と忌み嫌っているのが猫であるらしい。悪魔の使い――猫の飼い主と解釈していいようだ。
「悪魔の使いはさて置き、責任を持って引き取った商品を無碍に扱うとは思えませんし、狭い店ですから設置する場所もそこしかなかったんじゃないでしょうか」
「そんなはずはない! あれを見よ!」
振り子の上に立ったマールは目一杯背を伸ばし、ある一点を指差した。
並び替えられた棚の一番日当たりがいい場には、白猫専用の座布団がすでに敷かれていた。栄堂での地位は明らかに高い。
「これを不当と言わず、なんと言う!」
十センチにも満たないずんぐりとした体形ながら、身ぶり手ぶりを交えて表情もくるくると変化するマールは実に愛らしい。公太は余りの可愛さに笑ってしまった。
公太に笑われたマールは顔を真っ赤にして怒りに打ち震えたが、それすらも微笑ましいから仕方ない。
いきり立とうとするマールをフィリッパが押さえた。食ってかかってきたところで負ける気はしなかったが、手の平に収まるほどのマールとフィリッパに恐れを抱くようでは、公太の心根の弱さを問われる。
「うーん。それはすごい言い分ですね。我がま……いえ、なんでもないです」
怒気を露わにしたマールは不安定な振り子からずり落ちそうになった。二人の関係性からして、黙って手を差し出すのがフィリッパだろうが、慌てるマールを横目に静観に努めていた。
マールをこれ以上怒らせるのは得策ではないらしい。与しやすそうなフィリッパまでマール側に立たれては困る。
フィリッパは公太を見上げ、存分に沈黙に身を置いてから口を開いた。
「うん、君がそう感じるなら認めよう。じゃあ、僕らの住み家に値段をつけて、望まない場所に押し込める君たちをなんと呼べばいいかな。得手勝手が相応しいね」
温厚な口調だからこそ、皮肉も辛辣だ。公太は考えを改めた。注意すべきはマールではなくフィリッパのほうだ。
「……お二人の意向を無視して事を進めたことは謝ります……って、なんで僕が。そもそも、前の持ち主が手放した原因は壊れたからでしょう。壊れていると知りながら引き取ったってだけでも、大事に扱われている証拠じゃないですか」
「壊れたとはなんだ! 壊れたふりをしているのだ。この時計はわしとフィリッパが丹精をこめて作り上げたものだからな。複雑に組み合った歯車ひとつとして、わしの意を離れることはないぞ!」
マールの言葉を受けて、フィリッパはシャツの襟元から革紐を引っ張り出した。持ち手に奇麗な細工の施された鍵のようなものだった。
「うん、巻き鍵だね。調整してやれば元に戻る。逆を言えばこれがなければ直らないってことだね」
フィリッパは慎重な手つきで巻き鍵をしまい込むと、首元にきちんと収まっていることを確認するかのように手の平で押さえた。
「なんでそんなこと」
「気のいい奴だったが、あいつはわしらを博物館に閉じ込めようとした。お前たちの勝手は今に始まったことじゃないが、わしらだって抵抗しないわけじゃない。しかし悪魔が徘徊するこんな場末に放り込まれたのは誤算だ」
栄の背中を睨んだマールは、さも忌々しいとばかりに唇を結んだ。
場末とは言葉がすぎるが否定はできない。公太が栄堂を初めて目の当たりにした時の感想もさして変わらなかったのだから。
店構えはともかく、前の持ち主が処分にあぐねていた大時計を譲ったのは損得とは別に、栄堂が信頼に足る骨董商だからではないだろうか。
「栄堂が引き取らなかったら、処分に困って捨てられてたかもしれませんよ。逆に運がよかったんじゃないですか」
マールは腕を組んだ。
「わしらに価値を見出す限りは、その価値が高ければ高いほど捨てるには惜しいと思うのがお前たちだろう」
悠然と構えるマールの裏を返せば、大時計に対する絶対的な自信の表れだ。
「うん。日常から切り離され無駄に時間を重ねるなんて、それこそ無価値だとは思わない? 道具は身近に使われてこそ意味があるからね。我がままだろうが新しい場所を求めるしかない」
大時計としての存在を固持する一方で、望まない現実も受け入れられずにいる。価値を求める人間を唾棄しつつも、時計として人の営みに寄り添うしかない。それこそが二人の抱える矛盾だろうか。
その矛盾によって幾多の所有者の手に渡っては気に入らないからと時間を狂わせ、耳障りな鐘を鳴らし続けてきた二人にとっての安住の場所は一体どこにあるのだろう。
「栄さんは骨董品に真摯な人ですから、心配には及びませ……」
「絆されおって!」
「……違いますよ。断じて違いますからね! 変に勘ぐらないでくださいよ……」
公太はむきになって否定した。
「うん。鈍い相手には遠回しな好意ほど伝わらないという事実は脇に置こう」
マールの口元は優越感を隠しもせず、フィリッパに止めを刺された公太は項垂れた。
なんて奴らだ。三歳児並みに駄々をこねているだけの二人を相手にするのもバカらしくなってきた。
とは言え、短気を起こした公太が首を横に振れば小人たちは断固として異議を申し立てるはずだ。寝不足で頭を抱える栄をこれ以上見るのは忍びない。
「博物館に行きたくないのは十分に分かりました。日当たりのいい場所を希望していることも。ひとつ確認なんですが、白猫との共存は可能ですか」
口を開こうとしたマールを制したフィリッパが静かに頷いた。
「出入り口脇の壁際なんてどうでしょうか」
不貞腐れていたマールは一転して手を叩き、フィリッパも同意した。
喜んでくれてなによりだが、安請け合いしてしまったことに早々に後悔した。
大時計を店の奥から出入り口近くに移すと口で言うのは簡単だが、栄堂ではいささか幅を取る大時計を動かすとなると、数時間をかけた模様替えをもう一度行う必要があるということだ。
小人たちとの穏やかではない会話を終えた公太は、棚の一角で難しい顔を作る栄にぎくりとした。
「ちょっと、いいですか」
狭い店内だ、傍目には大時計に向かってブツブツと呟いている公太を不審に思わないはずはない。
こうなったら栄に真実を話したほうが早い。そうすれば大時計を移動させる言い訳を講じなくて済む。
公太は覚悟を決めた。が、栄が真剣に問うていたのは年代物の香水瓶と、これまた古い時代の印籠の配置についてだった。
意匠の異なる品物を同じ棚に置く感覚だけは分からない。無秩序に配された商品という混沌の原因は、少々逸脱した栄の美的センスだと確信した。
骨董以外は眼中にないのが骨董屋の店主としての正しい在り方なのか、それとも筋金入りに鈍いのかは判然としない。
「あの大時計、こっちの壁に移動しましょう」
栄は困惑を見せた。当然の反応だが構っていられない。
無理やり了承を得た公太が後にすべきは体を酷使するだけだ。燃料切れが近い体に鞭打って棚を並べ直し、重量のありそうな大時計は火事場の馬鹿力で無理やり引きずった。
マールの小言を耳元で聞きながら、根性だけで作業を終えた公太は店の隅で力果てていた。
公太の奮闘ぶりを見守っていただけの栄は、少しだけ明るくなった店内を見回し満足げに頷いた。
喜んでくれてなによりだ。
体のあちこちが痛かったが、不思議と充足感を味わっていた。痛みを押して大時計を前にした公太の気持ちを反映してか、大時計もどこか誇らしい。
大時計の時間は相変わらず狂ったままだったが、なにかがかみ合う小さな音に続いて振り子が止まった。
扱いが悪くて壊れたのかと内心焦ったが、でたらめの時間を差していた長針と短針がするすると動いて六時を告げると、耳うるさい鐘の音とは明らかに違う澄んだメロディが流れた。
続いて大きな文字盤部分が後退し、ゆっくりと下がっていった。文字盤の後ろから現れたのは大小の歯車がひとつとして違えることなく、滑らかに回り続ける精巧な機械部だった。部品のどれをとっても新品のような輝きを放ち、生き生きと動き続けていた。
公太は想像した。細々とした部品を丹念に磨き、あるいは毎日の調整を怠らない小さな職人が大時計の中を縦横に駆け巡る姿を。
派手な趣向ではなかったが、マールとフィリッパらしい感謝の気持ちとやらを受け取った公太は腰の痛みも忘れて見入った。
音楽が終わると同時に文字盤も元の位置に戻り、何事もなかったかのように時を刻み始めた。
公太は時計の針にある発見をした。短針に施された模様がフィリッパの巻き鍵と同じ細工であり、ならば長針は誰を差しているのか、もしかすると公太しか知らない秘密に笑った。
居間のほうでなにやら漁っていた栄は大時計の小さな奇跡を見ることなく、公太に白い包みを差し出した。受け取りを拒む公太に「湿布をどうぞ」と邪気もない。
中身を金品だと勘違いしたのは公太の勝手で、湿布であれば受け取る理由はある。事実、腰が痛い公太は粛々と押し戴いた。
笑顔で手を振る栄の元から辞した公太は通りを少し歩いてから振り返った。夕闇が迫った通りにぼんやりと浮かび上がるガラス戸の向こうには、大時計を粛然と眺める栄の横顔があった。
気難しい時計職人が捜して止まない終の住処は、案外場末にあるのかもしれない。




