009 妄執
グランベル王国騎士団への入隊についてザリーナと契約を交わした、翌朝のこと。
瞼はまだ重く閉ざされ、このまま開かなければ再び温かな微睡みへ沈んでしまいそうであった。
ふと窓から吹き込む冷気を含んだ秋風が、その眠気を肌の表面から静かに奪い去っていく。
凍みる寒さに小さく身を震わせ、薄く瞼を持ち上げる。
病室の窓辺に肘をつき、外を眺める人物が視界に入った。ミリアムだ。
私の微細な動作をこぼさずに、ベッドが軋む金属質な音が病室に静かに響く。
「あ、ルナリスさん起こしてしまいましたか?でも、早起きは良い事ですからね、さて、今日は石膏を外して、リハビリの開始ですよー。」
彼女の少し、うるさいが元気な声を目覚まし時計の代わりに、私の激動かつ痛みを伴う1か月が始まった。
朝の9時を知らせる鐘が砦内に反響する。
私は病室から治療室へと担架で運ばれ、ミリアムをはじめ複数の医師と看護師に囲まれていた。いよいよ四肢を拘束する石膏が取り除かれるのだ。
窓を排した治療室は、石造りの無機質な作りであったが、換気は適切に行われているようだ。
壁の高い所に二箇所開けられた穴には、金属の網が張られ、その奥に円を描くように駆動する送風機が覗く。
室内の照明は、天井の四隅と中央に魔導式ランプが据えられ、絞られた焦点はその全てが手術台に注がれる。
薄暗い部屋の中で唯一輪郭を保つ手術台が、まるで罪人を解体する処刑台のように見えて気が滅入った。
この異世界では石膏の除去をどのように行うのか、全く見当もつかなかった。魔法を用いて安全に取り除けるのであれば、態々治療室へ運ぶはずがない。
看護師らに抱えられ、手術台に横たわる際にふと手術道具を並べた鉄机が視界に入る。
道具の中で、一際異彩を放つ、鈍く光る『鋸』に目が釘付けになる。
唾を飲む音が鼓膜の奥で鳴った。
「何か質問はありますー?」というミリアムの問いかけに、乾いて張り付いた私の喉は言葉を口にすることはできなかった。
「では、始めますね…」
「は、はい……お願いします…」
彼女は頷くと、看護師が運んできた木製の桶の中から、何か液体に浸された布を取り上げる。
瞬間、揮発した刺激臭が鼻孔を突き抜けた。
ツンとした刺激臭のする液体、前世でも台所で何度もお世話になった『酢』の臭いだった。
彼女は石膏にあらかじめ引かれた切開線に沿うように布を押し当てる。
数分経過するのを待って、彼女は石膏を指で確かめながら言った。
「だいぶ、石膏の軟化が進んでますので、この保護ヘラを差し込みますよ!」
金属製の細長い板を机の上から一つ手に取り、私の皮膚と石膏の僅かな隙間に、無造作に押し込み始めた。
「い、痛い!痛いですよ!ミリアムさん!」
蒸れて癒着した皮膚との間を、強引に割り入って冷たい鉄が侵入する。
私の苦痛の訴えは、彼女には届かなかった。
「嘘ですね!筋肉が萎縮して石膏との指一本分隙間がありますよ!痛いはずがありません!」
保護へらが、完全に見えなくなったのを確認すると、机の上から例の『鋸』を手に取る。
「えっ、そ、その鋸を使うんですか?!肉まで切ったりしないですよね?!」
ミリアムは私を一瞥するが、すぐに視線を外すと看護師から新しい布を受け取った。
「心配性ですね!大丈夫ですよー、保護ヘラがあるんですから、肉まで切れる訳ないじゃないですか!それに初めてじゃないんですよ!」
彼女は口元に布を巻き始め、頭の後ろできつく縛る。
初めてではないとはどういうことか、問う前の私の口鼻に濡れた布が当てられる。
粉末の吸入を防ぐためだとすぐに理解する。
その直後、右腕の骨に重い振動が響き始める。
鋸が肘から手への切開線に沿うように引かれる、右手を丸ごと切り落とされる錯覚が頭蓋を支配し、自然と奥歯を強く噛み締めた。
舞い散る石膏の粉末の奥に、ミリアムの姿が見える。
彼女の目は、石膏に刻まれ始めた溝に向かっている。
額に汗を滲ませ、眉間に深く皺を刻みながら、それらに構うことなく一心にのこぎりを引き続けるその様子に、目が離せない。
初日に火を熾そうとして、乾いた樹皮と枝に向き合っていた自分が重なる。
彼女もまた医者としての職務を全うしようと、全神経を集中させている。
ならば私は、せめて彼女の邪魔になるような事はするまいと目を閉じ、のこぎりの振動に身を委ねることにした。
ペンチのような物で石膏を砕き切る音が聞こえ、右腕を締め付ける圧力が消え去る。痒みを帯びた肌を久しぶりの外気が優しく撫でる。
恐る恐る瞼を空けると、ミリアムは看護師に汗を拭わせながら、悪戯っぽく右目を細めて見せた。
「右腕は終わりましたよ!残り三肢もぱぱっと終わらせますからね!」
「う……さ、さすがミリアムさんです…後三つも是非お願いします…」
のこぎりの音に命を削られながら、四肢の石膏は完全に取り除かれた。
再び病室のベッドに横になれたのは1時間後の事だった。時計の針は午前10時を少し過ぎたところを刺していた。
ベッドの上から、ミリアムに「初めてではない」という言葉の意味を尋ねたところ、
「ん-、ルナリスが昏睡している間も、2日置きに石膏を割り外してたからねー。」
と、事もなげに言うものだからたまげた。
右手の火傷に軟膏を処方し、左腕の断端部への消毒を施さなければ、患部の壊疽や敗血症の恐れがあったらしい。改めてミリアムが若年ながら私の主治医である理由を思い知る一面となった。
リハビリは、午後1時の鐘が鳴った後。
鐘が午前11時と正午、午後1時の3回鳴り響くまで、しばらくの猶予がある。
顎を引いて身体を今一度見下ろす。
枕の厚みを利用して、後は視線だけでも身体を検分するには不自由ない。
一番関心のあった左腕。
視線を腕の線に沿ってに這わせると、肘を少し過ぎた先で急に行き場を失う。
残る断端部周辺は赤紫色に鬱血し、ぶよぶよした肉塊が縫合されていた。
辛いことではあったが、これが現実だった。
視界が滲むのを自覚するが、傷心している暇はない。
成し遂げるべき次の関門。
1か月後の新兵との訓練へ合流する、というザリーナとの約束があった。
頭では理解している。リハビリを経ても通常この状態から社会復帰には3か月は掛かることを。
だが、異世界に飛ばされて初めてできたこの居場所を、簡単に諦められない。
彼女は手を伸ばしてくれた。ならば、こちらもその手を取れるように死力を尽くして応えるほかなかった。
丁度、午前11時を回ったことを知らせる鐘が響く、リハビリ開始まであと2時間。
ひとまず、鎖と石膏による拘束が解かれた今、どの程度身体が動くのか確認した。
手足の筋肉は委縮し、遭難時に比べて一回り程度線が細く、骨筋が浮き彫りになっている。
石膏に長く固定された関節部は拘縮し、意志に反して屈伸することを拒んだ。
まずは右腕を動かそうと試みるが、僅かに肩から肘までを布地を擦りながら痙攣するように動かすことができるのみに留まる。
「フゥ…フゥ…!」
食いしばった歯の隙間から、興奮した獣のような息が洩れる。
身体を数センチメートル動かすだけで、この有様だ。
1分1秒たりとも無駄にできない。
自分ひとりで何もできないこのもどかしさを、一刻も早く何とかしたかった。
「…動けよ…動けぇぇえええ!」
決死の覚悟を持って身体を起こそうとした。
身体の芯を揺らし、生み出した遠心力が最大になった時、半回転を成功させうつ伏せになる。
ベッドに備え付けられた落下防止の鉄柵に右肩をぶつけ、下敷きになった左腕がドクドクと脈打ち、激しい痛みを訴える。
閉じかけていた傷口が、再び開いたかもしれなかったが、脳内に過剰に分泌されたアドレナリンが、感覚を麻痺させる。
鉄柵に掴まるために右手を伸ばそうとして、固く冷たい感触が手の甲に触れる。
握りこむことはできないが、さっきよりも大きく動かせた。
肩から肘にかけては肘下よりかは動く。
もう一度体幹に力を入れて、左右に身体を捩りながらうつ伏せになった胴の下に腕をおさめ、右肘のみで身体を支えた匍匐姿勢になる。
ベッドサイドの鉄柵は、ベッド全体を囲っているわけでは無い。
頭側と足元側の二か所は胴体を通せる程度の隙間が空いている。そこからなら、ベッドから滑り降りることが可能であった。
右腕を鉄柵に引っ掛け、身体を捩って頭部の位置を反転させる。
足を壁沿いに這わせ、身を捩れば、頭と足の位置が入れ替わるころには仰向けで身体を丸めた姿勢にできた。
(もう少しだ、後はゆっくり足を降ろして、突っ張り棒替わりにすれば、後は肩の力で降りられる。)
足をベッドの外に投げ出し、徐々に腰を滑り落していく。だが、ベッドの縁を越えた瞬間、誤算が生じた。
突っ張る形で体重を支えていた足が地面を滑り、脊髄反射の副作用で右腕を柵から引き抜いてしまう。
(お、落ちる…!)
落下する加速度を検知した三半規管が、考えるよりも先に電気信号を送り、右手を床の方に向け、頭を守る姿勢に入った。
右手が激しく床を叩く、だが、右肘は衝撃を受け止めることもせず、重力に任せて折れ曲がり、強かに右肩と額を地面に打ち付ける。
「っ、いったぁ…」
「何をしている」
病室に凛とした女性の声が響く、ザリーナの声だ。
足音も気配もなく、突然現れた。
うつ伏せのまま彼女の顔を伺うことはできない、だが、その声は僅かに呆れの感情を含んでいた。
「あ…こ、こんにちは……」
石床の上を滞留する冷気を吸い込みながら、情けなく絞り出せたその一言が限界だった。
【敗血症について】
作中でミリアムが2日置きに石膏を割り外していた理由として挙げられています。
敗血症とは、傷口などから血中に侵入した病原体によって全身性の炎症反応が引き起こされ、血圧低下や多臓器不全に至る重篤な病態を指します。近代以前の戦場外科において、四肢切断後の主要な死因は出血よりもこの敗血症でした。
ルナリスは山で火種を作る際に、両手の水ぶくれが破れ皮下組織が剥き出しの状態になっています。このような状況で、汗などが石膏の中で閉じ込められると、細菌の温床となり容易に敗血症に罹患する環境ができてしまいます。
それを回避するための定期的な洗浄と軟膏処置をミリアムは2日ごとに実施し、感染を防いでいました。




