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異世界遭難インシデント記録~隻腕エルフが現地に適応するまで~  作者: はくりん
序章~森林山岳地帯からの生還およびそれに付随する一連の出来事について~

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008 幻肢

 ザリーナの表情に、若干の不安を覚えながら口を開く。


「悪いこと、からでお願いします…」

「貴様の極大魔法の余波で、東砦の所有する見張り塔や、執務室の窓ガラスが吹き飛んだ。貴様にはその費用を弁償してもらう。清掃料、迷惑料、砦までの輸送料、工賃をガラスの価格に上乗せすると、総額金貨5枚となった。」

「……金貨5枚?それってどれくらいの価値ですか?」


 ミリアムが顎に人差し指をあてて答える。


「えっと、平民の日給が大体銅貨10~15枚ぐらいで、銅貨100枚で銀貨1枚、銀貨10枚で金貨1枚と換金できるね。もちろん、硬貨の鋳造された年や国によって含まれる金銀銅の比率は変わるから、日々レートは変動するけど…」


 『ちなみに私の給料は月に銀貨12枚ですよー』と騒ぐミリアムの声を無視して計算する。

 数字が残酷な事実を私に告げ、背中を冷や水が流れる。


(金貨5枚が銀貨50枚で、銅貨に換算すると5,000枚!?単純に銅貨10枚の日給だとして500日分じゃないか!?)


 声が出ないほど狭まり固まった喉から、何とか声を絞り出す。


「…へ、平民の生活費って…一日の出費っていくらですか…?」


 ミリアムの手が顎から頬に滑るように移動し、小首を傾げる。


「うーん、パン・エール・日用品はどれも大体銅貨1枚、お肉やお魚だと銅貨2~6枚あればいいし。野菜は一束で銅貨1枚ぐらいかな。一日銅貨8枚あれば足りるね。」


 絶句した。精神的ストレスが臨界点を突破し、心がメルトダウンしかける。


(銅貨…8枚…だと?つまり一日働いて手元に残るのはたったの銅貨2枚!銅貨5,000枚までには2,500日貯め続ける必要があるのか?!年にすると約7年じゃないか!?しかも体調崩して働けない期間ができたら返済はもっと伸びるし、何より貯金が無いと死ぬ!)


 異世界で自由を謳歌、などと夢のまた夢であった。いきなり7年という長期間の借金生活がスタートしてしまった…

 社畜時代の月月火水木金金の週七労働が、久しぶりに会った友人を呑み屋に誘うような気軽さでこちらを手招きしている様子がありありと脳内に浮かぶ。

 絶望から胃の中の液体が少しずつ喉をせり上がる。


(ぅっ、き、気持ち悪くなってきた…)


「でも、ルナリスは帰る家とかもないんだよね?宿も探さないといけないと思うけど…私の知っている2食付きの最安宿でも一日銅貨10枚だし、平民の稼ぎじゃ毎日なんて絶対無理。しかも大部屋の共同宿泊だし、おススメなんてできないねー。」

「出稼ぎ労働者向けに雇い主が馬小屋や作業小屋を提供してくれる場合がある。態々宿に泊まる必要もなかろう。」

「いや、団長!こんなに可愛い子をそんなところで寝かせるんですか?可哀想だと思わないんですか?」


 視界がぐるりと回り、胃からせり上がった酸っぱい液体が口元から零れ落ちそうになる…

 完全に気が抜けている私を、ザリーナの平手が打った。

 鋭い痛みと衝撃が左頬から身体を通過するが、筋力が低下し、打たれる用意もない私には踏ん張ることができなかった。

 右側に倒れそうになったところを左腕の鎖によって身体が引っ張られ、衝撃が分散される。

 逃げ場を失った衝撃は上半身を駆け巡る。


「グぇっ」


 潰れたカエルのような声が口から漏れ出る。

 上半身が入り乱れる激痛に見舞われるが、左腕だけはじくりと鈍い痛みが走り、ドクドクと脈打つような感覚が襲う。

 引っ張られた一番の部位だからだろうか。


「む、思ったよりも軽いな。あまりにも強く打ちすぎたようだ。貴様が気絶しているのが見えたものだから軽く気付けのつもりだったのだが…すまない。」


 ザリーナが眉尻を落とし、申し訳なさそうに言って頭を下げる。

 ミリアムが右側から私の体を支えながら、その額に青筋を浮かべる。


「団長!2週間も拘束されているのですから体重が軽いのは当たり前です!最悪、衝撃で死ぬかもしれないんですから気を付けてください!」


 もぉー、と怒りながらも私の体位を元の位置に戻してくれる。

 私の目や心拍音を確認しているミリアムにザリーナが問う。


「話を続けても構わないだろうか…」

「幸い、臓器などに今のところダメージは無いようですから、このまま続けても大丈夫ですけど、私ではなくてルナリスに聞いてください。ここは彼女の意思を尊重するべきです。」

「…私は大丈夫です…ザリーナさんも悪気が有ってやったことではないですし、何よりもう一つの『良い話』を聞かないと今夜は眠れなそうです…」

 

 ザリーナは『ありがとう』と言うと、佇まいを直してから咳払いを一つした。


「その良い話というのはな、この世界の知識も無ければ人脈も無い貴様の身を案じて提案する物だ、伸るか反るかは自由だ。先ほどの借金を帳消しにしてやる。その代わり、貴様には今後10年間のグランベル王国騎士団の兵役についてもらう。」


(…借金帳消しの代わりの兵役10年?先ほどの7年よりも長いし、兵役なら死ぬような場面もあるんじゃ…)


 この『良い話』は今のところ、特別こちらに旨味の無い提案に思えた。

 頭を捻っているところにザリーナが続けて言う。

 

「勿論、この世界の基礎教育も施す。その一環として、貴様が興味を示した魔法も教えてやる。それに一般兵と同じく非番もある上、衣食住についても無償で支給だ。給与も月に銀貨4枚、貴様の働きによっては昇級・昇格もありうる。どうだろうか。」


 銀貨4枚、昇級・昇格あり、衣食住の無償提供、勉強できる環境、休み……


 心の中で言われた言葉を反芻する、平民の事情と比べるとかなり条件も良く魅力的な提案に思えてきた。


(…え、この世界の騎士団って結構良い仕事なんじゃないか?倍率も高そうだが、私なんかが入隊しても良いものなのか?)


 急に不安になってきて、ザリーナに確認する。


「提案自体は魅力的で、嬉しいのですけど…その、騎士団への入隊って、かなり倍率というか…難易度が高いものではないのですか?私なんかが入隊しても大丈夫なんでしょうか…」


 ザリーナは腕を組み、こちらの視線から逸らすことなく目を合わせて堂々と言った。


「入隊自体は簡単だ、人員不足故に常に騎士を募集している。ゴロツキから農家の次男まで、色んな奴が入隊してくる。倍率として表すなら実質1倍だ。ただし、この職は死が隣人の様に付き纏う、辞める者も殉職者も後を絶たん。貴様に入隊を勧めたのは、あの黒嶺樹海で武器も道具も無しに一日生き延びたサバイバル能力を考慮してのことだ。そこは自信を持て。」


 彼女の真摯な姿勢にこちらも覚悟を決める。


「……分かりました、騎士団で働かせてください。」

「……!そうか、では来月入隊の新兵共と訓練から合流してくれ、日程などは後でミリアムを通して伝える。合流までの間はリハビリと、講師を手配して基礎教育を行う。良いな。」


 問いかけに頷いて答える。

 彼女の瞳が嬉しそうに光を散らした。

 両手の指を合わせて嬉しそうにほほ笑む彼女は、今だけは軍人としての仮面を取り払った一人の美しい女性だった。


 ただ、それも一瞬のことで、すぐさま元の仮面を張り付け、いつもの調子で言った。


「雇用契約書だ、今はミリアムに渡しておく、石膏が取れたら拇印を押してミリアムに返せ。」


 先ほどの何かが記入された紙(羊皮紙だと今気づいた。)のロールをこちらに見せながらミリアムに渡した。


 ミリアムは渡されたロールを開いて、書かれた文字を流れるような速度で視線で追った。

 再びロールに巻き戻すと、「承知しました。」と短く答える。


 いよいよ、お開きだ。

 ミリアムはこの部屋に残り、仮眠を取りつつ看病してくれるらしいが、ザリーナは荷物を巾着に仕舞い、帰りの準備を始めている。

 この2人に対して、全てを打ち明けたからだろうか、絆のようなものを勝手に感じていた。


(ストックホルム症候群ってやつかな…)


 薄手のコートを羽織り、魔導式ランプを右手に持った彼女は、帰り際に振り返って言った。

 結われた毛先が風に乗って、美しく弧を描く。


「そういえばルナリス、左手は大丈夫か?」


 突然の問いだった。

 左腕は石膏に覆われている。先ほどの平手打ちの時に突っ張った事を気にしているのだろうか。


「何故ですか?」


 全身から脂汗が噴き出すのを止められない。

 何故身体がそんな反応をするのか分からなかった。心と身体が乖離する。

 

「いや、そろそろ鎮静剤が切れるころかと思ってな。」

 

 心臓は再び鼓動を早める、心臓が耳元にあるかのように、激しく高鳴り全身の強張りを否応なく自覚させる。


 視線が覚束ない。

 鼓動の強さに比例して、左腕のドクドクとした脈打ちが強くなる。痛い。


 左腕を見る。


(何で、こんなに身体が緊張して、左腕はちゃんとある…)


 両手を握りこむように意識する。

 石膏に阻まれ実際には動かないが、確かに両手から握ろうとするフィードバックがある。

 ほら、何も問題ない。

 

 右手だけ握ろうとする。なぜか両手を握ろうとする感覚が返ってくる。

 左手だけ握ろうとする。ズキズキする突き刺す痛みが、強い握力で爪が掌に食い込むような痛みが続く、指の力を抜こうとしても脱力できない。


 右腕の石膏より、左腕の石膏の方が短いことに今更ながら気付いた。


 呼吸が短く、上手く息が吐けない。

 視界が徐々に狭まり、暗く閉ざされていく。


 こんなことが最近あったな、昨日の出来事のような悪夢を徐々に思い出す。


 あ、そういえば、私の左腕って…


 ザリーナの右手に持った魔導式ランプから放たれた光が、彼女の顔に影を落とす。今だけは、彼女が得体の知れない怪物に見えた。


「フォレストベアの胃の中からルナリスの左腕は発見できたが、残念ながら切断面が酷く、縫合はできなかったのでな、ミリアムに命じて縫い閉じることになったが…」


 続く言葉は私には聞こえなかった。

 そうだ、あの夜、私の左腕は食い千切られて…


「あ、あぁぁあああああ!!!!」


 過呼吸により、酸素が、身体を巡らない。視界が急速に狭まる。

 息が吐けない。耳鳴りが止まらない。


 ザリーナが利き手を自由にした後、とっさに床に落ちていた口枷を右手で拾い上げ、私の口にあてがうのが薄れゆく意識の中で見えた。

 身体の奥底から湧き出ていたドロドロとした何かが急速に萎んでいくと同時に、呼吸が少し楽になった。それでも意識を失うのは止めることができなかった。


 意識を失う間際、ザリーナの「ミリアム!鎮静剤を打て!早く!」という声だけがかすかに聞こえた。



 意識を失ったルナリスを見て、ミリアムは「ふぅ」とため息をついた。

 鎮静剤を打たれたルナリスの顔には、汗が浮かんでいるものの、その寝息は穏やかだった。

 そして、ザリーナに顔を向け尋ねる。彼女はいつもの無表情でルナリスを見下ろしていた。


「団長、ルナリスを本当に騎士団で預かるんですか?」

「あぁ、市井に放り込んでも、いつまた『魔力暴走』を起こすか分からん、だからと言ってグランベル王国で入国拒否しても、他国の人間が下手な干渉を起こす可能性がある。…バルツ軍事帝国の生体兵器になってみろ、魔王の再来に等しい恐怖が王国の民に降りかかることになる。」


 ザリーナは、ベッドに腰かけると、時折苦しそうに呻くルナリスの汗を左手に持ったハンカチにしみこませる。


「幸い、人となり自体は信頼できるようだ、騙されやすそうなコイツのことは、騎士団で面倒を見たほうが後々、グランベル王国のメリットとなる。」


 ハンカチを仕舞った後、ブレスレットを外しながら「それに」と言ってつづけた。


「エルフの里の動向も気がかりだ、行方不明のエルフについて照会をかけた結果、『行方不明者は出ていない』ときた。そのくせ、人相書きを受け取ると、『今すぐこちらにその子を渡せ』と抜かしたそうだ。もともと排他的で何を考えているか分からんエルフの連中だが、今回ばかりは気が抜けんな。イヤーカフが無いことを理由に『こちらで保護したから大丈夫だ』と突っぱねてやったが、人相書きを渡したのは悪手だったな…」


 おのれ外交官め、と恨み言を呟くザリーナに、ミリアムは「ふっ」と笑うとザリーナの背中に問いかけた。


「でも、ルナリスに対しての本音は?」

 

 ザリーナはミリアムに振り返って答えた。その顔はいつもの無表情とは違い、獲物を見つけた狩人のように嬉しそうに口角を吊り上げたものだった。


「ルナリスは将来、大物になる。私はコイツの行きつくその先が見たくなった。簡単に言うと、才能に惚れたのさ。お気に入りは、手の届くところに置きたくなるものだろう?」


 そういうと、ザリーナはベッドから立ち上がってコートを肩に掛け、ミリアムに指示を出す。


「ミリアム、エドガー中尉に例の失敗作をルナリス用に調整するよう伝えろ。片腕じゃ日常生活もままならんだろうからな。」

「承知しました!」


 ザリーナが入口に落ちた魔導式ランプを拾い上げると部屋から去っていく、その背中をミリアムは見送りながら、明日からは忙しくなりそうだな。と感じていた。


【ストックホルム症候群について】

正式な医学的病名ではなく、特定の極限状況で見られる心理現象を指す通称です。

スウェーデンのストックホルムで起きた銀行強盗立てこもり事件において、人質となった4名が犯人側に好意を抱き、解放後も犯人をかばうような言動をとったことが由来とされています。

人間は強い生命の危機に晒された際、無意識に「どう生き延びるか」を模索します。狭い空間で犯人に生殺与奪の権を握られた状況下で、時に食事を与え、冗談を口にする犯人に対し、心理的に同調・服従することで危害を免れようとする「極限状態での適応・自己防衛」の一環と説明されるのが一般的です。


なお、こうした心理反応はすべての人に画一的に現れるものではなく、その解釈にも多様な議論が存在します。

作中で主人公が「ストックホルム症候群ってやつかな」などと考えたのは、自嘲交じりの感想に過ぎず、作者としても医学的に彼女がその状態に陥ったと断定しているわけではありません。

(そもそも作者は医者ではないので診断できません。)


なお、しばらく更新頻度が落ちると思います。

ストックに余裕ができた際には随時投稿いたします。

今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

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