010 謬想
呼吸に合わせて右頬を冷たくザラザラとした感触が撫でた。
ザリーナが一歩を踏み出すと、軍靴の底に付着した砂粒が石床に擦られる。
彼女の歩みを振動で感じながら、私は「馬鹿な真似はよせ。」と怒られるのを想定した。
頭の上で足音が消え、彼女の膝の屈曲に合わせて重い衣擦れの音が頭上から響く。
「……病室の傍をたまたま通り過ぎた時、地面に倒れる何者かの音と、ルナリスのうめき声が聞こえてな。何事かと思って駆け付けてみれば……」
耳元に落とされた声は怒気こそ無いものの、底冷えするような冷たさを孕んでいた。
血の気が引くと同時に、身体を支えていたものがスゥと消え去る。
右肩と額の打撲痕が熱を帯び、遅れてズキズキと脈打った。
何か、彼女に詫びなければと思ってひとまず謝罪を口にする。
「…ご、ごめんなさ「言うな。」っ……」
顔の見えない彼女が私の言葉を遮る、言葉の強さの割に声色にはさほど怒りが含まれている様子はない。
彼女の両腕が脇下に差し込まれ、彼女の力を借りながら上体をゆっくりと起こした。
長期間の寝たきりの影響で、起立した上半身に血液が十分に回らず、たちまち視界が明滅する。
見かねた彼女は短いため息のあと、左手を私の両ひざの裏側に回し、持ち上げた。
「ベッドに戻すぞ、良いな。」
「…はい、ありがとうございます……」
ばねの軋む音を響かせながら、その柔らかな反発によって全身を支えられる。
ザリーナはベッド脇の椅子に腰かけた。能面を張り付けたようないつもの調子で、視線は私の失われた左腕の断端に向けられていた。
「私の言葉に焦ったか。」
呟くように投げられた言葉が、果たして自身に向けられたものか確信が持てない。空に消えるような弱弱しさ。
両目を伏せながら短いため息をつき、私に視線をずらして続けた。
「元より、新兵との訓練とは言え、いきなり全身を酷使する訓練に飛び込ませるつもりなどは無い。精々が、座学と魔法の扱い方に関する訓練から参加させ、身体の状態に応じて強度を上げていく心づもりであったが……私の言葉不足であったか。」
「そう、だったんですか……」
気持ちが先行して、彼女の配慮に気づけなかった。自分の身勝手な振舞いが彼女に負担を強いたことに喉の奥が熱くなる。
奥歯を強く噛み締め、微動だにしない自分の右手をただ見つめた。暫し静寂が二人の間を流れていく。
息を吐く反動に合わせるように、ゆったりとした動作で正面にある私の瞳を見据える。
「だが、貴様の気持ちはよく分かった。気が早いが、ここで少し魔法に関する講義をしてやる。右手を借りても良いか?」
私の頷くのを確認すると、彼女の手が右手に触れた。
温かく大きな手であった、剣を握った年月が現れるように皮膚は固まっており、掌に生じたタコが私の肌をくすぐる。
「これから少々、貴様の魔力の通り道を堰き止める。溢れた魔力は最後、体内の魔力生成器官で行き場を失う。まずは魔力を堰き止められた感覚、そして、魔力が身体のどこで溢れたかを自覚しろ。いくぞ。」
そう口にすると彼女は目を閉じて黙ってしまった。
途端に、右腕を温かなシルクの布で肌を撫でるような感覚が伝う。
時間の経過とともに厚く、そしてきつく巻かれるようであった。
彼女の放つ魔力の衣で覆われた右腕全体が、チリチリとした火傷のような痛みを訴え、段々と腕の中に異物の溜まる錯覚に陥る。
火傷の痛みは、塩分濃度の高い温泉に長時間浸かった時のそれによく似ていた。
……つまり魔力とは、『血管、あるいはそれに準ずる何等かの手段によって、全身を回っており、表皮から排出されているのではないか』。
彼女の極めて純度の高く作り出された魔力の顕現が、ただ自覚を持たぬままに流れる魔力の方へ流れ込んでいるのだ。
浸透圧差による体内への魔力の流入を感知した私の身体が、異常信号として脳にそれを知らせているのだろう。
右腕で堰き止められた魔力が行き場を失い、徐々に上流へと逆流してくる。
それを辿った先にあったのは、『心臓』だった。
胸の中で高まっていた圧力が限界を迎え、ついに破裂する。
胸郭に覆われた臓器の一つが魔力を開放し、漏出したそれが他の臓器を肋骨に押し付ける。
激しい動悸と共に、胸郭の内圧が限界まで跳ね上がる。全身の毛穴が開き、額を汗が伝った。
肩を激しく上下させ、奥歯を噛み締めながら身体の底から声を出した。
「ざ、ザリーナさん、こんな荒行しなくても、ただ言葉で伝えれば良かったんじゃないですか?!」
必死の非難も、彼女にとっては何の障害にもならないようだ。
伏せていた顔をゆっくりと持ち上げ、口を開く。
「『言うは易く行うは難し』だ。本や人づてに見聞きした内容を、己のものにするのは時間がかかるものだ。魔法というのは一朝一夕で扱えるようになるものではない。何故なら、『魔力の自覚』がとにかく困難を極めるからだ。人は己の心臓の拍動を止められるか?いやできない。であれば、このように自覚させる方法が最も合理的だ。」
「…そんな……」
彼女は慈愛に似た冷徹な笑みを薄く浮かべ、駄々をこねる幼子を諭すような調子で続ける。
「なに、これで魔力とは何か、どこで生成されるか理解できただろう。早くとも2週間はものにするのに時間はかかるのを、たった数分で成すことができたのだ。まずは喜べ。」
彼女の言うことは尤もかもしれない。今まで勝手に体内を流れていた魔力を、『認知しろ』と言われても難しかっただろう。実際に痛みを伴って知覚した異物の流れを、右腕はおろか、全身の隅々に追うことができた。
「その感覚が掴めれば後は簡単だ、魔法を発現したい部位の魔力を強く意識しながら詠唱すれば魔法が発動できる。」
「え、詠唱するだけで良いんですか?もっと、難しいのを想像してました…両手に集めて前方に放出するとか、全身に力を込めて滾らせるとか……」
私の言葉を口にした瞬間、彼女は目を丸くし、腹を抱えて前かがみになった。
部屋を震わせるような大声で笑いだす。
「あーっはっはっ!久しぶりに傑作を聞いたぞ!何なのだそれは、両手に集めて放出するなど、そんな無駄な浪費をして何になるというのだ!目くらましにもならんぞ!」
「…な、何がそんなにおかしいんですか。」
まだ、逆流した魔力の余韻で胸の内側ではズキズキと刺すような痛みが反響する。こちらは全く笑い事ではない。
知っている創作物の中からヒントを得たと思ったのに、まさか否定されるとは。
あまりの居心地の悪さに身を縮める。
「魔力を体外で留めるのですら高度な術だと言うのに、今ようやく脈を掴んだひよこが、随分な冗談を口にできたものだ。」
「…冗談のつもりで言った訳ではないんですけど。」
「…ふぅ、いいか?魔法を発動するだけならそこまで高度な技術は必要ない。昨夜ミリアムがやったのを思い出してみろ。ただ両手を器にかざして、詠唱しただけだ。魔法はイメージが肝要、詠唱はその輪郭を脳内に描きだすための補助輪に過ぎん。」
「補助輪……マクロ呼び出しみたいなもんですかね……」
「まくろ?よく分からん言葉を使うな。まぁいい」
ザリーナは膝に置いた手を組み、背もたれに体重を預けた。
「故に詠唱に決まったパターンは存在しない。親から子へ生活の知恵として引き継がれるもの、軍や宗派ごとに体系化されたものなど、様々だ。人から教わらなくとも感覚に頼って無詠唱で魔法を行使する規格外もいるが……まぁ、今のルナリスに関係のある話ではないな。」
何となく、分かるような話ではある。
同じ言語の中でも、地域ごとの方言という特色があり、職種ごとに専門用語も存在するように。
魔法というのはただ『魔力を燃料にイメージした現象を実現する』ものだと理解する。
考え込む私を値踏みするように見つめた後、ザリーナは少し身を乗り出し、声を低めて言った。
「……一つ面白い技術を教えてやろう。魔力を『身体強化』に用いる技術だ。」
「身体……強化?」
思わず、シーツの上に投げ出された自分の右手を見つめる。
萎縮し、自重を支える事すらできず床へ転がり落ちた役立たずの四肢。
その奥で、先ほどザリーナに無理やり目覚めさせられた熱が、まだ僅かに燻っていた。
「魔法と併用することはできず、相性の悪い技術だ。だが、知っておいて損はあるまい。」
「……それは、私でも今すぐ身体を動かすことができるようになる、という事ですか。」
「さあな、全身の隅々まで、魔力を浸透させるイメージを持て。先ほどの感覚がまだ残っていれば、そう難しくはない。」
ザリーナはそれ以上語るのを拒むように、膝を両手で叩くと一息に立ち上がった。
「私が口を出せるのはここまでだ。そろそろ新兵の訓練を見に行かねばならんのでな。次の訓練までに、自分なりに理屈を噛み砕いておけ。」
ちょうどその時、砦の奥から正午を告げる鐘の音が響き渡る。つられて窓に目を向けたが、視線を室内に戻したときには彼女の姿はなかった。
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