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異世界遭難インシデント記録~隻腕エルフが現地に適応するまで~  作者: はくりん
序章~森林山岳地帯からの生還およびそれに付随する一連の出来事について~

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002 渾身

 どのくらいの時間寝ていたのだろう、焚火の炎が弱まり、周囲数メートルだけを赤黒く照らしている。完全に熾火と化していた。

 この状態でも、木の枝を熾火に追加すれば、十分炎の勢いを取り戻すことが可能と思われた。


「急いで枝を追加しないと……」


 周囲の気温はマイナスに入っているのではないか。

 そう思えるほどの寒さに震えながらも、疲労と筋肉痛を感じる身体をやっとの思いで起こした。

 適度なサイズの小枝を拾い上げ、焚火にくべようとしたとき、こちらを見つめる気配があることに気づいた。


 思わず焚火から顔を上げ、森の方を見やる。


 闇の奥、木々の隙間から双眸がこちらを見据えていた。


 「ひっ!……」


 悲鳴が漏れそうになった口を慌てて両手でふさいだ。

 だが、とっさの動きが命取りとなる。

 暗闇の中でビクッと身を縮めたこちらの動作を、相手は見逃さなかった。


 油断していたわけではない、野生動物が現れることなど想定していた。

 しかし、あまりにもタイミングが悪すぎた。炎が落ち、熾火となったわずかな隙をつかれた。


 野生動物は基本的に火を恐れる。一部例外として、「火のあるところは人がいる、食べ物がある」と学習して襲ってくることがあるが、この状況下で火を焚かない選択肢はなかった。


 ズッ……と土を踏む重い気配とともに、獣が闇の中から少しずつ、少しずつこちらへ近づいてくる。

 

 急に襲ってこないのは、こちらが背中を見せず、向かい合っているからだ。

 確実に私に危険性が無い餌だと分かるまで、決して向こうも油断しない。

 賢い獣だ、恐らくこの森で頂点に近い捕食者の動き。

 

 また一歩一歩と近づく、目だけが爛々と濁った光を放ち、けれどもその全貌までは見えない。

 こちらには武器になりそうなものはない。精々が拾い集めた木の枝ぐらいである。


 冷たい汗が背中を伝う。

 

 (逃げるのは、捕捉され獲物と認知されている今、もう間に合わない!!!)

 (火を熾し直すか……!?いや、そんな猶予はもうない!!!)


 目の前の熾火に枝を放り込み、息を吹き込めば炎は蘇るかもしれない。

 しかし、落ち着いた状況でも数十秒もかかる動作を完了するまでの間、相手が黙って待ってくれるはずがない。


 背後は壁、前方には得体の知れない捕食者、相手はどんどんとこちらに近づいてくる。

 あまりの恐怖に思考が焼き切れそうになった。

獣の巨大な影が、熾火がかろうじて照らす赤黒い光の中に姿を現した。


 「ぁ、く、くまだ……しかもかなり大きい個体の……」


 クマと言ったが、厳密には私の知っているクマとは少し違っていた。

 日本に生息するクマ……「ツキノワグマ」と、「ヒグマ」とも違う。


 目の前に現れたこのクマはそれらとは全く異なる姿形をしていた。


 全身が森に溶け込むのに適した緑色と茶色の斑模様、さながら森林用の迷彩のようだった。昼間であっても森林地帯では遠目からその存在を認識することは困難かもしれない。

 そして、その大きさ、四つん這いの状態でも私の肩程度の大きさであった。直立すると私の2倍近くの大きさはありそうだ。


 「フモッ、フモッ」と湿った鼻息を吐きながら、迷彩模様の巨躯が間合いを詰める。

 わずか数メートル。逃げ場のない窪地。叫ぼうとした喉は恐怖で貼り付き、音にならない。


 その瞬間、巨熊の輪郭が一瞬ブレた、口先に何かが集まっているのだけが僅かに見えた。

 ドンッ、と不可視の衝撃が肺腑を打つ。


「が、はっ……!?」


 背後の岩壁に叩きつけられ、視界に火花が散った。


 内臓がかき乱されるような痛みが襲い、呼吸ができない。相手は一歩も動いていなかった。

 これが理屈を超えた「力」――異世界の暴力が、容赦なくこちらの骨をきしませた。


 クマはのし…のし…と、一刻も早く逃げ出したい私を、あざ笑うかのように緩慢な動きで追い詰めた。

 動くことはできずともクマから目を離さない私に、見せつけるようにその大顎を開いた。

 私にのしかかる圧倒的な質量。視界を埋める、血生臭い大口。


 喰われる…!!!咄嗟に腕を顔の前に出して、頭を防御した。


――グシャリ、と嫌な音が響いた。


「あ、ぎ……ぁぁああっ!!」


 左腕に激痛が走る。牙が肉を裂き、骨を砕く感触が神経を直撃する。

 クマは噛みついた私の左腕を骨ごと断ち切らんと、前脚を踏ん張り、上半身を大きく仰け反らせて首を天へと引き抜いた。


 ブチブチと肉と腱が引きちぎれる音とともに、私の左肘から先の感覚が消えた。


 クマの咬力と振り回す力に耐えられなかった私は、そのまま壁に吹き飛ばされ、泥の中に転がった。

私の視界に入ったのは、咀嚼される「私の一部」だった。



 理性が消し飛ぶ。


 なぜだ。なぜ私がこんな目に遭わなければならない。

 誰にも迷惑をかけず、ただ生きていただけだ。

 会社では上司の顔色を伺い、ミスを押し付けられても笑って耐えた。

 どれだけの理不尽があっても、ただただ実直に耐え、心をすり減らして生きてきた。


 そして、それを美徳だと思っていた。


 私は我儘や意見を口にすることもなく、黙って人に頭を下げ続けた。それが一番穏便で手っ取り早いと知っていたからだ。


 異世界に来たと確信したとき「どうしよう」よりも、「やっと解放された」という思いが強かった。

 これで自由だ、もう我慢しなくていい。と考えていた。


 それなのに、一日と経たず私の命の灯は他者の手で簡単に吹き消されようとしている。

 なんで、なんで、というありとあらゆるものへの問いが胸の奥に沸いた。


 視界が真っ赤に染まる。全身の血液が沸騰するような、どす黒い怒りが胸の底から噴き上がった。言葉は勝手に、口から吐き出された。



「――調子に、乗ってんじゃねえぞ……ッ!!」



 果たしてそれは、突如として起こった。


 怒りに応えるように、熾火に熱が急速に集まり、赤橙の火の粉、煙、舞い上がった灰さえもフィルムを逆再生したように一点の核に集中した。


 肌を刺すような冷気が顔を撫で、周囲の音がフッと途絶える。


 次の瞬間、針の先ほどにまで凝縮した光が、濁りのない絶対の白へと変色した。


(――あ)


 破裂する暇すらなかった。 凝縮した特異点から、天に向かって極太の光の杭が音もなく撃ち抜かれた。

 クマの凶悪な輪郭が、その白い光の中に半身を晒して、溶けて消えるのを網膜に焼き付けた瞬間、世界は完全な白銀に呑まれた。


 クマは直立のまま、その光線に脊髄、頭蓋を焼かれ、糸の切れた人形のように崩れ落ち、私に倒れこんできた。


 何が起こったか分からぬうちに、すべては終わっていた。

 光柱はクマの足元付近までを焼いた。あともう少しでも範囲が広ければ、私自身もあれに巻き込まれていた。


 私はスッ…と引いていく激情からやっと、理性でもって身体の自由を取り戻した。

 とはいっても相変わらず身体を動かすことはできないし、もたれかかっているクマの死骸を除けることもできない。腕からはドクドクと血が流れている。この出血量だと持ってあと数分の猶予があるだろうか。


 血液を失ったことで急激に寒気を感じながらも精一杯の強がりを口にする。


「……へ、ざまぁみやがれ」


 先の閃光による熱風から一転、あたりは急激に寒冷化していた。クマが私を胸に抱きこむように倒れているおかげで、幸いにも再び簡易シェルターを入手できた。


 はは、頭が回らない、寒気が止まらない……腕の出血は内臓や脳を最優先で寒さから保護しようとする体の働きによって、少なくなっている……


「せっかくの、異世界なら……もっと、楽しみたかった……な……」


 やはり……生への憧れの方が強かった……


 最後の力を振り絞り、左腕をクマの身体下から外へ引き出し、そばに触れたものにそのまま押し当てた。無意識に行っていたが、止血のつもりだったのかもしれない。


 そのまま私は、意識を手放した。



 一方、そのころ、光柱出現地点から8キロメートル離れた砦町ではちょっとした騒動が発生していた。


 まだ夜は始まったばかりだといわんばかりに、砦裏の町では酒盛りしてワイワイと騒ぐ声が聞こえてくる。いつもどおりの平和な日常がそこにはあった。


 その日、町の東で夜の砦の警備をしていた当直の兵士は、「どうせ今日も何も起こらない、夜に攻めてくる奴はそうそういない」と高を括り、星を眺めながらこそこそ酒を飲み、うつらうつらとしていた。


 しかし、静寂を切り裂いて突如飛来した閃光らによって、一気に覚醒した。


「な、なんだぁ!?ま、まぶしっ!」


 暗闇から迫る昼間のような明るさを目にし、兵士の視界は一瞬奪われる。


 直後、激しい地響きが襲った。小物は倒れ、見張り台に敷かれた窓ガラスが割れて兵士たちに降り注いだ。


 もともと明るい場所で職務を行っていた別の兵士たちは昼間と見間違うほどの光を放つ、北東の方向「黒嶺樹海(ヴェルンヴァルト)」に目を凝らした。


 地響きに続いて、凄まじい音の波が空から兵士を直撃した。音は振動を携え、身体の奥に響くかのような深い振動を残した。


「ひ、ひぃっ!?敵国の攻撃かぁ!?」


 慌てて床に倒れこんだ当直の兵士たちの頭上を、若いながらも覇気の篭った声が奔った。


「抜かるな!総員配置に戻れ!警鐘を鳴らせ!」


 駆け込んできたのは、若い女性だった。


 長く淡い金色の髪を風に流しながら、暗闇の中にあっても鈍く光りを放つ銀色の鎧、そして王国騎士団を指揮する者のみが羽織ることが許される、王国の守護動物「鷲獅子」の刺繍を施した真紅のマント。

王国騎士団長、ザリーナだった。


 普段の豪放な表情は消え失せ、冷徹な軍人の眼差しで北東の空――黒嶺樹海を見据えている。


 遠くに見える樹海の上空、大気が急速に白く煙り、異常な魔力の余波が肌をチクチクと刺していた。


「団長、敵襲ですか!? 近隣諸国の大規模魔術部隊では……!」

「いや、軍の行軍反応などなかった。だが……あの魔力の収縮は尋常ではない。山一つ消し飛ばすことも可能であったはずだ。実際に起こったことは、山は消し飛ばされず、指向性を持って宙へ向かっていったということ。これは、自分らが巻き込まれる可能性を排除するため、という可能性がある。つまりあの魔法を行使した個人あるいは団体は、あの光の柱の付近にいるのではないかと推測できる。」


 「流石騎士団長……!」「即座にそこまで見抜くとは……!」と息を呑む兵士たちを背に、ザリーナは腰の剣を握り直し、腰につけた持ち物袋から木板と炭筆を取り出した、ある人物たちの名前を書き連ねると、即座に指示を飛ばした。


「第三混合斥候隊を組織する!この木板に記載した者を第四会議室に招集しろ!加えて、王城へ早馬を出せ!至急報だ!『樹海にて正体不明の極大魔法行使の反応あり』!」


ちょっと、短い話でした。

引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

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