第6話 『安宿』
ネルは宿の部屋に腰を落ち着ける。
宿は古いが手入れや掃除は行き届いていた。
ただ、あまりにも静かだ。
「本当に客がいねえな。アタシだけなんじゃねえのか? よく潰れねえもんだ」
それからネルは一時間ほど部屋で休息を取ると浴室のある1階に向かう。
旅暮らしをしていると風呂に入れるのは貴重なことだった。
旅籠の無いような場所では風呂など入りようもなく、運が良ければ川で体を洗える程度だ。
温かな湯に浸かれることは幸運なことだった。
女湯に入ると石の床の上に滑らかな木の板が敷かれていて、同時に5人くらいは入れそうな浴槽には湯がなみなみと張られて湯気を立てていた。
ネルは手桶で浴槽の湯をすくって体にかけた。
しかし湯はわずかに温い。
ふと見ると浴槽の脇には施錠されていて内側からしか開けられない木窓が設けられている。
外気を取り入れるための窓だ。
ネルはそれを押し開けて窓から外に顔を出した。
すると浴室の外ではカールが大汗をかきながら必死に薪をくべ、火吹き筒に口をつけて風呂釜で燃え盛る炎にフーフーと息を吹きかけている。
「おい。カール」
いきなりネルに上から声をかけられ、カールは驚いて火吹き筒を地面に落としてしまった。
カールは顔を上げ、胸元近くまで肌を晒したネルを見ると、顔を真っ赤にして慌てて目を逸らす。
「な、何やってんだよ! 女風呂から顔を出すんじゃねえよ」
「へっ。ガキのくせに一丁前に照れやがって。それより風呂が温いぞ。もっと熱くしろ」
「今やってるよ。入って来るのが早いんだよ」
そう言うとカールはネルの方を見ないようにして火吹き筒を拾い上げ、再び薪をくべるとフーフーと炎に息を吹きかけた。
「おい。カール。アタシはネルってんだ。おまえ今、何歳だ?」
「……12歳だよ。悪いかよ」
「今までどんなもんを盗んできたんだ? 金か? 食い物か?」
ネルの言葉にカールは押し黙る。
それでもネルはしつこく尋ねた。
「黙ってねえで教えろよ。別に説教したりしねえさ」
「……金も食いもんも盗んだよ。そうしないと生きられなかったからな」
カールの言葉は重い現実を表していた。
浮浪児なんて大抵は空腹と栄養失調に耐えかねて死んでいく。
盗まなきゃ死ぬだけなら、盗むしかない。
「アタシもガキの頃、腹が減り過ぎて食堂の厨房に忍び込んでは食材を盗み食いしてたぜ。見つかって顔がパンパンに腫れるまで殴られたこともあったなぁ」
その話にカールは驚いて顔を上げ、ネルの肌を見てすぐにまた慌てて俯いた。
「……何だよ。自分だってやってんじゃん。人のこと言えねえだろ」
「だから説教するつもりなんかねえっつってんだろ。けどおまえは今はあの爺さんのおかげで働けば飯にありつけるわけだ。盗人なんて危険な真似するのはそうしなきゃ生きていけねえ奴だけでいいんだよ。安全に飯が食えるなら誰だってそのほうがいいに決まってる。おまえ……何でアタシの弓矢を盗んだ? 金に換えようと思ったか?」
武器屋も子供が弓矢などを売りに来たら盗品だとすぐに見抜くだろう。
それを買い取るかどうかは武器屋次第だが。
ネルの問いにもカールは頑なに口を閉じて何も言わない。
ネルは肩をすくめると風呂場で髪と体を洗い、浴槽に浸かった。
その頃には湯はほどよい熱さでちょうどいい温度になっていた。
ネルは全身を湯に包まれてじんわりと温めながら、大きく息をつく。
それから外のカールに声をかけた。
「カール。ちょうどいい湯加減だ。おまえも汗を流したいだろ? 入ってくるか?」
「は? 入るわけねえだろ! 女湯だぞ! バッカじゃねえの?」
「ケッ。毛も生えてねえくせに恥ずかしがってんじゃねえよ」
「う、うるせえな! もっと熱くして茹でダコにするぞ!」
ムキになって悪態をつきながらも声をすっかり上擦らせるカールに、ネルは大笑いするのだった。
☆☆☆☆☆☆
「長くない? ガスの奴」
「腐ったもんでも食べたんじゃないの?」
双子の姉妹、クレアとクラリスは街外れの公園の長椅子に座り、退屈そうにそう言いながら公園の中を見渡す。
すでに日も暮れた後であるため、公園内には誰の姿もない。
最後の取り立て場所に向かう途中、取り立て部隊の隊長であるガスが急な腹痛に襲われ、公園の厠に駆け込んだのだ。
すでに他の部下たちは帰途に就き、ガスと護衛役の双子の3人だけとなっていた。
「ねえクレア。最近さ、つまんなくない?」
ガスが厠に行ったきりで姉妹2人だけになると、ふとクラリスがそう切り出した。
クレアは静かにため息をつく。
「まあね……退屈かな」
オーガストの元で闘士として働き始めた頃は良かった。
自分たちの腕を存分に振るい、闘技場で戦うことが出来た。
だが、次第に戦う相手がいなくなった。
雇い主であるオーガストからはすぐに決着がつかないよう配慮しろと言われるようになった。
要するに手を抜けということだ。
しかしあからさまにやると客に見抜かれるため、2人は苦心して演技を覚えた。
2人の演技をそれと気付かず客は盛り上がり、集客力の増加にオーガストは喜んだ。
もう思い切り戦うことはなくなり、勝負を盛り上げる演出手法ばかりが達者になっていた。
クレアもクラリスもそんな日々に飽き飽きしていたのだ。
「獅子なら楽しめると思ったけど、そうでもなかったね」
「あんな年寄り獅子じゃ、あんなもんでしょ」
今の暮らしは安定している。
オーガストからは十分な給金をもらっているし、人気者になったせいで色々な恩恵を受けていた。
男にだって困っていない。
「昔に比べたら地獄から天国なんだけどな」
ポツリとそう言うクラリスにクレアは同調しつつも言った。
「分かるけどさ。あの頃に戻りたいって思う? クソ親父と母さんのいたあの頃に」
クレアの言葉にクラリスはため息をついた。
「それ聞く? 戻りたい……なんて思わないわよ。クソ親父のせいで借金取りに追われることになって……最悪な思い出ばっかり」
その後に続くのは、でもあの頃は家族4人が揃っていた、という言葉だ。
クレアもクラリスも頭に浮かぶその言葉を口にはせずに飲み込む。
「もうやめよ。考えたって仕方ないよ。今はもうクソ親父も母さんもいなくて、ワタシたちだけなんだから。過去なんて取り戻せないし、取り戻したいとも思わない」
そう言うクレアにクラリスも頷いた。
「そうだね。オーガストに頼んでもっと強い相手を見つけてきてもらおう。ストレス発散できればこんなモヤモヤも消えるよね」
ちょうどその時、前方にある厠からガスが出てきた。
「待たせたな。なかなかしぶとくてよ」
そう言って腹を手で押さえるガスに、双子は揃って顔をしかめた。
「ウェ〜ッ。聞きたくないよ。そんな話」
「ちょっとガス。ちゃんと手洗った? 臭いから近寄んないでくれる?」
「おいテメーら! 俺は一応上司だぞ! もっと敬え!」
顔を真っ赤にして声を荒げるガスに構わず、2人は長椅子から立ち上がって早々に歩き出す。
「さっさと行くよ。あんたのせいで夕飯遅くなるでしょ」
「手間取らないで、すぐに終わらせてよ」
そう言う双子を駆け足で必死に追い越してガスは先頭に立った。
目指す先は公園から目と鼻の先にある1軒の寂れた宿屋だった。




