第3話 『盗人の少年』
「待ちやがれ! そいつはアタシのもんだぞ!」
ネルは思わず叫んでいた。
彼女の弓と矢筒を手にした男児が建物と建物の間の狭い隙間を逃げていく姿が見えたからだ。
その隙間は30センチほどしかなくネルでは何とか体をねじ込むことが出来ても、走る相手を追いかけることは狭すぎて出来ない。
目を凝らしてネルは走り去る相手を見た。
おそらくまだ10歳を超えたくらいであろう痩せた男児だ。
ネルは舌打ちをした。
「チッ。ガキの盗人か」
どこの国でもいる。
親もなく路上で暮らす浮浪児。
彼らは物乞いか盗みで日々の糧を得るしかないのだ。
だからといって盗まれるまま許すわけにはいかない。
特に弓矢はネルにとっては生命線となる道具だ。
ネルは逃げていく相手の進む方向を見定めると、すぐ近くに置かれているゴミ捨て用の木箱を足場にして建物の屋根の上に上った。
そして屋根から屋根へと飛び移りながら男児の盗人を追う。
男児はその体の小ささを活かして狭い隙間を容易に進みながら、別の路地へと出た。
ネルは冷静に男児の行く先を見定めながら、声を出さずに追跡を続ける。
男児はこの辺りに慣れているようで家屋の隙間を迷うことなくスルスルと進んでいた。
すっかり逃げ切ったと思い込んでいるのだろう。
その顔は安堵の笑みに彩られている。
ネルは内心で嘆息した。
(ったく。ガキめ。お灸を据えてやらねえとな)
男児を追って走り続けるうちに意図せずネルは街外れへと足を踏み入れていた。
ここまで来ると人の姿もまばらになり、盛り場の喧騒も聞こえない。
やがて男児はうらぶれた路地に面した1軒の建物の前で足を止めた。
看板を見るとそれは宿屋のようだった。
古い木造のいかにも安宿だ。
男児はその宿屋の脇から裏手へと入っていく。
ネルも屋根から降りてその脇道に入り、足音を立てぬように宿屋の裏手に回った。
そこはほんの小さな庭になっており、1人の老人が椅子に座って煙草をふかしているのだった。
☆☆☆☆☆☆
男児はいつものように宿屋の裏手に回り込み、そこで思わず足を止めた。
宿屋の主人である老人が、裏庭で休憩していたのだ。
いつものように煙草をふかすその老人は、男児がその手に弓と矢筒を持っているのを見咎めてギロリと睨みつけてきた。
「カール。おまえまたやったな」
カールと呼ばれた男児はバツが悪そうに老人から目を逸らす。
「やってねえよ。落ちていたのを拾っただけさ」
「盗みをする奴はうちに置いておけねえって言ったろ。そいつは落とし物として警吏に届けてこい」
「嫌だよ! 俺が拾ったんだから俺のもんだ!」
そう言うカールのすぐ背後に赤毛の女が突然現れたのを見て、老人は驚きに目を剥く。
赤毛の女はカールの頭をガシッと鷲掴みにした。
「いいや。そいつはアタシのもんだ。返してもらおうか。坊主」
カールは恐る恐る後ろを振り返ろうとした。
しかしその瞬間、カールはいきなりズバーンと尻を叩かれ、激痛に悶絶して前に倒れ込むのだった。
☆☆☆☆☆☆
男児を追いかけて宿屋の裏庭に回ろうとしていたネルは、男児の声を聞いて足を止めた。
「やってねえよ。落ちていたのを拾っただけさ」
その言葉に反応したのは別の誰かの声だった。
「盗みをする奴はうちに置いておけねえって言ったろ。そいつは落とし物として警吏に届けてこい」
それは老人男性のものと思しきしゃがれ声だ。
どうやら男児はカールという名前らしい。
ネルは建物の陰から裏庭の様子を窺う。
カールの他には煙草を咥えた老人が1人いるだけだった。
カールは老人の言葉に反発する。
「嫌だよ! 俺が拾ったんだから俺のもんだ!」
その言葉にネルはやれやれと肩をすくめ、建物の陰から裏庭に歩み出る。
気配を殺しながらカールの背後に立つと、手で彼の頭を鷲掴みにした。
「そいつはアタシのもんだ。返してもらうぜ。坊主」
そしてカールが振り返るより早く、彼の小さな尻を平手で勢いよく叩いた。
「痛ってえ!」
カールは尻の激痛に悲鳴交じりの声を上げ、前のめりに倒れ込んで動けなくなってしまう。
ネルは地面に置かれた弓と矢筒を取り返した。
そして椅子に座ったままの老人に目を向ける。
「この坊主はじいさんの孫かい?」
「いいや。孫などおらん。そいつはここに居着いた元浮浪児じゃよ。じゃが、うちの預かり小僧じゃから責任はワシにある。おまえさんに迷惑料を払わねばならんな」
そう言う老人の胆力にネルは少々感心した。
突然現れて子供の尻を叩いたネルに対しても老人は動揺していない。
「別にいらねえよ。大して迷惑でもなかったさ。張本人に灸は据えた」
そう言うとネルはカールを見下ろした。
カールは尻の痛みに涙目になっている。
そんなカールの目をネルはじっと見据えた。
「坊主。この先も盗人やるなら覚悟しな。アタシはガキをいたぶる趣味はねえが、本来なら捕まったら両腕を斬り落とされても文句は言えねえのが盗人だ。こんなケツ叩きくらいで済まされるほど世の中甘くねえぞ」
そう言う間もネルはカールを見据えたまま一切視線を動かさない。
その迫力にカールは顔を強張らせて渋々頷く。
それを見たネルは顔を上げ、老人に目を向けた。
「ところで爺さん。宿の部屋は空いてるかい? 今夜の寝床を探しているんだ」
「いつだって空いてるぜ。俺が宿屋を始めてから満室になったことなんて一度もないくらいだ」
「自慢するようなことじゃねえだろ。けど空いてて助かったぜ。泊まらせてくれ。あ、別に正規料金でいいぞ。ぼったくりやがったら爺さんのケツもひっぱたくけどな」
ネルの言葉に老人は高らかに笑うと、倒れているカールに言った。
「カール。風呂を焚く時間だぞ。さっさとやれ。夕飯を食いそびれるぞ。うちはタダ飯は食わさねえからな」
そう言う老人にカールは不貞腐れたように頷き、建物の中に入って行く。
それを見送ると老人は立ち上がりネルを宿の正面玄関へと案内しながら言う。
「あれでも言いつけられた仕事はやるんだ。働けば飯を食わせてもらえるってのを分かっているからな。だが手癖の悪さはなかなか治らねえ。宿で盗みを働いたら即追い出すと厳しく言うと外で盗んでくるようになった。あんたの言う通り、見つかれば袋叩きにされるだろう。今は運がいいだけだ」
「まあ、どこにでもある話さ。しかし爺さんも酔狂だな。浮浪児を受け入れて働かせてやるなんてよ」
「野良猫でも居着いたら放っておけねえだろ。それと同じさ」
そんな会話を交わしながらネルは宿で受け付けを済ませて前払金を払った。
老人は2階の部屋にネルを案内しながら言う。
「風呂はあと1時間くらいで入れるようになる。夕飯は6時から9時の間、朝食も朝6時から9時の間に1階の食堂に来てくれ。うちの女房が作る家庭料理だが、味はなかなかもんだぞ」
そう言うと老人は受付に戻っていった。
ネルはようやく部屋に腰を落ち着け、一息つくのだった。




