40.あれから
アンディの身体を片腕で必死に抱きかかえ、モルフィは重力を振り切って夜空へと飛翔しながら、バロミロのあまりにも凄絶な最後を見届けた。
――立派だった。
己のすべてを賭して道を切り拓いた、かつての闇の王の背中は、最期まで猛々しく、そして美しかった。
カイザーの手によって生々しく毟り取られた左の背中からは、信じがたい速度で新たな羽が急速に肉を突き破って生え変わりつつあった。
だが、それは元あった鮮やかで美しい青い羽とは完全に異なっていた。
まるでバロミロの怨念と呪いを吸い上げたかのように、どす黒く煤けた、禍々しい漆黒の羽。
それが右側の青い羽と対をなし、不揃いに夜風を打つ。
背後を盗み見ても、監獄塔から追っ手が迫ってくる気配は微塵もなかった。
それもそうだろう。
あの教会最強を誇る第一使徒カイザーを、命と引き換えに文字通り戦闘不能の極限まで消耗させたのだ。
追撃を組織する余裕など、今の教会側には一分たりとも残されているはずがなかった。
視線を海へと向けると、先行して脱獄した奴らの小型魔導艇が、夜の帳の向こうに小さく浮かんでいるのが見えた。
蛾の悪魔の力が全身に馴染んできたせいか、単に夜が「よく見える」というより、闇のなかに何が存在しているのかが、肌に刺さる感覚として明確に「分かる」のだ。
奴らは沖合で船を停め、じっとこちらを待っていたようだった。
「……先に、行ってくれてもよかったんだぜ?」
バタバタと煤けた羽を羽ばたかせ、モルフィが魔導艇の甲板へと滑り込むように降り立ち、自嘲気味に聞いた。
「オズレットの野郎がさ、敵の追撃船が視界に入るまでは絶対に船を動かさねぇって言って、いくら言っても聞きやがらなくてよ。
俺たちもこんな精密な魔導機関の運転なんてできねーしな」
アレックスが頭を掻きむしりながら、呆れたように、だがどこか安堵した表情で口を開く。
「……敵の影が来ていないのならば、あえて動く必要もないと判断したまでです。
それに今は完全な暗夜、そこまで周囲の状況が見えているわけでもありませんでしたからね」
そう言って、眼鏡の位置を直しながら照れ臭そうに視線を外したのはオズレットだ。
「それにしても、よくぞまあ無事で戻ってきたもんだ。
あの怪物カイザーを相手に、生きて五体満足で帰ってくるとはな」
老囚バーネットが、感嘆の息を漏らしながら肘で小突いてきた。
「いや……完敗だよ。俺は負けた。
バロミロが、命を賭して助けてくれたんだ」
「バロミロが、だと……?」
「あぁ……自分の両腕をわざわざ切り落としてまで、俺たちの鎖を外してな……」
「なんと……!? そうだったのか、あの御仁が……」
バーネットは深く深く、言葉にならない哀悼の念を胸に刻み込むように、静まり返る海を見つめてしみじみと感じ入っていた。
その時、モルフィの隣でずっと俯いていた少年が、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あのよ、モルフィ……」
「なんだ? アンディ」
「バロミロの、あの両腕を切り落としたの……俺なんだ」
「……だろうな。あの人に頼まれたんだろ?」
驚いたようにアンディが顔を上げる。
「どうして、それを……?」
「あの人が事前に言っていたんだ。
悪魔付きの再生能力なら、最悪の場合は腕を切り落として手枷ごと外せってな。
それを実行できる肝が据わった奴は、あの場にお前しかいなかった」
「そうだったのか。……それと、モルフィ」
アンディの瞳に、複雑に揺れ動く暗い炎が宿る。
「……なんだ?」
「お前のことは、正直に言って今でも恨んでいる。
お前が作り出したあの魔薬のせいで、俺の家庭は、俺の家族は完全にバラバラに破壊されたんだ」
「そうか。……で、どうする? 家族の仇として、今ここで俺を殺しにくるか?」
モルフィは冷徹に、だが逃げも隠れもしない真っ直ぐな視線でアンディを見つめ返す。
「……だからといって、今の俺にはもう、帰る家も行くべき場所もどこにもねぇんだ。
お前に対して、一体どんな顔をすればいいのかさえ、自分でもわからない」
「そうか」
「だから――だから、お前について行かせてくれ。頼む、モルフィ!!」
アンディは縋り付くように、だが決死の眼差しで頭を下げた。
「あぁ……いいよ」
「本当、か……?」
「あぁ。ちょうど、この頭のネジが飛んだ悪魔付きどもをまとめ上げる、お前みたいなまともな感覚を持った人間が欲しかった所だ」
そう言って、モルフィは魔導艇の狭い甲板を見渡す。
乗船している6人のうち、実に4人が規格外の悪魔付き。
そして、そのうち悪魔付きの3人は、今なお手首に残る忌々しい魔導手枷のせいで、本来の力を半分も発揮できずにいる。
モルフィは不敵な笑みを浮かべ、彼らに視線を向けた。
「お前らも、バロミロみたいに腕を根元から切り落とすか?」
「勘弁してくれよ、ゾッとする!」
アレックスが本気で身震いをさせ、己の両腕を抱え込んだ。
「……とりあえず、これからどうするんですか? ボス」
それまで静観していたフェルナンが、一歩前に進み出て静かに問いかけてきた。
「ボス? ……俺のことか?」
「お前以外に、この狂人だらけの船の頭を張れる奴がどこにいるんだよ。頼むぜ、モルフィ? いや――ボス」
アレックスも悪戯っぽく笑いながら同意する。
その言葉を受け、モルフィはゆっくりと歩を進め、波飛沫の舞う魔導艇の船首へと立った。
そして、背中の不揃いな二色の羽――美しい青と、呪いの漆黒を、夜空へ向けて大きく、誇らしげに広げて言い放つ。
「俺たちの往く道は決まった。――ここから、俺たちだけの、犯罪者だけの国を作るぞ」
そのあまりにも壮大で、あまりにも荒唐無稽なモルフィの夢に、船上は瞬く間に、呆れと、興奮と、そして未来への期待を込めた悪党たちの盛大なわらい声で包み込まれた。
「大失態、だな……」
誰もいなくなった朝焼けの海岸で、カイザーは砂にまみれたまま力なく座り込み、水平線からゆっくりと昇る朝日を、ひたすら虚ろな目で見つめていた。
昨夜、あの凄絶な爆破と大剣の行使で魔力をほぼ使い果たしてから、ずっとこの調子である。
人型に戻ることはできたものの、全身の関節が軋むように痛み、指一本動かすのも億劫だった。
監獄塔のほうは、第2使徒エノワールが獅子奮迅の立ち回りで、狂乱して暴走していた囚人と看守を一人残らず力技で抑え込み、ようやく鎮圧が完了したらしい。
だが、そんな事後処理などカイザーにとっては心底どうでもよかった。
王宮の最高戦力であるカイザー、エノワール、ソロー。
実に3人もの使徒が揃い踏みしていながら、たかが数人の悪魔付きと犯罪者どもの脱獄を許し、取り逃したのだ。
言い訳のしようもない。
この一件は、教会と自分たちの名に一生ついて回る、後世までの歴史的な恥晒しであった。
「――カイザーさん」
砂を踏む冷ややかな、しかし寸分の乱れもない足音とともに、背後から声をかけてくる者がいた。
「……スタークか」
振り返る気力もなく、カイザーは声だけで応じた。
現れたのは、第4使徒スターク。
教会の若き最高幹部であり――そして、先ほどカイザー自身の手で灰に変えた最古参の悪魔付き、紫龍のバロミロの実の息子。
血筋という呪いと、使徒としての責務を同時に背負う男だった。
「……親父は、最後はどうだった」
肉親を失った悲しみとも、執着ともつかない、酷く平坦で乾いた声だった。
同じ最高戦力たる使徒の同胞として、そして父親の最期を見届けた男への、冷徹な問い。
カイザーはしばし沈黙し、目の前の海を見つめたまま、ポツリと、だが確かな敬意を込めて言葉を返した。
「立派だったよ。
もし奴の肉体が全盛期の状態のままだったら、俺のほうが海に沈められて負けていたかもしれん」
「……そうか」
それだけを聞くと、スタークは感情を一切見せることなく、静かに背を向けた。
その日光を避ける黒いマントが、朝露を含んだ潮風に冷たく翻る。
「待て。……下手人のモルフィという男に何か心当たりはあるか?」
「えぇ」
スタークは立ち止まり、振り返ることもなく短く肯いた。
その横顔には、父親譲りの冷徹な紫の双眸が光っている。
「次も俺が直々に奴らの首を狩る。
本調子に戻ったら、地の果てまで追い詰めて必ず殺す。
……お前も、第4使徒として、あるいは息子として、自分の手であの男を仕留めに行きたいってんなら、その時は俺についてこい」
「――わかりました」
低く、地を這うような決意を孕んだ声だけを残し、第4使徒スタークは夜明けの白々とした光の中へと静かに去っていった。
一人残されたカイザーは、重い溜息をつくと、そのまま冷たい砂浜の上へと大の字に寝転がった。
これから王宮へどう報告を上げるか、どうやってあの羽虫どもを燻り出すか、あれこれと考えようとして――、
「……あー、やめた。何も考えつきゃしねぇ」
考えること自体が、途端に馬鹿馬鹿しくなった。
カイザーは思考を放棄するように目を閉じると、耳を打つ静かなさざ波の音だけを聞きながら、屈辱をかき消すようにそのまま不貞寝を決め込んだ。




