39.紫龍のバロミロ
カイザーの放った大剣がモルフィの首を刎ね飛ばす、まさにその刹那――その巨体を真横から猛烈な質量で叩き伏せたのは、悍ましい「骨だけの龍」のアギトだった。
十数年という果てしない幽閉の時を経て、ついに現世へと顕現した伝説の悪魔は、その解放を歓喜するように不気味な咆哮を轟かせ、巨大な骨の顎でカイザーの肉体を無慈悲に噛み砕かんと押しつぶし、爆音とともに砂浜へと叩きつけた。
「カイザー――ッ!!」
遥か遠方、監獄塔の煙突の上から、ソローが鼓膜を引き裂くような悲鳴を上げる。
即座にカイザーを援護すべくスコープを覗き、銃身を向けたが、彼の足元――塔の基部からもまた、ミシミシと地鳴りを立てて地中を突き破り、巨大な骨の龍が這い出ており、その鎌首を鋭くもたげていた。
「ぐっ……!!」
超長距離からの狙撃という絶対的な優位を強引に剥ぎ取られ、ソローは死に物狂いで引き金から指を離し、その場からの退避を余儀なくされた。
一方、血飛沫の舞う砂浜では、両腕を根元から失ったバロミロが、自身の命そのものである魔力をガリガリと削りながら、フラフラと危うい足取りでモルフィの傍らへと降り立っていた。
その背後では、地中から生み出された無数の骨の龍が、圧殺せんばかりにカイザーの身動きを必死に封じ込めている。
「……逃げろ。そして、何が何でも生き延びろ」
それだけを、凝固しかけた血の混じった低い声で言い残し、バロミロは再びゆっくりと、怒りで狂うカイザーの方へと向き直った。
直後、ズガァァァンッ、とカイザーを拘束していた骨の龍が、内側からの圧倒的な熱量によって爆発するように粉々に弾け飛んだ。
白煙と激しく飛び散る骨の破片を突き破り、全身にドス黒い炎を纏ったカイザーが猛り狂う。
「帰ってきたか!! 『紫龍』のバロミロ――ッ!!
過去の遺物め!!
お前をここで完全に屠るには、これ以上ない最高にいい夜だな!!」
「喚くな、小僧。まだ齢18にも満たねぇ羽虫の若造に、そこまでボコボコにされて地を舐め、跪かされていた分際で、よく吠えるものだ」
冷徹極まりない、そしてあまりにも的を射たその侮蔑の言葉が、カイザーの残された薄氷の理性を完全に叩き割った。
「くたばれ、老害ぃぃっっ!! もうお前たちの時代なんて、とうの昔に終わったんだよ!!」
両目を真っ赤に血走らせ、人の身を捨てた獣さながらの神速で、カイザーが炎を滾らせた大剣を構えて肉薄する。
だが、幾多の戦場を支配した伝説の脱獄囚の戦術は、さらに一枚上手だった。
別の骨の龍がとぐろを巻くように強固な障壁となってバロミロの身体を庇うと同時に、その全身の隙間から、禍々しく可燃性の高い特殊なガスを全方位へと一気に噴出した。
そのガスは、バロミロの圧倒的な魔力によって明確な指向性を与えられ、カイザー自身の纏う炎を引火媒体として逆利用し、ドッ、という鈍い音の直後に猛烈な大爆発を起こしてその肉体を容赦なく焼き払った。
「お前の親父も、かつて全く同じ戦術で俺に苦しめられてきた。
……実によい気味だな」
黒煙の向こうを見つめるバロミロの顔には、かつて己の組織を率い、全盛期において「如何にしてあらゆる手を用いて相手に勝つか」を冷酷に突き詰めていた、あの絶対的な『王』としての凄みが完全に蘇っていた。
いつから、俺はあの暗い地下深くの泥水のような独房に閉じ込められ、いつから、生きる生気を失っていたのか。
――いや、まだやり直せるか。
枯れ果てていたはずの魔力が、決死の覚悟に呼応して全身の血管を激しく駆け巡る。
「――『紫龍』。……『龍化』」
バロミロの肉体が、対峙するカイザーと同じく、禍々しく硬質化した紫色の鱗にピキピキと覆われていく。
失われた両腕の先からは、かつての人間の手とは程遠い、すべてを引き裂くような獰猛な「竜の爪」が、魔力の奔流によって生々しく形成されていった。
だが、この「龍化」をやりすぎれば、二度と人間の姿には戻れず、自我を失った純粋な怪物として生きることになりかねない。
それはカイザーと同じく、己の命の灯火を前借りするような過酷な使用制限のある禁忌の能力。
だが、今のバロミロにとって、そんな代償はどうでもよかった。
元より、この血生臭い監獄の島で朽ち果てる覚悟は疾うにできている。
今更、人間の社会に未練など、何一つとして残ってはいない。
「お前の魔力は、てっきり長い監獄生活で腐り落ちてなまっていると思ったが……なるほど、存外に動くな。
……これなら、10年前のあの最初の脱獄劇の後、すぐにでもまた脱獄を企ててやればよかったな」
不敵に笑い、先ほどのガス爆風によって体勢を崩し吹き飛ばされたカイザーの隙を、バロミロは逃さずさらに狙い撃つ。
鋭利な竜の爪でカイザーの硬質化した皮膚をガリガリと凄惨に削り取り、相手が業火の魔術を使えば、それを火種にして可燃性ガスによる即座の爆破カウンターを見舞う。
一分の無駄もない、これこそが幾多の死線を潜り抜けたバロミロの熟練した戦闘テクニックだった。
だが、そこで完全に動きを止める第一使徒ではなかった。
「――『喰いちぎる龍の顎』!!」
激しい地響きとともに、足元の砂浜から無数の炎の龍のアギトがバロミロを襲う。
そして、その炎の口が完全に閉じられる文字通りの刹那、カイザーは自ら放った激しい炎の中から、ほぼ無傷の状態で狂ったように飛び出してきた。
「ハハハハハハハハハ――――ッ!!」
完全に理性を狂気に委ね、血に飢えた笑い声を上げながら、カイザーの爪がバロミロの双眸を的確に狙う。
もはや、自らには一分の余裕も、手加減の余地もないことを完全に理解していた。
だからこそ、第一使徒は、ここ数年の弛まぬ研鑽の末に開発した、自身の最新にして最高峰の防衛技術を解き放つ。
「――『龍装甲』!!」
カイザーの肉体の周囲を、不可視の高密度魔力による絶対的なシールドが球状に覆い尽くした。
バロミロが放った必殺の追撃がその障壁に接触した瞬間、キィィィンという鋭い金属音と共に凄まじい反発エネルギーが炸裂し、その爪を強硬に弾き返す。
キックバックのような凄まじい衝撃波をまともに喰らい、大きく弾き飛ばされたバロミロは、砂浜の上でたたらを踏み、大きく体勢を崩した。
その、刹那の硬直。
カイザーは体内のあらん限りの膂力と魔力をその右腕に込め、手にした絢爛な大剣を、渾身の力でバロミロへ向けて投げ飛ばした。
ドシュッ――!!
超音速で大気を切り裂いた大剣は、寸分の狂いもなく、バロミロの無防備な心臓を深く深く突き刺し、背後へと貫通していた。
心臓を深く貫かれたバロミロは、轟然と吹き荒れる潮風のなか、抗う術もなく背後へと崩れ落ち、仰向けに砂浜へと倒れ伏した。胸に突き刺さった大剣の重みが、彼の残された命の灯火を無慈悲に削り取っていく。
ザッ、ザッ、ザッ、と、濡れた砂を力任せに踏み締める重い足音が近づいてくる。
その音の主――全身の皮膚を禍々しい硬質鱗に変貌させ、両の眼眸を完全な「龍」のスリット状瞳孔へと変えたカイザーが、勝利の狂気で目を真っ赤に血走らせ、上からバロミロを見下ろしていた。
そこには、もはや教会の使徒としての気高き面影など微塵も残っていない。ただ、本能のままに破壊を貪る異形の捕食者だった。
「ハァ……、ハァ……、ハァ、ハハッ……!」
カイザーは低く獣じみた笑いを漏らしながら、バロミロの胸に深々と突き刺さったままの大剣の柄へと、硬質化した剛腕を伸ばした。
そして、巨木を引き抜くような圧倒的な膂力で、突き刺さった大剣ごと、バロミロの身体を無造作に天空へと吊り上げた。
重力に逆らい、大剣の刃に肉を抉られながら、宙へと浮かび、静止するバロミロの肉体。
その直下、見上げるカイザーの全身から、この世の闇をすべて集めたかのようなドス黒い炎の魔力が一気に噴出し、大剣の刃へと収束していく。
キィィィンと空間が悲鳴を上げるほどの超高密度のエネルギーが、剣身を爆発的な熱量で真紅に灼き付かせた。
「消し飛べ、ゴミがぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
大気を割る咆哮とともに、紅蓮の魔力を宿した大剣が、下から上へと向けて一気に振り抜かれた。
――ズガァァァンッ!!!!
視界を完全に白濁させるほどの激しい爆炎と閃光が海岸を支配した。
大剣の凄まじい斬撃波は、まるで一枚の紙でも引き裂くかのように、呆気なくバロミロの肉体を真っ二つに両断し、その瞬間の凄まじい熱量によって、肉も骨も、血の最後の一滴に至るまで、文字通り一瞬にして一掴みの『灰』へと変えてみせた。
夜空からハラハラと虚しく降り注ぐ、かつて王と呼ばれた男の、灰の雪。
それこそが、身動きの取れない砂浜の底で、モルフィが最後に網膜に焼き付けた――最古参の悪魔付き、紫龍のバロミロの、あまりにも凄絶で、圧倒的な最期の姿だった。




