38.羽虫と龍
「いいから四肢を死に物狂いで動かせ!! カイザーが追いついてきたら、その時点で全員終わりだぞ!!」
闇を切り裂くように、アレックスが凄まじい檄を飛ばした。
流石にカイザーが昨日圧倒的な力技で抉り開けたあの一本道をそのまま進むのは、あまりにも目立ちすぎる上に危険極まりない。
四人は王宮兵の追跡を撒くため、鬱蒼と生い茂る海岸沿いの深い森の中を突っ切るルートを選択した。
ガチャガチャ、ガチャガチャ、と、脱獄した悪魔付き三人――バーネット、フェルナン、オズレットの手首に残る重い鎖が、地を蹴る走る振動で甲高い金属音を鳴らす。
静まり返った夜の森において、その高音は致命的なほどに目立った。
背後から地響きのように迫る追手の気配を察知するたび、殿を務めるモルフィが漆黒の闇に紛れて死角から迎撃し、辛うじて全員の命を繋ぎ止めていた。
唐突に木々が開け、目の前に白い波飛沫が激しく広がる。
「――船だ!!」
アレックスが歓喜の声を上げると同時に、老体のバーネットを船上へと力任せに放り投げ、続けてフェルナンとオズレックもその巨体で船内へと力強く押し込んだ。
波打ち際に係留されているのは、幸いにも看守たちの巡回用とおぼしき小型の魔導艇。
周囲に人影はなく、完全に無人だ。
「船の操縦なら俺に任せろ! 特有の魔導機関の動かし方は頭に入っている!
お前たちは早く船体を沖に出す準備をしろ!!」
オズレットが叫びながら即座に揺れる操舵席へと飛び込み、制御レバーを引いて魔導機関に蒼い火を入れる。
すかさずアレックスが全身の筋肉を総動員して船尾を掴み、砂浜に深く乗り上げていた船体を強引に引き剥がすように荒海へと押し出していく。
しかし、その決死の作業の最中、モルフィだけは走るのを止め、静かに不気味な静寂を湛える道へと振り返っていた。
その視線は、森の奥から津波のように立ち上る、悍ましいまでの魔力のプレッシャーを明確に捉えている。
「何をしている、モルフィ!! 早く乗れ!」
アレックスの引き裂くような怒号の催促。
「……アレックス。あいつをここで食い止めないと、やっぱり無理だ。
全員、このまま背中から一網打尽に焼き殺される。
――お前たちは、先に行け」
モルフィが低く静かに覚悟を告げた、まさにその瞬間だった。
大気を激しく震わせ、森の巨木をドミノのようになぎ倒しながら、まさに天空から降り注ぐ流星のごとき質量と速度で、紅蓮の炎を纏ったカイザーが海岸へと着地した。
凄まじい衝撃波が砂浜を爆ぜさせ、周囲の空間を圧倒する。
「やはり、お前が昨日と今日の騒動の首謀者だったか。
……地の果てまで肉片一つ残さず、徹底的にぶっ殺してやる」
「神に仕える教会の最高使徒様が、随分と下品で物奏な言葉を使うじゃねぇか」
冷徹に言い返し、二人の怪物が月明かりに照らされた海岸で正面から激突する。
カイザーの焦燥を含んだ視界の端には、沖へと逃れようとしている四人の囚人の姿が見えていた。
その中には、昨日自らと言葉を交わしたあの老囚バーネットの姿もある。
(――雑魚どもなど、後回しでいい!
まずはこの俺の誇りに消えない泥を塗った、この不快な羽虫を確実に殺す!!)
カイザーの主兵装は、その身の丈ほどもある、金銀の豪華絢爛な装飾を施した巨大な大剣。
そして、その体内に宿した「龍の血」がもたらす、触れた万物を一瞬で灰にする極大の火炎。
羽虫と龍。
正面から純粋な魔力と火力で殴り合えば、モルフィに万に一つの勝ち目もないことは明白だった。
それでも、今のモルフィが勝機を見出すとすれば――戦術はただ一つ。
モルフィは背中の青い羽を大きく広げ、重力を嘲笑うように上空へと鋭く飛翔した。
遥か高みから、眼下で見上げる捕食者に向けて、濃密な発狂の鱗粉を嵐のように吹き付け、全方位へ撒き散らす。
奇襲としてはこれ以上ない、最大にして最高の、理性を破壊する必勝の布石。
だが、そんな小細工が二度も通用するほど、第一使徒は甘くなかった。
「そんな塵芥が、この俺に二度も効くわけねぇだろぉが!!」
暴風のごとき咆哮とともに、大剣が真一文字に一閃される。
巻き起こった爆炎の熱風が、降り注ぐ鱗粉を熱量だけで容赦なく焼き尽くしていく。
悪魔の粉は、脳に届く前にただの無害な灰へと帰した。
間髪入れず、カイザーは大剣を砂浜の地中へと深く突き立てる。
地脈を流れる膨大な熱魔力が一気に具現化し、地面から五匹の巨大な炎の龍が、狂暴な牙を剥いて首をもたげた。
「――『喰いちぎる龍の顎』!!」
唸りを上げる炎の顎が、寸分違わず上空のモルフィ目掛けて凄まじい速度で狂い咲く。
だが、バロミロの膨大な知識によって己の肉体構造を完全に掌握しているモルフィは、空中で蝶のようにヒラヒラと身を翻し、その苛烈な猛火の軌道を紙一重で躱し続けた。
しかし。その絶妙な空中制動の最中、死角からの予測不能の一撃がモルフィの肉体を正確に穿った。
――ドシュッ、という重い鈍い肉声。
「……ッ!!???」
突如として、モルフィの左肩を、赤く熱した鉄杭を直接押し付けられたかのような激痛が貫通した。
あまりの衝撃と衝撃波に、空中で姿勢が大きく崩れる。
痛みの発生源――遥か遠く、監獄塔の最も高い煙突の頂上に、一人の影が静かに立っていた。
その男が不敵に構えていたのは、この世界のいかなる既知の兵器とも異なる、モルフィすら見たこともない未知の鋼鉄の長い筒。
「何その武器?って顔をしてるね、悪魔付き。
――この武器の名前はね、『スナイパーライフル』っていうんだよ」
煙突の上で冷酷に口元を歪めるのは、第3使徒ソロー。
彼は限界状態にあるカイザーの身を案じ、監獄内の事後処理のすべてを第2使徒エノワールに一任し、超長距離からの絶対的な狙撃支援に回っていたのだ。
左翼のバランスを完全に崩し、空中制御を失って砂浜へと急降下していくモルフィ。
その墜落地点を、カイザーの大剣がこれでもかと狂暴な火炎を滾らせて待ち受けていた。
「確実に、ここで細切れにしてやる」
着地した瞬間の最大の隙を狙い、モルフィに向かって放たれる、文字通り全てを懸けた渾身の一撃。
それが直撃する、まさにその刹那――カイザーは確かに見た。
落下するモルフィがその双眸をカッと見開き、内臓の血を吐き出しながら、未知の呪詠を叫んだのを。
「――『反響狂騒』!!」
その瞬間、モルフィの全身から、この世の物理法則を根底から無視した「未知の音響」が爆発的に放射された。
カイザーの脳内には、それを形容する言葉も概念も存在しなかった。
強いて言うなれば、脳髄を直接金属の金槌で滅多打ちにされ、鼓膜の奥底で数千個の鐘を同時に打ち鳴らされたかのような、凄まじい脳震盪の衝撃。
「ぐ、あ、あぁぁぁぁっっ!!」
頭部を襲う激烈な狂騒音に、カイザーは思わず持っていた大剣を勢い余ってモルフィの背後へと放り出し、両耳を血が滲み出るほど強く塞いで砂浜に 跪いた。
視界が激しく明滅し、あらゆる平衡感覚が消し飛ぶ。
だが、そんな悶絶の最中でも、カイザーの眼球は執念でその正体を捉えていた。
モルフィの背中に生えた青い翼が、動いているかどうかすら視認できないほどの「超高振動」を起こしている。
あの脳を破壊する悍ましい音は、あの羽が空間の空気を超高速で切り裂く振動音そのものなのだ。
(――あの、羽か……ッ!!)
遠方の煙突の上から、ソローがすぐさまモルフィを仕留めようと冷徹に次弾を装填し、再び引き金を引く。
しかし、放たれた超音速の弾丸はことごとくモルフィの手前で激しく弾かれ、軌道を不自然に逸らされた。
超高振動の発する絶対的な音波が、不可視の密度の防壁となってすべての弾道を歪めているのだ。
「くっそ!! さっきは当たったのに、掠りもしねぇ!!」
耳を塞ぎ、これまでにない屈辱に塗れて砂浜に這いつくばるカイザー。
その歪む視界に、ゆっくりと歩み寄ってくるモルフィの足元が映る。
跪く教会最強の男と、それを通路で見下ろす悪魔付きの男。
それは、第一使徒としての絶対的なプライド、教会ナンバーワンの実力者としての傲慢を、根底から踏みにじる絶望的な構図だった。
「……おのれ、おのれぇぇぇ!! この俺を、一体誰だと思っているぅぅぅ!!」
カイザーの理性が完全に瓦解した。
内包する「龍の膂力」を限界を超えて引き出し、その皮膚が、見る間に恐竜のような禍々しい赤黒い硬質組織へと変貌していく。
爪が異様に伸び、人としての輪郭が獣へと歪んでいく。
「カイザー!! 止めろ、それ以上使ったら人間に戻れなくなるぞ!!」
通信魔導具から響くソローの悲痛な叫びすら、今のカイザーの耳には届かない。
全身を狂気の劫火で包み込み、肉眼では捉えられない限界以上の反射速度で、カイザーは文字通り地を這う獣となってモルフィの懐へと一瞬で肉薄した。
「――が、ぁっ……!! ……っ!?」
あまりの神速に、モルフィが反応を返すよりも早く。
カイザーの硬質化した強靭な爪が、モルフィの背中に生えた美しい青い羽の根元を、容赦なく 鷲掴みにした。
そして、肉と骨が引きちぎれる凄惨な音とともに、それを根元から強引に 毟り取った。
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
絶叫とともに、モルフィはその場に激しく倒れ込んだ。
もぎ取られた背中の深い傷口から、まるで噴水のように大量の鮮血が溢れ出し、夜の砂浜を赤黒く染めていく。
「……おい、蝶の悪魔付き。
認めよう、これまでの人生でお前ほど俺をここまで追い詰めた奴は、3人目だ……!!
その栄誉を胸に、誇って死ね、羽虫が!!」
カイザーがいつの間にか手元に引き寄せた大剣に、再び悍ましいエネルギーが充填されていく。
それは先ほどまでの比ではない、この監獄の島全体を地形ごと消し飛ばしかねないほどの、圧倒的で強大な魔力の光球だった。
動けない。
能力の過剰行使による魔力枯渇か、それとも致命的な失血のせいか。
指一本、肉体が思うように動かない。
目前に迫る大剣の狂暴な輝きが、モルフィの薄れゆく視界の中で二重、三重に歪んでいく。
「死ねぇっ!!」
轟音とともに、大剣が容赦なく振り下ろされる。
完全に死を覚悟した、その刹那――世界の終わりを引き裂くように、聞き馴染んだ咆哮がモルフィの耳深くに届いた。
「――モルフィッッ!!!!」
それは、あの日背を向け、絶縁を言い渡されたはずのアンディの声。
そして――手枷を外すために自らの両腕を切り落とした、あのバロミロの凄絶な姿だった。




