37.再脱獄
「……まさか、こんな泥縄式の、ぶっつけ本番で脱獄を敢行することになるとはな」
薄暗い独房の隅で、バーネットが自嘲気味に深く呟いた。
緊迫感のあまり、その声は心なしか震えている。
「そう言えば、お前とこうして同じ牢に収まっていたのは、ほんの数時間程度だったな」
「それを言うなら、俺は元々誰かと共同房に入れられても、二十四時間まともに持った試しがないんだよ」
「……逆に大したものだな、それは」
そんな皮肉を交わしながら、二人は壁の隙間から差し込む僅かな光を頼りに、決行までの時間をじっと見つめる。
オズレットが緊張した表情でこちらを見ていた。
それにアイコンタクトで伝える。
大丈夫だ。
奴もこのどさくさで共同房に入れられたことは夕食前で確認済みだ。
残り、十分。
手枷が壊れた瞬間、脳内に雪崩れ込んできたバロミロの「遺産」――膨大な知識の譲渡によって、今のモルフィは己の中に眠る悪魔の力をどう御せばいいのか、完全に理解していた。
発動に、一切の迷いも淀みもない。
手首の焼けるような激痛を補って余りあるほどの、圧倒的な魔力が全身に満ち満ちていく。
(バロミロ。すまないな、こんな行き当たりばったりの作戦で。
あんたに事後報告すらできやしない)
「……まあ、終わったことを悔やんでも仕方ない。今はただ、ここを脱出することだけを考えろ」
バーネットの促す声に、モルフィは短く「そうだな」と応じた。
十分。それは、夕食後の僅かな休憩時間が終わりを告げるタイムリミット。
夕食を終えたモルフィとバーネットは、看守たちの目を欺くために一目散に大人しく一般独房へと戻っていた。
今、通路では他の囚人たちが次々と牢へと収容されていく足音が響いている。
まさに全員が檻に引きこもる、その瞬間。
モルフィの脳内で、悪魔がその言葉を紡げと狂おしく囁いた。
「――『怪蝶のもたらす幻惑と発狂の粉』」
モルフィの唇から呪詠が漏れ出た、その瞬間だった。
ガランとした監獄内に、突如としてこの世のものとは思えない絶叫が吹き荒れた。
看守も、囚人も、その場にいた者たちが一斉に、ありもしない恐怖の幻覚を見たかのように狂乱状態に陥ったのだ。
意味もなく隣の者を殴りつける者、恐怖から逃れようと走り出す者、頭をコンクリートの壁に激しく打ち付ける者――通路は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「よし、動くぞ!!」
モルフィは隣房のアレックスとフェルナンに鋭い目配せを送り、あらかじめ用意していた雑巾をマスクのように切ったものを着用した。
狂乱の渦中、アレックスが驚異的な反応速度で、オズレットの近くにいた囚人を殴り倒す。
「オズレット!!」
そう叫び、こっちを振り向いた友の姿があった。
「いくぞ!!」
何も言わず、オズレットはモルフィの背後をついていった。
この凄まじい喧騒は、食堂でモルフィが仕込んだ「あのシチュー」を口にした者全員に強制発動していた。
毒の正体は、モルフィの体内から分泌される「鱗粉」だ。
かつて外界で魔薬を生成していた頃と原理こそ同じだが、悪魔の知識を受け継ぎ、手枷の呪縛から解き放たれた今、その中毒性と効力、そして濃度の高さはあの頃とは比べ物にならなかった。
理性を失った囚人たちが、血飛沫を上げて凄惨な殴り合いを始めている。
その地獄を泥泥とすり抜けながら、モルフィたちは一気に出口へと突き進む。
走るモルフィの背中には、いつの間にか小さな、だが鮮やかなな一対の羽が生え揃っていた。
それは夜の闇の中で、不気味なほどに美しく青く明滅している。
「ちっ、しゃらくせぇ……!」
モルフィが邪魔な囚人服の上着を引きちぎると、その肌が露わになった。
かつては右肩にしかなかったはずの「蝶の入れ墨」が、今や生き物のように蠢きながら全身へと拡大し、古代の呪術的な民族文様のごとき悍ましい姿を呈している。
翼のような羽を羽ばたかせる。
その異形の後ろ姿は、追従する4人にとって、悪魔のようでもあり、同時に絶対的な道しるべのようにも見えた。
「ぐあっ……!?」
不意に、背後でバーネットが足をもつれさせて激しく躓いた。老体には、この超高密度の脱獄劇は負荷が強すぎる。
「もたもたするな、じいさん。運んでやる!
お前は運ばねぇからな!メガネ!」
「問題ない!!」
すかさずアレックスがその屈強な腕でバーネットを荷物のように担ぎ上げ、爆発的な脚力で再び走り出す。
それに負けじとオズレットも走りだす。
目指す行き先は、あの場所。
第一使徒カイザーが「いちいち壁を通るのが面倒だから」という傲慢な理由で、出入り口代わりに木っ端微塵に破壊した外壁の亀裂だ。
しかし、その崩落した出口から、監獄内の異常事態を聞きつけた王宮の精鋭兵たちが、武器を構えて次々と雪崩れ込んできた。
「……邪魔だ、失せろ!!」
モルフィが背中の青い羽を大きく一閃させる。
凄まじい密度の輝く鱗粉が風に乗って兵士たちに浴びせられた。
それを吸い込んだ途端、精鋭たちの平衡感覚は完全に破壊され、糸の切れた人形のように次々と地面へ崩れ落ちていく。
「……すさまじいな、おい……!!」
アレックスが戦慄混じりの声を漏らし、フェルナンも青ざめた顔で深く頷いた。
「このまま一気に海岸の船まで駆け抜ける。そうすれば、俺たちの……!!」
オズレットが希望の言葉を口にしかけた、その瞬間だった。
背後の監獄塔の奥深くで、大気を激しく震わせる大爆発が巻き起こった。
その衝撃波と、天を突くほどの悍ましい魔力の奔流は、明らかにこの世の人間が放てる種類のものではなかった。
「……チッ、カイザーだ! お目覚めになられたぞ、急げ!!」
モルフィの鋭い警告が響く。
背後に絶対的な死の気配を感じながら、四人は夜の荒野へと、ただ死に物狂いで走り出した。
カイザーもまた、あの鱗粉の混じったシチューを口にしていた。
普段、王宮で贅を尽くした宮廷料理ばかりを貪っている彼が、ふと「たまにはこうした底辺の泥水を啜るような生活を味わうのも、芸術的な刺激になって悪くない」などという、気まぐれな好奇心を起こしたのが運の尽きだった。
「変わった奴」と、部下のエノワールには呆れ顔で言われていた。
だが、カイザーに言わせれば、犯罪者どもの狂気に満ちた生態を知ることこそが至上の娯楽なのだ。
一流の芸術家や小説家ほど、自ら進んでそうしたドブ底の狂気に身を委ね、インスピレーションを得なければならないのだから。
しかし、今回ばかりは部下の忠告が正しかったと、骨の髄まで思い知らされることになる。
「ぐっ……、う、あぁぁ……っ!!」
額から滝のような冷や汗をダラダラと垂れ流し、床に両膝を激しくつきながら、かつてないほどの窮地に立たされている第一使徒の姿がそこにあった。
「カイザー!!」
ただごとではない自らのリーダーの異変に、第2使徒のエノワールが叫ぶ。
彼女は、狂乱して襲いかかってくる周囲の囚人や看守どもの牙からカイザーを隔離するため、即座に防御魔術の障壁を展開した。
同じくの第3使徒のソローも瞬時に懐から拳銃を引き抜き、障壁に肉薄する狂人たちを容赦なく射殺していく。
「……チッ、一体何が起きている!? 何がどうなっているんだ!」
ソローが怒号を上げる。
囚人ならともかく、訓練された看守までもが敵味方の区別を失い、獣のように狂い、喚いている。
この空間そのものが異常だった。
「……おい、二人とも。悪いが今の俺は、完全に使い物にならん……」
カイザーは荒い呼吸の隙間から、血の混じった声を絞り出した。
「脳が……狂気に侵食されている。
己の魔力をこの場で暴発させず、体内に押し留めるだけで……ッ、手一杯だ……!」
「そんな! カイザー!あんた、一体何に……!」
エノワールが驚愕に目を見開く。
「だが……犯人の目星は、もうとうに付いている。
……あの、肩に青い『蝶の入れ墨』を刻んだ男だ……!」
「蝶の、入れ墨……?」
「思えば、医務室で奴と会ったあの時から、全ての違和感に気づいておくべきだったんだ……!
窓に鉄格子が嵌められていなかったこと、昼間だというのにひたすら眠りこけていたこと。
くそ、忌々しい……!
あの悪魔付きの羽虫めがぁぁぁぁぁっ!!」
怒りと屈辱がカイザーの理性を限界突破させた。
彼は制御不能になりかけていた莫大な体内の魔力を、あえて体内から全方位へと一気に解き放ち、爆発させた。
「馬鹿、カイザー!! そんな至近距離で、それほどの魔力を無差別に解放したら――!!」
ソローの制止の声は、凄まじい爆音にかき消された。
カイザーを中心に巻き起こった魔力の奔流は、文字通り天を突くような紅蓮の火柱となり、食堂の天井を吹き飛ばし、周囲一帯に視界を奪うほどの猛烈な熱風を吹き荒れさせた。
これが、モルフィたちが背後で聞いたあの大爆発の正体だった。
「ハァ……、ハァ……、ハァ……ッ」
爆煙の立ち込める中心で、カイザーは荒く息を吐きながら、己の両手を見つめた。
魔力を無理やり一気に放出したことで、脳を焼くような発狂の呪縛が霧散し、体がいくぶん楽になったのを確かに感じていた。
(なるほどな。……魔力の暴走、か。
魔力に対する耐性を本質的に持たない一般の人間が、いきなり過剰な魔力を血管に流し込まれれば、脳が耐えきれずに狂乱する。
それを受動的に、強制的に引き起こす罠。
……経口摂取であれば、原因はあのシチューしか有り得ん)
おそらく、何らかの悪魔由来の薬品か、奴自身の体組織でも混ぜ込んだのだろう。
だが、もはや原因などどうでもよかった。
あの「モルフィ」という男が、この稀代の脱獄劇の主犯であり、自分に消えない泥を塗った張本人。
それだけで十分だった。
「龍にこんな弱点があったとはな……!
本調子には程遠いが……あの身の程知らずの羽虫どもを文字通り叩き潰すのなら、これくらいが丁度いいハンデだ」
その瞳に、かつてないほどギラギラとした凶暴な殺意の光を宿しながら、教会最強の男は巨大な大剣を不敵に振りかざした。
地の果てまで追い詰め、必ずやその首を刎ねる。
絶対的な捕食者が、今、下手人を殺すために動き出した。




