36.すべて晒される
配給を待つ囚人たちの長い列の中に、オズレットの姿があった。
彼の頭の中は、今後の身の振り方についての陰鬱な思考で埋め尽くされていた。
(……さて、どうしたものか)
前看守長ガナンという巨大な後ろ盾を失った今、次にやってくる新たな看守長と、これまで通りの裏取引ができる保証はどこにもない。大暴動の直後だ、王宮の監視の目も一段と厳しくなるだろう。
そうなれば、自分への特別扱いを維持することなど極めて困難だ。
こればかりは完全に運頼みだった。
監獄の財政というものは、10年、20年という長期的な単位で帳簿の辻褄を合わせ続けなければ、どんなに巧妙な不正や横領であっても、いつかは必ず監査で露見する。
もし過去の悪事が芋づる式に暴かれれば、自分の刑期は際限なく延びていくことになるだろう。
どうすれば生き残れるのか。
破滅へのカウントダウンに背筋を凍らせていると、いつの間にか自分の番が回ってきていた。
「オズレットだな?」
「えっ……あ、はい……」
思考に没頭していたオズレットは、目の前でシチューを掬う男から不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。
声の主はアレックスだった。
その両手首には、モルフィと同じあの忌々しい特級魔導手枷が嵌められている。
「お前はこっちのシチューだ」
アレックスはそう言うと、大鍋から掬うのではなく、脇に予め用意されていた、すでにシチューが並々と注がれた別の皿をオズレットの前に差し出した。
怪訝に眉をひそめるオズレットに対し、アレックスは看守に聞こえないほどの極小の囁き声で、そっと告げた。
「モルフィからだ。――信じろ、だとよ」
心臓が大きく跳ね上がった。
モルフィ。
あの脱獄を手引きし連行され、とっくに脱獄に失敗して処刑されたものとばかり思っていた青年が生きていた。
それどころか、この配膳の裏で糸を引いている。
オズレットは平静を装いながら、給食台の奥、調理場の入り口へと視線を走らせた。
そこには、俯き加減で調理器具を洗い続けているモルフィの背中があった。
そして、オズレットは見てしまった。
冷水に浸されたモルフィの両手首に、あるべきはずの「鉄の手枷」が影も形もないことを。
(やる気だ……あいつ、本当にやる気なのか……!)
昨日、未曾有の大暴動が起き、第一使徒から第三使徒までの直属の部下や新たなに配属され看守たちが四方を固めているこの最悪のタイミング。
文字通り、島内が最も警戒されているこの瞬間に、奴らは再び脱獄の牙を研いでいる。
途端に凄まじい緊張感が襲いかかり、生ぬるいシチューの匂いに胃が拒絶反応を起こした。
食欲など一瞬で消え失せた。
オズレットは震える手で皿を持ち、息を潜めるようにして食堂の隅のテーブルへと腰掛けた。
その一連の奇妙なやり取りを、オズレットのすぐ後ろに並んでいたアンディが、鋭い目で見届けていた。
「おい。なんであいつだけ。あいつのシチューだけ別の鍋から分けられたんだ?」
アンディはアレックスの顔と名前を知っていた。言葉を交わしたこともある。
「……知らん。看守に言われた。
あいつには重度の食物アレルギーがあるんだとよ。
余計な詮索はするな」
アレックスは感情の籠もらない声で淡々と言い放ち、アンディの皿にシチューを乱暴に注いだ。
「……そうかよ」
アンディはそれ以上追及しなかった。
最初は、新しく赴任してきた看守たちの鋭い視線に晒され、アレックスがピリピリと神経を尖らせているだけだと思ったのだ。
だが、違った。去り際にアンディが見たアレックスの横顔は、単なる警戒ではない、何か巨大な「計画」を前にした張り詰めた緊張感を孕んでいた。
不審に思ったアンディの視線が、アレックスの視線の先――調理場へと向けられる。
そして、彼もまた目撃してしまった。
給食用の大鍋の陰で、静かに食器を洗うモルフィの、手枷の外れた両腕を。
食堂を支配するカイザーのプレッシャーの中、アンディの背中に冷たい汗がどっと 吹き出した。
「はいはい、そこまで。静粛に」
パチパチと、退屈そうに手を叩く音が食堂に響き渡った。
声を放ったのはカイザーだ。その場の空気を一瞬で凍りつかせる、絶対的な捕食者の声音だった。
「さて。昨日、貴様らはよくもまあ、俺たちの貴重な睡眠時間を奪ってくれたな。
……でだ、これほどの大規模な暴動だ、当然『首謀者』がいるはずなんだよ。
この薄汚い監獄のな。一体誰だ?
亡き看守長ガナンを殴り倒し、マスターキーを奪い、あんな派手な騒動を裏で仕組んだ不届き者は?」
広大な食堂は、水を打ったように静まり返った。囚人たちは呼吸の音さえ殺し、ただ床を見つめている。
「まあ、俺たちが鎮圧のどさくさで間違って殺しちまった可能性も脱獄した可能性もゼロじゃねぇ……がどうにもおかしいんだよな。
これだけの騒ぎを起こしておきながら、何も証拠がでない」
依然として、誰も口を開かない。沈黙だけが重くのしかかる。
「まあ、俺たちが乗り込んできて首をはねられるよりは、まだ生きていたほうがマシなんだろうな。
命あっての物種さ。否定はしない。
だがな、殺された看守どもの死亡推定時刻と、お前らが暴動を起こした時刻が、どうしても数時間ほど一致しねぇんだ。
おまけに看守長は、看守室のクローゼットへ死体となって丁寧に閉じ込められていたしな。
偽装工作だ」
カイザーの細められた瞳に、冷酷な光が宿る。
「……まあ、いいさ。黙りたければ黙っていろ。
明日には王宮から『教会の人間』がここに到着する。
そいつの異能は便利でな、過去の光景をそのまま視ることができるらしい。
そいつが到着すれば、隠し事などすべて無意味、一瞬で真実が白日の下に晒されるわけだ。
――今ここで自首すれば、少なくとも命だけは何とかしてやるが?」
囚人たちの間に、目に見えない動揺と絶望が走る。
明日になれば、すべてが発覚する。
カイザーは再び、パンと軽快に手を叩いた。
「まあ、いいか。明日になれば嫌でもすぐわかることだ。あーあ、腹が減ったな。飯にするか」
その言葉を合図に、看守たちの張り詰めていた殺気が僅かに緩み、食堂にようやく泥のような喧騒が戻ってきた。
しかし、それは安堵ではなく、処刑を待つ者たちの焦燥の音だった。
(……やはり、俺の読みは正しかった)
食器を洗うふりをしながら、モルフィは心臓の鼓動を鋭く刻みつけた。
猶予は、明日の朝まで。
仕掛けるなら、今夜しかない。
今日この夜を逃せば、明日には教会の術式によって、ガナンを殺したことも、手枷の破壊も、すべてがカイザーに知れ渡り、確実な死が訪れる。
モルフィは手首の焼け焦げた生々しい傷跡を、調理場にあった汚れた包帯で厳重に隠した。
そして、鋭すぎるカイザーの視界の端に決して入らぬよう、一介の怯える囚人を完璧に装いながら、ゆっくりと、細心の注意を払って自分の席へと着いた。
周囲の看守たちの目を欺き通し、配給を終えたモルフィは、ひとまずは大人しく元の一般房へと戻ることに成功した。
閉ざされた鉄格子の向こう、脱獄の決行を告げる夕方が、静かに始まろうとしていた。




