35.腐食
モルフィは集まった悪魔付きの囚人たちに視線で合図を送り、最も看守の死角となり、かつ轟々と音が鳴り響く「火を扱う場所」へと作業位置を移した。
この監獄の厨房に引かれているのは、地中深くの配管から供給されるガス火だった。
当然ながら、燃料源であるガスボンベ自体は分厚い石壁と鉄格子の奥に埋め込まれており、囚人が容易に取り出せないよう厳重に遮蔽されている。
だが、モルフィが欲したのはガスそのものではなく、その「猛烈な熱」だった。
彼は調理用の粗塩を、自身の両手首を縛る特級魔導手枷へと執拗に擦り込み、青白いガス火の渦へと躊躇なく突っ込んだ。
モルフィは知る由もなかったが、金属の「腐食」――専門的には『高温塩害』や『高温腐食』と呼ばれる化学現象だ。
塩分が付着した金属が高温に晒されると、酸化被膜が破壊され、爆発的な速度で結晶構造が崩壊し、鉄をボロボロに溶かしていく。
バロミロのかつての脱獄の歴史を聞いていたのでもしかしたらと思ったのだ。
(よし……これなら、いける……!!)
手枷の表面から赤黒い錆の粉が吹き出し、火花が散る。
手応えを感じたモルフィの耳に、低く冷ややかな声が届いた。
「無駄だ」
声の主は、共に集められた悪魔付きの一人、アレックスだった。
以前、大暴動の首謀者として暴れていたカルテラとは違い、彼の肉体には一切の無駄な脂肪がない。
岩盤を削り出したかのような、鋼の筋肉の塊が服の上からでも容易に判る屈強な男だ。
「……どういう意味だ?」
モルフィは火床から目を離さずに問い返す。
「やればわかる」
アレックスは腕を組んだまま、静かにその顛末を見つめていた。
ガスの高熱に炙られ、確かに手枷の表面を覆っていた鉄の層は脆くなり、一部分だけを叩き割ることに成功した。
しかし、そこから先――モルフィの剥き出しの肌と接している最も肝心な内側の金属層が、どれだけ熱を加えても全く溶ける気配を見せないのだ。
「……なぜだ? どうして溶けない?」
「鉄と銀は本来、容易には混ざり合わない」
アレックスが、手枷の構造を解説するように淡々と告げる。
「だが、純銀のままでは金属として柔らかすぎる。
だから銅を絶妙な比率で混ぜ、さらにこの手枷は、内側の魔導銀の周囲を『鉄』で強固にコーティングしてあるんだ。
お前が今溶かしたのは、外側のガワだけさ。
さらに王宮の忌々しい術式による加護も入っている。
火あぶり程度じゃ、その芯までは壊れない」
「……くっそ!!」
モルフィは思わず激しい悪態をついた。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。
少なくとも、塩を混ぜ込んで炙ったことで、外枠の鉄部分だけは完全に炭化して強度が落ちている。
ならば、あとは覚悟を決めるしかなかった。
モルフィは厨房の片隅から、スライスした生のジャガイモやニンジンを掻き集めた。
それを己の手首の周りへ、新たな肉層を作るかのように隙間なく巻き付け、調理用の紐でぐるぐると縛り上げる。
そして、その野菜の防壁ごと、再び手枷をガスの烈火へと突き入れた。
確固たる理論があったわけではない。
ただ野生の直感として、植物の水分で手の肉が焼け落ちるダメージを、僅かでも減らせるのではないかと考えたのだ。
「……おい、お前! 一体何を考えている!!」
それまで冷静だったアレックスの顔が、初めて驚愕に歪んだ。
自殺志願者としか思えないその狂気の行動に、屈強な男が気圧される。
だが、モルフィの脳裏には、あのバロミロが遺した言葉が鮮明に焼き付いていた。
――最悪、手錠から自由に成りたければ腕を切り落とせ。
「手首の皮の一枚や二枚、燃えるくらいが丁度いいだろ……!」
モルフィが歯を食いしばると同時に、野菜の隙間から溢れた脂と熱が伝い、彼の生身の手へと火が燃え移った。
激しい肉の焼ける臭いが立ち込める。
「くっそ……ッ!! アッチぃな、おい……!!」
「モルフィ!」
背後で待機していたバーネットが、絶妙なタイミングで冷水の入ったバケツを差し出した。
モルフィがそこに両手を突っ込むと、ジュウ……という凄まじい水蒸気とともに激しい炎が鎮火される。
急激な加熱と冷却の熱ショック、そして鉄層の崩壊により、内側の魔導銀の結合が確実に「脆くなった」確かな感触が、モルフィの感覚に伝わってきた。
「……もう一回だ!!」
皮膚が焼け焦げる激痛を精神力でねじ伏せ、モルフィは再び火床へ手を突き込み、そして引き抜くと同時に、残ったすべての筋力を両腕に込めて、手枷を力任せに引き裂いた。
金属が悲鳴を上げて弾け飛び、火花と共に床へ転がる。
すぐさま地面に這いつくばり、看守から手錠が取れたことを察せられないようにしゃがんだが、そもそも看守は音にすら気づいていなかった。
「よし……!!」
モルフィは、赤く焼け爛れた自身の両手首をプラプラと振った。
骨と肉を苛んでいたあの忌々しい魔力の残滓が消え去り、数か月ぶりに内なる異能が完全に自由になる感覚が、彼の全身を駆け巡る。
そして頭にとんでもない量の悪魔の情報が流れ込んでくる。
「ぐっ……はぁ……はぁ……」
そこから大声をあげて喋らないことに最も苦労した。
激痛に顔を歪めながらも、モルフィの瞳には冷徹な勝利の光が宿っていた。
「少し予定より早いが……ここから一気に準備を始める。
3人とも、手を貸してくれ」
「あの……?」
「なんだ?」
看守に声をかけたのは、モルフィたちの一連の狂行を、影からじっと盗み見ていたもう一人の悪魔付き――フェルナンだった。
細められた両眸には常に陰鬱な粘り気がまとわりついており、先ほど鋼の肉体を見せつけたアレックスとは、あらゆる意味で対照的な男だ。
おそらくモルフィよりも年齢は下だ。
「使徒様もおそらく、こちらの料理を召し上がられるのですよね?
であれば……配膳の前に一度、味見をして頂けないでしょうか」
「あ? ここにいた看守は、そんな仕事まで担当していたのか?」
異動してきたばかりで、この区画の勝手をまだ把握していない看守が眉をひそめる。
フェルナンは怯えるような卑屈な笑みを浮かべながら、巧みに言葉を重ねた。
「はい……使徒様のお体に万が一があっては、それこそ私どもの首が飛びます。
看守様の毒見を経てからでなければ、料理を外へ回せない仕組みになっているのです」
看守の脳裏に、第一使徒カイザーの冷酷な顔がよぎった。
もし自分が手順を怠り、使徒の機嫌を損ねればどうなるか。
その恐怖が、フェルナンのもっともらしい嘘を素直に受け入れさせた。
「……なるほどな。使徒様が本当にお前らの作るような泥水を口にされるかは怪しいが、万が一ということもある。
まあいい、味見程度なら付き合ってやる」
看守はフェルナンから差し出された木匙を受け取り、煮えくり返るシチューを口に運んだ。
――味は、至って普通だった。
これといった違和感もない。
「……ふん、まあ問題ないだろう。これで完成か?」
「はい。完璧な仕上がりです」
フェルナンは深く頭を下げた。
その細い目の奥で、どのような悪魔の智慧が蠢いているか、看守が気づくはずもなかった。
「わかった。ならば速やかに食堂へ運べ」
給食の鐘が鳴り響き、大鍋が食堂へと運び込まれる。
囚人たちにシチューが配られていくが、食堂の空気はいつも以上に重く、張り詰めていた。
なぜか、その時間帯に限って配置されている看守の数が異常に多かったのだ。
誰もが殺気立ち、囚人たちの動向を凝視している。
(……気づかれているのか?)
モルフィは手首の焼け焦げた激痛を押し殺し、食堂の隅で食器を洗うふりをしながら、周囲を鋭く見渡した。
新しく手に入れた「悪魔の情報」が、脳を内側から焼き焦がすように疼いている。
それに傷の治りがいくら早いからって手首に一度火が燃え移ったほどの火傷をすぐに治せるわけがない。
ずっと冷やしていた。
看守たちの警戒網のその中心。
すべての囚人が本能的な恐怖から視線を逸らす特等席に、男は座っていた。
第一使徒、カイザー。
自分のことを悪魔付きだと知っている存在がここになぜかいた。




