33.邂逅
「こんな隔離房に、ポツンと囚人が一人か。
……一体全体、何をやっているんだお前は、こんなところで?」
カイザーの低く傲慢な声が、薬品臭の立ち込める室内に重く響く。
しかし、鉄格子の奥に横たわる男は身じろぎ一つせず、うつ伏せに死んだように静まり返っていた。
完全に無視されたと判断したカイザーは、端整な顔を不機嫌そうに歪めると、頑強な軍靴の先で鉄格子をガンガンと激しく蹴りつけた。鉄と鉄が激突する耳を劈く金属音が、狭い医務室の壁に反響して炸裂する。
「ッ……!?」
その瞬間、モルフィはわざとらしく身体を大きく跳ね上げ、恐怖に怯えるようにしてカイザーの方へと視線を向けた。
濁った瞳に困惑と弱者の色彩を巧みに浮かべ、完璧な「無力な囚人」を演じながら。
「おはよう、寝坊助くん。
いい身分だな、外があれだけ血の海のどんちゃん騒ぎだったってのに、ここで高みの見物とはね」
「……」
モルフィは答えず、ただ怯えを装った無言のまま、ゆっくりと上体を起こしてカイザーと向き直った。
極めて慎重に呼吸をコントロールし、警戒心の強い一囚人としての声を喉の奥から絞り出す。
「……何の、用ですか」
「何の用も何も、なんで君みたいな一般の雑魚囚人が、こんな特別な場所に丁重に隔離されているのかな、と思ってね」
「……怪我の手当です。それと、ここに閉じ込められました」
「誰に?」
「ガナン看守長です。ここで、餓死しろ、と」
カイザーは鋭い眼光のまま顎をさすり、黙ってその言葉を値踏みするように聞いていた。
確かに、ドアの外側に施されていたあの執念深い閂の細工を思えば、辻褄は合う。
だが、目の前の男が放つ、どこか不自然なほどに凪いだ気配に、使徒としての直感が僅かな引っかかりを覚えていた。
しかし、今のカイザーにとってそれ以上の追及はただの面倒事でしかなかった。
「で……その大層な傷はもう治ったのか?」
「……まだです。骨が、ズレている」
モルフィは、木の板と薄汚れた包帯で大雑把に固定された己の右腕を静かに差し出してみせた。
「なるほどな。ま、俺様が直々に怪我人の囚人を護送するなんていう、柄にもねえ真似は御免だ。
上からも、残務処理と輸送は兵隊に任せろって言われてるんでね。
他から看守の生き残りを呼んでくるから、大人しくそこで待ってな。
――おい、バーネットのじいさんもだ。余計な真似すんじゃねえぞ」
カイザーはそう言い捨てると、腰のホルダーから取り出した予備の手錠で、バーネットの片手首を鉄格子へと無造作に繋ぎ止めた。
伝説の宝石強盗を臨時の枷で縛り付けたことに満足すると、踵を返して足早に部屋を出て行った。
バタン、と重い鉄扉が閉まり、医務室に再び冷徹な静寂が戻る。
鉄格子に繋がれた老宝石強盗、ダイアン・バーネットは、カイザーの足音が完全に遠のいたのを確認してから、じっと目の前の青年を見つめた。
その濁りのない、すべてを諦観したような冷たい瞳の奥を見透かそうとする。
「お前さんだろ? 昨日の、あの大脱獄を裏で糸を引いて計画した首謀者は」
バーネットの低く、掠れた声が、室内の澱んだ空気を微かに震わせた。
「名前はモルフィだったな。
既に生き残った囚人たちの間では、今やちょっとした英雄扱いだぞ」
「結果的にそうなっただけだ」
モルフィは表情一つ変えず、淡々と応じる。
その声からは、先ほどまでカイザーに見せていた怯えの片鱗すら消え失せていた。
「……なぜ、あの完璧な混乱に乗じて逃げなかった?
お前ほどの男なら、いくらでもこの島を抜け出す隙はあったはずだ」
「バロミロに言われた。この島に残る、俺と同じ手錠をした人間と会え、と」
「同じ手錠……」
バーネットは、自身の両手首で溢れ出る異能を抑え込んでいる、鈍色に光る特級魔導手枷に目を落とした。
先ほどは布団に隠れていて見えなかった。
「……お前も、悪魔付きなのか。
しかも、これほどまでに若いというのに。
――待て、お前とバロミロは一体どういう関係だ?」
「継承者らしい」
「……お前が!?」
バーネットは思わず絶句した。あの孤高にして最古参の悪魔付き、王宮すらも警戒するバロミロが、これほど若く、名もなき男を己の後継者に選んだという事実。
驚愕に目を見開く老盗賊を前に、モルフィは感情の起伏なく言葉を継いだ。
「そうらしい。奴から何かを受け取るための、あの暴動だった。
当初は逃げる予定だったんだがな。
結果としてすべてを受け取ったらしいが……自分ではあまり変わった感じはしない」
「悪魔の代償は? よほど奴に気に入られたんだ、何かあるはずだろ。
あの老人ですら、自身の肉体を削る相応の地獄を背負っているというのに、お前は何を失った?」
「聞いた話では、俺の『悪魔』には代償がないらしい」
「……代償がない、だと?」
バーネットは乾いた笑い声を漏らした。その笑みには、底知れぬ哀愁と、不公平な世界への怨嗟が混じり合っている。
「俺はバロミロしか他の悪魔付きを見たことがない。あんたは、どんな代償を払ったんだ?」
「家族だ」
バーネットは、一切の躊躇なく言い切った。
「家族と、一族の命すべてを奴に喰わせた。それが私の異能の代償だ。
とにかく金を稼ぎ、世界中の富を築けば、教会の奇跡で死者の復活すら可能ではないかと信じたのだがね……結局、そんなものは都合のいい幻想だった。
教会の上層部に、金を集めさせるためにそう唆されただけだったのだよ」
「死者は蘇らない」
「あぁ。そのぐらい、今では分かっているさ。
それでも……あの時の私は、何かを信じていなければ、絶望で狂うことすらできなかったのだよ」
重く、血を吐き出すような声音で、老人としての本音を漏らす。
そして、バーネットは一瞬で鋭い怪盗の目付きに戻り、眼前の青年を睨み据えた。
「で、そんな神にすら見放されたお前が、老い先短い私に一体何を聞きたい?」
「戦い方と、この手錠の外し方だ」
単純明快すぎる、しかしあまりにも不遜なその要求に、バーネットは思わず目を見張った。
「……お前さん、正気か?
ワシは目の前であれだけの理不尽を見た。
正直不可能だ。
それでもまたこの監獄島から脱獄するつもりなのかい?」
「そうだ」
「昨夜以上の好機など、もう二度と訪れんぞ。
それに使徒が三名も駐留している今の最悪な状況だ。
お前があの暴動の扇動者だと気づかれるのも時間の問題だぞ」
「ガナン看守長は俺が殺した。だから、また障害があれば排除して、やり直せばいいだけだ」
「ガナンを、お前が……。よくもまあ、使徒の目と鼻の先でその牙を隠し通せたものだ……」
バーネットは驚嘆を禁じ得なかった。だが、目の前の若者が宿す確信の強さに、一抹の疑問を抱く。
「だが、この手錠さえ外せば、どんな相手にも勝てるだと?
相手は王宮の最高戦力、使徒だぞ。
お前の悪魔がそれほどまでに強大だとは、失礼ながら思えんがね」
バーネットは鉄格子の隙間から皺だらけの手を伸ばし、確かめるようにモルフィの肩へと軽く触れた。
その瞬間――バーネットの脳内に、おぞましい「幻覚」が直接流れ込んできた。
視界が一瞬にして底なしの闇に染まり、モルフィの背後から、部屋全体を、いや監獄そのものを埋め尽くさんばかりの、巨大で禍々しい『蛾』の輪郭が浮かび上がる。
その翅に刻まれた不気味な紋様が脈打ち、数多の複眼が、冷酷に、そして貪欲にバーネットを凝視していた。それは生物としての圧倒的な格の違いを本能に叩き込んでくる、紛れもない最上位の捕食者の気配だった。
バロミロから全てを受け継いだその器の深淵が、今まさに老人の精神を圧殺しかけていた。
「っ……、あ、う……!!」
バーネットは過呼吸を起こしたように息を呑み、弾かれたようにモルフィの肩から手を離した。
額から滝のような冷たい汗が伝い落ち、全身がガタガタと震える。
「……前言を、完全に撤回しよう。お前は、十分すぎるほどの化け物だ」
荒くなった呼吸を必死に整えながら、老盗賊は恐怖を塗りつぶすように不敵に笑った。
「いいだろう、気に入った。他の『悪魔付き』の連中も、後で私から紹介してやる。
それでもあのカイザーとかいう使徒には勝てん。
まずは一般房に移されてから、奴らの目を盗んで、ゆっくりと次の作戦を練ろうじゃないか」
二人の間で冷徹な密約が交わされた直後、廊下から複数の騒がしい足音と、金属鎧が擦れ合う音が近づいてきた。
カイザーが看守たちを連れて戻ってきたのだ。
モルフィは一瞬にして元の「哀れで無力な囚人」の表情へと戻り、深く息を潜めた。




