30.第1使徒、第2使徒、第3使徒
「――……来た!! 来たぞバロミロ、本当に来やがった!!」
鉄格子の隙間から遥か夜海を凝視していたモルフィが、張り詰めた声を上げた。
夕闇が完全に終わりを告げ、漆黒に染まった水平線の向こうから、松明の炎をかき消すような威圧感を放つ黒塗りの軍艦が、何隻もその不気味な魚影を現していた。
そしてその艦隊の先頭には、一際異様な魔導機関の重低音を響かせ、海面を滑るように爆走する超高速艇の姿があった。
「……あと少しだ! 意識を逸らすな、小僧!!」
バロミロは額に当てた手を決して離そうとはせず、鬼気迫る表情で叫んだ。
すでに直接触れ合ってから三時間は経過している。
脳髄を焼き尽くすような膨大な知識の濁流に、モルフィの意識はとっくに限界を迎えていたが、老人は己の命を削りながらも、なお残された魔力と知略をモルフィの奥深くへと注ぎ込み続けている。
その時だった。
モルフィの視線の先、全速力で島へと接近していた超高速艇の甲板から、何かが凄まじい勢いで上空へと飛び出した。
それは人間だった。
だが、重力を完全に無視したその影は、夜空に巨大な弧を描くと、そのまま島へと向かって、まるで漆黒の流星のごとき速度で垂直に突撃してきた。
ズドォォォォンッッ!!!
要塞全体を激しく揺るがす、雷でも落ちたかのような大爆音。
事実その場所からは炎が上がっていた。
直後、食堂の暴動など比較にならないほどの、地獄の底から響くような絶望的な悲鳴が、海岸線のほうから一斉に湧き上がった。
やってきたのだ。人間の規格を遥かに超えた、王宮の生ける天災――「使徒」が。
「おい、バロミロ!! もう限界だ、奴らがここに来る!!」
「黙れ! あと十秒だ! あと十秒だけ持ちこたえろ!!」
使徒の超感覚が、最深部にいる自分たちの存在をロックオンしないか、モルフィの背中を冷たい脂汗が伝う。
だが幸いにも、流星となって海岸の岩場に激突したあの使徒――身の丈ほどもある巨大な大剣を軽々と背負ったガサツな男は、今まさに即席の手作りの筏や泳ぎで海へと逃げ出そうとしていた囚人たちの群れを、面白半分に蹂躙することを優先しているようだった。
大剣が一振りされるたびに、肉塊と化した囚人たちの鮮血が、夜の海を赤く染め上げていく。
「――終わったぞッ!!
早く行け、衣服を着替えて、何事もなかったかのように元の隔離房へ戻るのだ!!」
バロミロの手が、ようやくモルフィの額から離れた。
その瞬間、老人は糸が切れた人形のように激しく床へと崩れ落ち、荒い息を吐いた。
「……次に繋げるって言葉、信じるからな……!」
モルフィは激しくズキズキと痛む頭を抱えながらも、バロミロの昏い瞳を真っ直ぐに見据えて言い放った。
目の前には、島全体がパニックに陥っているという、千載一遇の脱出のチャンスが転がっている。
しかしモルフィは、使徒という絶対的な絶望の前に、その機会をあえて自ら不意にすることを選んだ。
バロミロの知識が告げている。
ここで無謀に動けば、あの海岸の大剣の男に一瞬で両断される、と。
その判断は結局は正しかった。
モルフィは懐のマスターキーを包帯の中に深く隠し直すと、狂乱する受刑者たちの怒号を背に、闇に紛れて屋根を伝いながら己の檻へと、静かに、そして牙を研ぎ澄ましながら引き返していった。
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第1使徒カイザー・ラ・ミュッヘルンが漆黒の大剣をただ一振りするだけで、海岸線の夜気ごと、肉の壁が派手に吹き飛んだ。
それは「魔人」の領域に達した絶対的な武の顕現。
彼ら王宮の上位使徒は、悪魔付きを人為的に超えさせるために、伝説の生き物をその体内に宿した異端の怪物たちだった。
第1使徒に至っては【龍の血】を飲んだと言われている。
武器すら持たない、高々普通の犯罪者の群れが相手になるわけがなかった。
「ほらほらどうしたァァァ!!
暴動を起こした元気はどこへ行ったんだよォ!!」
狂ったように笑いながら大剣を薙ぐ。直撃せずとも、凄まじい闘気の余波だけで十数人の囚人がまとめて宙を舞い、岩肌に激突して昏倒していった。
やがて水平線から、本隊である王宮の軍艦が接岸する。
囚人たちは生き残るために船を奪おうと死に物狂いで群がるが、そこに降り立ったのは、使徒ではないとはいえ王宮でも選りすぐりの精鋭兵士たちだった。
烏合の衆に遅れを取るはずもなく、統率された動きで瞬く間に暴徒を制圧していく。
少しでも面倒な動きを見せる者がいれば、躊躇なくその場で命を奪っていた。
「おいおい! まったく、大脱走にも程があるでしょう……!
一体何をしていたのよ、ここの無能な看守どもは!!」
第2使徒エノワール・E・スタリオは、美貌の奥の瞳を不快げに細め、眼鏡のブリッジを深く押し上げながら吐き捨てた。
彼女が地面を軽く踏み抜くと、足元から鋭い氷結の波紋が広がり、殺到していた囚人たちの両脚を一瞬で凍りつかせ、その動きを完全に封殺する。
「看守の指揮系統は全滅していると見るべきだな。
死体が多すぎる」
その横で、特注の魔導二丁拳銃を無表情に連射しながら、第3使徒ソロー・E・スタリオが冷徹に告げた。
放たれた弾丸は正確に囚人たちの四肢を撃ち抜き、戦闘能力を奪っていく。
「それで、どうします? リーダー?」
「とりあえず、目の前のゴミどもを全員吹っ飛ばす!
お前らは気絶した奴らの回収を頼む。
……あァ、それと『悪魔付き』の枷を持った奴がいたら、俺に教えろ!」
それだけ言い放つと、カイザーは自身の渇きを癒すように、獲物を求めて自分勝手に監獄の奥へと突っ込んでいった。
「あ、ちょっと待ちなさいよ!! まだ作戦の確認が……!!
――もう!! あの脳筋自己中人間がぁぁ!!」
エノワールが怒髪天を突く勢いで叫ぶが、あの大剣の怪物がそう簡単に遅れを取るわけがないことは、誰よりも理解していた。
実力「だけ」は、使徒のなかでも随一の男なのだ。
自分たちは、退路である船の防衛と、この海岸線の面圧だけをこなせばそれでいい。
「もう!! 犯罪者の分際で、夜更かしせずにおとなしく寝てなさいよ!!」
エノワールは寝不足の怒りを魔力に変え、さらに深く冷気を練り上げた。
「――凍りつきなさい!!」
絶対零度の衝撃波が走り、瞬く間に海岸線全体が真っ白な氷の世界へと変貌した。
大気を凍らせるその圧倒的な魔力に、囚人たちは恐怖で硬直する。
「動くな!! ひとつでも不審な動きをしたら、容赦なく蜂の巣にするわよ!!」
軍艦の甲板に据え付けられた、巨大な魔導ガトリングガンの銃身が、不気味な高音を立てて高速回転を始める。
「ひっ……、ひぃぃ!!」
足元を凍らされ、絶望的な兵器を突きつけられた一人の囚人が、恐怖のあまり腰を抜かして尻もちをついた。
だが、その微小な動きすら、冷酷な鉄の規律は許さない。
ガガガガガガガガガガガガッッッ!!!
火花を散らして放たれた大口径の弾丸は、腰を抜かした男の胸を粉砕し、さらにその背後にいた男をも容易く貫通して肉塊へと変えた。
「動くなって言っているの!!! 耳が付いていないの!? 分かる!?」
「……姉さん、そんなにイライラしないで。照準がブレる」
ソローが淡々と火器の照準を調整しながら、狂気的な姉を宥める。
「イライラするわよ! 今が何時だと思っているの!?
まったく!! 眠くて眠くてありゃしないわよ!!」
ヒステリックに怒鳴り散らしながらも、エノワールは冷徹な手際で、数千人の囚人たちを凍った泥のように捕縛し、地獄の夜を支配し続けていた。




