3.使徒
「モルフィ! ずらかるぞ!! 奴らが来やがった!!」
仲間の一声が、喧騒の街に響く。
派手にやりすぎた――それは重々、自覚していた。
だが、自分たちが今後活動できるのに十分な資金は稼がせてもらった。
「残った荷台はすべて切り離せ! 粉はそこらへんの奴らにタダでくれてやれ! 逃げるぞ!!」
群がる暴徒を振り払うように馬車を捨て、モルフィたちは馬の腹を蹴った。
石畳を駆ける蹄の音が響く。
だが、その疾走する馬を凌駕する速度で、肉薄する影があった。
「――『使徒』か!」
漆黒の頭巾を翻し、レンガ造りの城塞都市の屋根から屋根へと、重力を無視した軽やかさで跳躍する影。
それこそが、神ではなく「悪魔」に愛され、超常の力を分け与えられた王国の最高戦力だった。
影が夜空を裂いて飛び降りる。
壁を爆音とともに蹴り破り、モルフィの真上から襲い掛かった。
風を切り裂き、鋭利なサーベルが袈裟懸けに振り下ろされる。
「ぐっ……!!」
凄まじい衝撃。落馬寸前の体勢になりながらも、モルフィは腰のダガーナイフを逆手に抜き、辛うじてその一撃を受け止めた。
火花が散り、金属音が鼓膜を刺す。
「モルフィ!!」
「構うな! お前らは先に行け!!」
部下に背後を任せ、モルフィは疾走する馬の上で、容赦なく襲い来る使徒と刃を交え、もみくちゃになった。
その際にモルフィの服が簡単に裂ける。
「……ほう、しぶとい。いい筋をしているな」
フードの奥から、使徒の男が低く、冷徹な声を漏らす。
「狙いは国への復讐か? それともただの私欲か」
その問いに、モルフィは血の混じった笑みを浮かべた。
「いや……俺が神になるためだ」
「……どこまでも愚かな、世迷言を」
使徒の男の全身から、漆黒の靄のような魔力が噴出する。
周囲の空気が一瞬で氷結したかのように重くなる。
「田舎生まれの虫ケラゆえ、悪魔の真の力を知らぬとみえる。
身の程を知り、大人しく屠られろ」
生身の人間であれば、その圧倒的な殺気だけで心臓が止まっていただろう。勝負にすらならない。
「――ああ、生身であれば、な」
モルフィが不敵に嗤った瞬間、その右肩の蝶の刺青が、まるで心臓のようにドクンと脈動した。
彼の肌から、妖しく輝く微細な鱗粉が、霧のように大気へと混じり合っていく。
「貴様……!! お前、まさかあの粉に混ぜたのは……!!」
「まあ、あんたが脳内で弾き出した答えは大体合っているよ。
あれは俺の血肉から削り出した、俺にしか作れない超オーダーメイドの一品さ」
モルフィは悪魔付きとしての血を覚醒させ、その身を解き放った。
背中に小さな蝶の羽が生える。
金属の擦れ合う甲高き音が連続する。
先ほどまで劣勢だったはずのモルフィが、使徒と全く同じ速度、いや、それを上回る変則的な軌道でナイフを突き出す。
「ヌ……ウ……ッ!?」
使徒の目が驚愕に見開かれた。
人間には不可能な、空中での急激な方向転換。
慣性を無視して翻り、宙を蹴って、弾丸のように突撃してくる。
「……『蝶』の魔人だと……!?」
「そんな綺麗な生き物と一緒にするなよ。
――こいつは、ただの毒虫さ」
鋭い一蹴が、使徒の胸元を捉えた。
凄まじい力で吹き飛ばされた使徒は、路地裏の屋台を木端微塵に破壊しながら、頭から突っ込んでいった。
「おの……れ……っ!!」
使徒が瓦礫を跳ね除け、即座に体勢を立て直したときには、もうモルフィの姿は夜霧の彼方へと消えていた。
「スターク隊長!? ご無事ですか!?」
駆けつけた衛兵たちの声が響く。
「……ああ。問題ない。気にするな」
逃げられた。使徒としてあってはならない、最悪の失態。
「奴を取り逃した。すぐに本部に報告を――」
言いかけたその瞬間、スタークの視界がぐにゃりと歪んだ。
上下左右の感覚が、まるで水の中に沈んだように狂っていく。
「スターク隊長……?」
部下の怪訝そうな声が、妙に遠く聞こえる。
(……馬鹿な! ほんの僅か、あの鱗粉に触れただけだぞ……!?)
ほんの一触れで、使徒である己の精神がこれほど侵食されるというのか。
だとするならば。だとするならば、あの粉を――。
「……体内で直接摂取し続けた、この国の国民どもは……!?」
スタークの全身に、戦慄という名の冷や汗が吹き出た。
彼が驚愕のまま見つめる視線の先では、モルフィが残していった白い粉の袋を巡り、獣のように互いの肉を貪り合いながら、狂喜乱舞する国民たちの地獄絵図が広がっていた。




