28.大量脱走
ガナン看守長が自室の重厚な革椅子に深く腰掛けたのは、厄介な火種をすべて処理し終えた直後のことだった。
邪魔な女医は闇に葬った。
これでようやく、いつもの平和で実りある監獄運営に戻ることができる。
ガナンがのんびりと煙草に火を付ける傍らでは、会計士のオズレットが、いつもと変わらぬ几帳面な手付きで黙々と裏帳簿に数字を書き込んでいた。
(囚人のクズどもが、全員こいつくらい優秀で従順なら、間引きなんて面倒な真似をせずとも済むんだがな……)
ガナンは先ほど地下室へ閉じ込めてきたソフィアの、あの涙ながらの正論を思い返し、鼻で笑った。
力の伴わない正義など、この現実の前には何の価値もない。
ならば、この島で絶対的な権力を持っている自分の言葉こそが、唯一の正しさだ。
ガナンは自らの完全勝利を確信し、ニヒルな薄笑いを浮かべた。
――己の背後に立ち塞がる、巨大な「悪魔の影」に気づくこともなく。
ドゴォッッ!!!
鈍い破壊音と共に、ガナンの後頭部に凄まじい衝撃が炸裂した。
モルフィが外壁を伝って窓から侵入し、全力で振り下ろした「建材用の赤レンガ」が、看守長の頭蓋を無残に粉砕したのだ。
ガナンは悲鳴を上げる暇すらなく、椅子から崩れ落ちて床に突っ伏した。
モルフィは冷酷な瞳のまま、痙攣するその頭部へ、念のためにともう一発、容赦なくレンガを叩きつけた。
ピクリとも動かなくなった肉体から、ドス黒い鮮血がじわりと絨毯へ染み込んでいく。
派手に血が飛び散ってしまった。
「……よし。オズレット、鍵を探せ!!」
息を荒くしながら、モルフィは包帯塗れの拳でガナンの懐を漁り始めた。
「わ……分かった……!」
あまりの急展開に血の気が引きながらも、オズレットは即座に脳を回転させた。
二人は手際よくガナンの巨体を引きずると、衣服を血で汚さぬよう注意しながら、部屋の大型クローゼットの奥深くへとその死体を押し込んだ。
ガナンの腰から奪い取った鍵の束を、モルフィの純銀の手枷の鍵穴へと片っ端から差し込んでいくオズレット。
だが、何本試そうとも、鍵は虚しく空回りするだけだった。
「……ダメだ! モルフィ、やっぱりこの手枷の鍵はない!
これは中央の王宮か教団の本部でしか管理されていないんだ……!
そもそも悪魔付きの異能者なんて、国家の最高機密として管理下に置かれるんだから、こんな辺境の監獄長が鍵を持ってるはずがない!」
「うるせぇ! 四の五の抜かすな、何かないのか……!?」
モルフィは苛立ちに任せてデスクの引き出しを乱暴に引き抜いたが、手枷を外せそうな道具は何一つ見つからない。
ザッ、ザッ、ザッ……。
その時、静まり返った廊下の向こうから、部屋に向かって近づいてくる看守の足音が聞こえた。
「――しまりがないぞ、隠れろモルフィ……!!」
オズレットが声を潜めて鋭く促す。
モルフィはすぐさま、先ほど看守長の死体を放り込んだクローゼットの中へと滑り込み、内側から静かに扉を閉ざした。
机の上には拭き取れていない血が数滴残っている。
部屋の空気は乱闘の余波で僅かに張り詰めていたが、机の前に戻ったオズレットは、何事もなかったかのようにペンを握り、平静を装った。
トントン、とドアがノックされ、鍵が開けられる。
「看守長、失礼します。退勤の確認が――」
入ってきたのは、夜間警備の主任看守だった。
しかし、部屋の主であるガナンの姿はない。
看守の鋭い視線が、部屋に残された唯一の人間であるオズレットへと向けられる。
「……看守長はどうされた?」
「ガナン看守長なら、先ほど地下の隔離エリアへソフィア女医に確認したいことがあるといって会いに行くと仰って部屋を出られましたが……?
廊下ですれ違いませんでしたか?」
オズレットは眼鏡の位置を直しながら、一寸の淀みもなく嘘を吐き出した。
「……いや、会わなかったが。そうか、地下か。
分かった。
おい、オズレット、お前の今日の業務はここまででいい。雑居房へ戻るぞ」
「分かりました」
オズレットは大人しく机から立ち上がると、差し出された手錠に自らの手首を委ね、看守に伴われて部屋を出て行った。
割れた窓ガラスと血痕に気づくことなく。
パタン、と扉が閉まり、室内にはクローゼットの中のモルフィと、その足元に転がる看守長の死体だけが残された。
「……どうする? チッ、どうする、俺……」
真っ暗なクローゼットの中で、モルフィの身体がガタガタと小刻みに震え始めた。
もし失敗すれば……俺はここで殺されるだろう。
手枷は外れない。外の世界への船もない。圧倒的な手詰まりのこの状況。
(手枷が外れないなら……船がないなら……この島ごと、すべてをひっくり返して狂わせればいい)
モルフィの唇が、暗闇の中で邪悪に吊り上がった。
この膨大な鍵の束があれば、できる。
この呪われた大地を、中央の連中すら震え上がるような、未曽有の混乱に陥れることが。
監獄島の深夜の見回りは、日中に比べて圧倒的に人数が少ない。
中央の目から隔絶されたこの地では、大半の看守が持ち場を離れてサボり、酒を飲んでいるのが常態化していた。
だからこそ、深夜の通路を巡回していたその看守は、目の前に現れた「地獄の光景」を、自分が眠気の中で見ている悪い夢だと錯覚してしまったのだろう。
暗闇の向こう、隔離檻の中にいたはずの凶悪犯たちが、武器を手にして平然と通路を闊歩していた。
ドゴッッ!!!
看守が声を上げるより早く、囚人の一人が放った鉄パイプがその脳天を強打した。
看守は白目を剥いて床へと崩れ落ちる。
ジリリリリリリリリリ――ッ!!!!
直後、要塞全体に、鼓膜を激しく劈く非常警報の大音響が鳴り響いた。
それは、この要塞が建造されて以来、数回しか鳴らされたことのない「脱走者発生」を告げる破滅の合図。
各屯所で就寝していた看守たちは、心地よい睡眠を妨害されたことに激しい不快感を覚えながらも、緊急事態のために嫌々ベッドから這い出した。
せいぜい数人の小悪党が檻を抜けたのだろうと、高を括りながら。
だが、彼らが武器を手にして廊下へ飛び出したとき、その油断は完全な絶望へと変わった。
通路を埋め尽くしていた「脱走者」の数。
それは――この監獄島に収監されている、囚人ほぼ全員だったからだ。
「おい、出ろ!! 暴れろッ!!」
モルフィはガナンから奪ったマスターキーを次々と鍵穴へと差し込み、大雑居房の重い鉄格子を容赦なく開放し続けていた。
扉が開くたび、中にいた飢えた獣たちが、発狂したような歓喜の咆哮を上げて通路へと雪崩れ込んでいく。
これで一体、何百人目だろうか。
マスターキーを握り締め、狂ったように回し続けたモルフィの指先は、すでに皮が剥け、激しい痛みに襲われていた。
それでも、解放された囚人たちの中から、倒した看守から別の鍵を奪い取る者が何人も現れたことで、解放の連鎖はモルフィの手を離れて勝手に加速し始めた。
「――あとは、お前らだけで勝手にやれ」
要塞の至る所で看守と囚人の血生臭い殺し合いが始まり、炎の手が上がっていく。
監獄島が完全な生き地獄へと変貌したのを見届けた所で、モルフィは狂乱する群衆の隙間に紛れ、その姿をそっと夕闇の奥へと消した。




