27.間引き
暗黒の密室のなか、モルフィは包帯の奥からソフィアに託された鍵の束を取り出した。
真鍮製のリングに繋がれた、鈍い銀光を放つ鍵は全部で四本。
当然、どれがどこの扉を開けるためのものか、説明など受けていない。
(だが、この医療房の隔離格子を開ける鍵が、この中に一本もないなんてオチはねぇはずだ)
モルフィは腫れ上がった拳の痛みに耐えながら、鉄格子の鍵穴へと一本ずつ、ガチャガチャと手探りで鍵を差し込んでいく。
運はまだ、俺を見捨てていなかった。
一発目に差し込んだ、最も小ぶりな鍵がカチリと小気味よい音を立てて奥まで噛み合った。
手首に力を込めると、重い金属製のリレーが外れる感触と共に、鉄格子がキィ……と錆びた悲鳴を上げて静かに開け放たれた。
モルフィは監獄島にぶち込まれて以来、初めて「他人の手」を借りず、自らの力だけで檻の向こう側へと足を踏み出すことができたのだ。
手首の手枷は未だ嵌められたままだが、暗闇の中で掴んだ確かな自由の感覚に、胸の奥の悪魔が小さく歓喜の音を鳴らした。
気配を殺し、防音扉のわずかな隙間から滑り出るようにして、隣室であるソフィア女医の診察室兼私室へと侵入する。
主を失った部屋は静まり返っていた。ガナンたちによって連れ去られたソフィアは、おそらく今頃別の区画に監禁されているのだろう。
モルフィはまず、自分が今出てきた医療房の入り口の扉へと向かった。
外側から頑強な金属製のかんぬきを下ろし、さらに念には念を入れるため、部屋にあった重い木製の椅子や棚の破片をドアノブに幾重にも引っかける。
これで、内側からも外側からも簡単には開放できない「偽りの密室」が完成した。
看守たちがモルフィの脱走に気づき、この扉を破壊して中を確かめるまで、確実に数時間のタイムラグを作ることができる。
少しでも情報を得るため、モルフィはソフィアの机の上へと視線を走らせた。
卓上に飾られていたのは、豪奢な銀の額縁に収められた数枚の家族写真だった。
中央の権力者たる、いかにも裕福そうな身なりの父親とのツーショット。
そして、その隣には、慈愛に満ちた優しそうな母親と共に、屈託のない純粋な笑顔を浮かべる幼いソフィアの姿があった。
あの女医が、なぜあそこまで頑なに「綺麗事」を信じ、モルフィを更生させられるなどという分不相応な妄想を抱けたのか、その理由が分かった気がした。
彼女は、愛され、守られ、濁った泥など一度も踏んだことのない世界で育ってきたのだ。自分とは、住む世界が違いすぎる。
モルフィは写真から興味を失って視線を逸らし、部屋の細い窓から外の様子を窺った。
ガラスの向こうを夕方過ぎ頃の島を周囲の人間が巡回していた。
それに鉄格子を外すのにも時間がかかりそうだ。
遅かれ早かれ、ソフィアを尋問しているガナンたちが、彼女の腰から「マスターキー」が紛失している事実に気づくはずだ。
鍵がモルフィの手に渡ったと察知されれば、この部屋に看守が雪崩れ込んでくる。
残された時間は、残りわずか。
であるならば――。
「なんであんたがこんなバカな真似をしたかわからないが……。
先に行かせてもらうぜ。
先にここを抜けた方が、勝ちだ」
モルフィは包帯の巻かれた手で窓のロックを静かに外すと、音もなく滑り出させ、オレンジ色に染まる監獄島の外壁へと、その身軽な肉体を滑り込ませた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「――一体、何の真似ですか、ガナン看守長!!」
背後から突き刺された刺股によって身動きを完全に奪われながらも、ソフィアは手首の手枷を激しく鳴らし、目の前に立つ男を鋭く睨みつけた。
「困るのですよ、先生。
このような世界の最果ての吹き溜まりで、中央のぬくぬくとした教科書通りの正論や人道主義を大声で語られてはね」
ガナンは上質な革手袋をはめ直しながら、心底退屈そうにため息をついた。
「……何を言っているの? 私は管理体制の杜撰さを指摘しているのよ!」
「この大陸のルールを教えて差し上げましょう。
囚人なんてものはな、放っておいても毎日いくらでもここに送られてくるのですよ。
つまり、奴らの肉体を維持するための国家予算も、それに応じて無限に降ってくる。
……ですが、この要塞の牢屋の数には物理的な限界がある。
数が溢れれば、当然『間引き』しなければならん。そのくらいはお分かりでしょう?」
ソフィアの顔から、急速に血の気が引いていく。
「まさか……そのために、意図的に囚人同士を争わせて殺し合わせていたというの……!?」
「犯罪者のクズどもを養う無駄な金を削り、新しく生まれる教団の子供たちにその資源を分け与える方が、よっぽど合理的で神聖な行為だと思いませんか?」
ガナンは歪んだ正義感をあざ笑うように肩をすくめた。
「……っ」
ソフィアは言葉を失った。
厳格な修道院で「命の尊さ」だけを教え込まれてきた彼女にとって、ガナンの提示した言葉は、反論の余地のないこの監獄の『真実』だった。
この大陸では、成人の十人に一人が大罪人としてこの島へ連行されてくる。
その一人ひとりの更生にいちいち付き合っていれば、監獄の財政など一日と持たずに破綻するのだ。
だからこそ、適当な理由をつけて私刑に処し、看守たちの憂さ晴らしの玩具として消費する。
それでいて、書類上は「これだけの人数を収監している」と偽って膨大な予算申請を出し続ければ、差額の裏金はすべてガナンたちの懐に入る。
数字の上だけで全員を完璧に管理しているように見せかければ、中央の王族や貴族が好き好んでこんな生臭い僻地へ視察に来るわけがないのだ。
あのモルフィとかいうガキだって、本来なら先日の食堂の暴動の際に、合法的に肉塊に変えて処理できているはずだった。
カルテラに包丁を握らせて嗾し掛けたのは確かにガナンだったが、この女医が余計な正義感でしゃしゃり出てきたせいで、すべてが台無しになったのだ。
「……貴方は、人間の皮を被った最低のクズね」
「何とでもお言いなさい。
高貴なるソフィア先生、貴女にはここで、誰にも知られず大人しく死んでもらいます」
「……私の父親が、黙っているはずがないわ。市長の権力を侮らないことね」
ソフィアは震える声で最後の威嚇を放ったが、ガナンは冷酷に口元を釣り上げた。
「死体さえ見つからなければ、教団の法をもってしても立証は不可能です。
……潮の流れが早いこの海なら、重りを付ければ一日で海の藻屑になるでしょう」
ガナンは冷たく言い放つと、一瞥もくれずに踵を返した。
「では、さらばだ。哀れな、世間知らずの修道女」
ガチャン、と重苦しい鉄扉が閉ざされ、錠前が下りる。
ソフィアは、わずか数十秒の間に、光も音も届かない完全な失意の闇へと閉じ込められた。
(囚人たちは……あの子たちは、ずっとこんな非人道的な扱いを受け続けていたのね……)
地獄の底に突き落とされて初めて、ソフィアは己の無知と、監獄島というシステムの本当の悍ましさに気づかされた。
遅すぎる覚醒だった。
しかし、闇の中で膝を抱える彼女の胸の奥には、消えかけの灯火のような、細い希望が残っていた。
最後に自らの意思で犯した最大の規則違反――モルフィに手渡した、あの四本のマスターキー。
あれは決して無駄にはならないはずだ。
あの子なら、あの底知れない瞳をした少年なら、きっとこの檻を破り、私を助けに来てくれる。
ソフィアはただそれだけを、心の拠り所として祈るように願うしかなかった。
だが、そんな話はソフィアの予想を遥か違う形で裏切られることになる。




