26.拘束
「一体、何をやっているのですか!!」
白衣の裾を激しく翻し、ソフィア女医は集められた看守たちを執務室の壁際に一列に並べ、烈火のごとく怒鳴り散らしていた。
普段は傲慢なほどに不遜な看守たちが、今は一様に脱帽し、床を見つめて沈黙している。
その最前列には、額に青筋を浮かべながらも必死に耐えているガナン看守長の姿もあった。
「囚人同士の私闘であれば、この地の劣悪な環境ゆえ最悪のケースとして看過もしましょう。
ですが、なぜ管理区域にあるはずの巨大な牛刀が、一囚人の手に渡って食堂へ持ち込まれているのですか!
これでは正当防衛の範疇すら超えているわ!」
看守たちは一言も発さず、ただ石像のように固まっている。
「管理が杜撰、いいえ、あまりにも致命的な怠慢としか言いようがありません!
刃物類の出納は看守の厳重な立ち会いのもとで行うと、本部のマニュアルに明記されているはずです!
ともかく、この収監体制の崩壊と不正の疑いについては、今すぐ中央の父へ、そして教団本部へ正式に告発・報告しますからね!」
ソフィアはそれだけを言い捨てると、ヒールの音を荒々しく響かせ、執務室の重い鉄扉を壊れんばかりの勢いで叩きつけて立ち去った。
室内を、凍りつくような沈黙が支配する。
やがて、一人の部下が恐る恐る顔を上げた。
「……看守長。あの市長の娘、本気です。
このまま泳がせれば、俺たちの裏帳簿も横領も、すべて中央に露呈します。
どうしますか?」
「……チッ、仕方のない女だ。これ以上、あの温室育ちの聖女に振り回されてたまるか。
あまり手荒な真似はしたくはなかったがな……」
ガナンは濁った瞳に冷酷な決意を宿し、静かに顎をしゃくった。
「お前たち、得物を持て。――ネズミ一匹、この要塞から出すな」
「……ここは、どこだ?」
視界に飛び込んできたのは、見覚えのない清潔な天井だった。
モルフィは硬い医療ベッドの上に仰向けに寝かされ、革製の拘束具で完全に四肢を固定されていた。
全身を襲う凄絶な疲労感と鈍痛のせいで、そもそも指一本動かす気にもなれない。
視線を幽かに横へ巡らせると、強固な鉄格子がベッドの周囲を囲んでいるのが見えた。
医療室の奥に造られた、隔離用の監獄房だ。
実によく用心されている。
食堂での乱闘のあと、自分がどうやってここまで運ばれたのか、記憶が酷く曖昧だった。
(まぁいい……。何にせよ、まずはここから出るとするか)
モルフィは深く息を吸い、身体の状況を確かめた。
両腕は肉が千切れかけた拳を守るように、指先から肘まで包帯がぐるぐると分厚く巻き付けられている。
これだけ硬く巻かれていれば、殴打の際の打撃武器としても使えそうだった。
強引に身をよじり、拘束具を無視して腕を引き抜く。
衣服が擦れる不快な音と共に包帯の端を剥ぎ取ると、露出した拳にはすでにドス黒く分厚い瘡蓋が形成されていた。
骨が突き出ていたはずの指は、まだ酷く腫れ上がって鈍く痛むものの、実戦の動作には問題ないレベルまで回復している。
悪魔の超回復の速度は、日に日に異常さを増していた。
しかし、腕をベッドのフレームに繋いでいる固定具の金属製ロックがなかなか外れない。
モルフィは獰猛に目を細めると、固定されたままの右腕を、ベッドのすぐ横にある鉄格子へ向かって力任せに叩きつけた。
ゴーン……ッ!!!
重苦しい金属音が、静かな医療室の廊下へ妙に高く響き渡った。
「――何の音かしら?」
その音に反応したかのように、廊下からガチャリと鍵が開く音がして、白衣を纏ったソフィアが足早に入ってきた。
「あら、モルフィ君。意識が戻ったのね。……って、あなた、大丈夫なの!?」
「ああ。ピンピンしてる。ここからもう出してくれ」
「駄目よ、動かないで! あなたの拳は骨が露出するほどの重傷だったのよ? もう少し身体を休めておかないと――」
ソフィアの言葉が途中で凍りついた。
彼女の視線は、モルフィが乱暴に引きちぎった包帯の隙間、すでに完治しかけている手の甲へと釘付けになっていた。
明らかに、人間の傷の治り方ではない。異常という他なかった。
(この少年は……一体、何者なの……?)
ソフィアは本能的な恐怖を覚え、一歩後退りする。
「ほら、言ったろ。大丈夫だ」
「……え、ええ、そうね。それより、あなたにどうしても確かめたいことがあったの」
ソフィアは動揺を隠すように、手元の一冊の新聞紙を鉄格子の隙間から突き付けた。
そこには、モルフィが大陸全土を魔薬で汚染した張本人であるという、あの呪われた告発記事が載っていた。
「その記事なら間違いねぇよ。俺がやったことだ」
モルフィは退屈そうに鼻で笑う。
「そんなことは、あなたの裏の経歴を見れば分かっているわ。
私が聞きたいのはそこじゃないの。問題は、この記事よ。
本来ならここでは囚人に新聞を渡すことはしない決まりなの。
外のことを気にしてしまうから。
厳重に秘匿されているはずの過去の新聞を、一体誰が囚人たちの間に流したのか、何か心当たりはある?」
ソフィアの真っ直ぐな瞳を見つめ、モルフィは短く吐き捨てた。
「どうせ看守だ」
「……看守って、そんな雑な言い方をされても困るわ。
具体的に誰なのか、名前は分からないの?」
「全員」
「え……?」
ソフィアはその場に立ち尽くし、我が耳を疑った。
この監獄島に赴任して以来、数々の不祥事と不条理と闇を目撃してきたつもりだったが、今受けた衝撃はそのどれよりも強烈だった。
看守長だけでなく、この要塞の治安を維持している看守という組織そのものが、一人の囚人を私刑にするために結託し、根腐れを起こしている。
「この場所は腐っているッ!!」
ソフィアは激しい怒りと不快感から下唇を強く噛み締めると、壁際に設置されていた、外部へと直通しているはずの黒い固定電話の受話器をひったくった。
ダイヤルを回す先は、自らの父親である市長のオフィスだ。
この腐りきった地獄の現状を、今すぐ告発しなければならない。
「えっ!?なんて!?……どうして繋がらないの!?」
何度も受話器を耳に押し当て、ソフィアは顔を青ざめさせた。どういうわけか、ダイヤル音すら聞こえない。
「どうして……? 一昨日までは普通に通話できていたのに……」
ガチャガチャ、ジャラリ……。
その時、廊下の奥から、複数のブーツの足音と、金属製の武器が擦れ合う不穏な音が近づいてくるのが聞こえた。
本能が、最悪の危機を察知させる。
ソフィアは思い詰めたような悲痛な表情を浮かべると、腰のベルトから、自分が管理している医療エリアおよびこの隔離房の「マスターキー」を素早く外して鉄格子の奥のモルフィへと放り投げた。
なぜそうしたのかはわからない。
でもそうするべきだとソフィアはなぜかそう考えた。
「それを持って、隠れなさい……!」
モルフィは無言でその鍵をキャッチすると、引きちぎりかけていた包帯の奥深くへと瞬時に押し込み、何事もなかったかのように再び腕に包帯を巻き直すフリをした。
直後、扉が乱暴に蹴り開けられ、銃や刺股で完全武装した看守たちが雪崩れ込んできた。
「ソフィア先生。少々手荒になりますが、安全のため、ここで身柄を拘束させてもらいます」
「……ガナン看守長、一体何の真似ですか!? 私は市長の娘よ!」
「何、ちょっとした『話し合い』が必要になりましてね。お嬢様」
ガナンの冷酷な合図と共に、数人の看守たちが容赦なく刺股をソフィアの細い身体に押し付け、壁際へと完全に圧着した。
「くっ……、離しなさい……っ!」
抵抗も虚しく、ソフィアの両手首には無骨な手錠が嵌められ、そのまま悲鳴を上げながら廊下の奥へと引きずり回されるように連れ去られていった。
静まり返った監獄房の前で、ガナン看守長がゆっくりとモルフィの方を振り向いた。
その瞳には、もはや隠そうともしないドス黒い殺意が満ちている。
「……またお前か、クソガキが。
あの食堂の暴動で、おとなしくアリババの連中に肉を削ぎ落とされて死んでいれば、誰も苦労しなかったものを」
ガナンは鉄格子の前に歩み寄ると、これ以上ないほど嫌みたらしく、醜悪な笑みを浮かべた。
「お前には、あの生意気な女医ともども、最高にお似合いの死を与えてやる」
ガナンはそう吐き捨てると、格子戸を二重に施錠し、外側の分厚い防音扉を勢いよく閉ざした。
「――餓死だ。お前を二度とここから出さん。
俺の立場を散々振り回し、脅かしてくれた報いだ。
そこで干からびて死ね」
ガチャン、ガチャン、と外側から幾重もの重い錠前が下ろされ、最後に巨大な金属製のかんぬきが嵌められる鈍い音が、絶望的な静寂となってモルフィの耳に届いた。
ドアは塞がれているものの、鉄格子が嵌められた窓はある。
ならばやることは一つだ。
脱獄である。




