24.主犯
ガナン看守長は、激しい苛立ちのなかにいた。
あのお高くとまった聖女気取りの女医が赴任してきて以来、この監獄の空気は一変してしまった。
彼女の監視の目があるせいで、普段なら日常茶飯事だった「不条理な暴力での囚人への憂さ晴らし」すらまともに行えない。
そればかりか、中央の市長の娘である彼女に見咎められぬよう、自身が裏で横領し補給している特権的な高級物資(果物や葉巻など)を、自室で隠れて貪ることすら満足にできなくなっていた。
そして何より……今、この執務室で行っている極秘の作業こそが、最もあの女に知られてはならない致命的な爆弾だった。
「――オズレット。裏帳簿の書き換えの進捗はどうだ?」
ガナンは声を潜め、机に向かって神業的な速度でペンを動かしている若者に尋ねた。
「はい。看守長。何とか辻褄は合わせていますが……教団本部に提出する本帳簿との誤差を完全に埋めるには、まだ少々時間がかかりそうです」
オズレットは眼鏡の位置を直しながら、淡々と、しかし完璧な手際で書類を処理していく。
この監獄島で最も露見してはならない不正。
それは、王国や教団から支給される莫大な運営資金を、ガナンと一部の幹部たちが組織的に横領しているという事実だった。
国家に対する明白な反逆でありながら、それが未だに中央へ露見していないのは、偏にこのオズレットという男の天才的な会計手腕のおかげだった。
囚人でありながらこの大罪に加担しているオズレットにとっても、これは自らの命綱だった。
ガナンの弱みを握ることで、自分自身だけでなく、独房にいるモルフィの元へも、看守の目を盗んで栄養価の高い最高級の食事を「合法的に」横流しさせることができているのだから。
「むっ……ガナン看守長。少々、不審な項目を見つけたのですが、お聞きしても?」
オズレットの手がぴたりと止まり、一枚の古い公文書を指差した。
「なんだ?」
ガナンが背後から覗き込む。
「この、市から定期的に振り込まれている『麻薬被害特別手当』という名目の資金ですが……これは一体何ですか?」
「ああ、それか」
ガナンは忌々しげに鼻で笑った。
「王宮と市が共同で設立した基金さ。
あの魔薬とやらのせいで、職や家庭を失って自暴自棄になり、この島へ流れてきた哀れな受刑者どもに対して支払われる、ある種の助成金だ。
まぁ、そのほとんどは一時的にこの監獄島に入っているわけだがな」
その言葉を口にした瞬間、ガナンの脳内で、澱んでいた悪知恵の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。
魔薬。被害者。そして、この監獄島に収監されている数千人の飢えた荒くれ者ども。
彼らの多くは、大陸を揺るがしたあの魔薬によって人生を狂わされ、すべてを失ってここに辿り着いた連中だ。
もしも……その元凶であり、魔薬を大陸全土に蔓延させた張本人が、自分たちのすぐ隣で、看守長並みの極上の贅沢を貪っている「モルフィ」というガキだと知ったら、奴らは一体どう動くか。
看守が直接手を下す必要すらなくなる。
あいつを、この監獄島にいる全受刑者の「共通の敵」にする方法。
それも、あのソフィア女医に一切の疑いを持たせることなく、囚人同士の『正当な私刑』という形で合法的に圧殺する完璧な計画。
これしかない。
「……看守長?」
ガナンが突如として不気味な沈黙に陥ったため、オズレットが怪訝そうに、不安を孕んだ声で見上げてきた。
「あ、ああ……気にするな。ただの酷い眩暈だ。
最近は色々と、頭の痛い問題が多かったからな」
ガナンはオズレットから視線を逸らし、冷酷な歓喜で震える手をポケットへとねじ込んだ。
最高の着想だ。
あのクソガキを骨の髄まで嬲り殺しにするための、最悪のカウントダウンを始めるための行動を、ガナンはその歪んだ脳裏で克明に描き始めていた。
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結局、カルテラの右目を抉り取った騒動から三日目の朝、モルフィは再び独房から出ることを許された。
看守長が仕組んだ見せしめのための、二度目の釈放だった。
おそらくまた何か狙いがあるのだろう。
だが、気にすることはなかった。
それは自らがある程度強者であることを自覚したからだ。
モルフィは重い足取りで、アンディの待つ大雑居房へと戻る。
「おう、アンディ。三日ぶりだな」
軽い調子で声をかけたが、アンディはモルフィの姿を視界に捉えた瞬間、まるで汚物か呪物でも見るかのように激しく顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように二段ベッドの上段へと逃げ込んだ。
壁に背を向け、完全に気配を絶とうとしている。
「なんだよ。つれねぇな。
そんなに俺一人だけ豪華な食事をもらっていたことが、そんなに気に入らなかったのか?」
モルフィがベッドの下から見上げると、アンディはゆっくりと這い出し、凍りついたような冷徹な目でモルフィを見下ろした。
その瞳には、これまでの怯えとは全く異なる、底知れない軽蔑と憎悪が宿っていた。
「……お前は、最低のクソ野郎だ」
アンディはそれだけを絞り出すように言い残すと、モルフィを置き去りにして、逃げるように一足早く食堂へと向かって行った。
食堂へ足を運ぶと、モルフィのテーブルには、看守長の悪意に基づいたあの「特別で豪華な食事」が相変わらず並べられていた。
しかし、その周囲のベンチに座る囚人は一人もいなかった。
それどころか、半径数メートルにわたって、誰も近付こうとしない歪な空白地帯が出来上がっている。
(……なんだ? 一体、何が起こっている?)
食堂のあちこちから、ひそひそという耳障りな囁き声と、肌を刺すような無数の視線がモルフィに集中していた。
「――おい。お前が、モルフィだな」
静寂を破り、一人の囚人がモルフィの前に立ち塞がった。
痩せ型で、どこか卑屈なネズミを思わせる風貌の男だった。
「なんだ? いきなり何の用だ?」
男は何も言わず、懐から一冊の古びた新聞紙を、モルフィの顔面へと乱暴に突き付けた。
「この国の中央から取り寄せた、記事だそうだ。
……ここに書かれていることは、本当か?」
文字を追うモルフィの視線が、ある一行でピタリと止まった。
そこには、禁忌の魔薬をアルター王国へと持ち込み、全土に流通させた主犯の名前が克明に記されていた。
さらにその下には、かつてモルフィを裏切った組織の仲間が、すべてを白状したという供述内容の見出しが、醜悪な文字で躍っている。
ガナンが裏で手を回し、意図的に囚人の間に流布させた「モルフィの正体」の証拠だった。
そしてそれはおそらく事実であった。
昔の仲間が自白したかどうかは知らないが。
ここで嘘を吐いて取り繕ったところで、これだけの証拠があれば何の意味もない。
モルフィは冷淡に事実を認めた。
「ああ、そうだ。俺がやった」
その瞬間、ネズミのような男の顔が、狂気的な歓喜によって歪なほどに吊り上がった。
「おい!! お前ら、聞いたかよ!! このガキだ!!
こいつがあの、俺たちの人生を、家族を、すべてを狂わせた魔薬を大陸に広めた張本人だぜッ!!」
男が食堂の天井を突き破らんばかりの声で叫んだ。
その叫びが、食堂を満たしていた一触即発の空気を完全に爆発させた。
コツン、と鈍い音がして、一台の硬いスープ皿がモルフィの額を直撃した。
「……いってぇな! なんだよ、てめぇらッ!!」
モルフィが頭を押さえて立ち上がったが、時すでに遅かった。
見渡す限り、食堂に集まった数千人の囚人全員が、狂犬のような、理性を失った純粋な敵意で目を血走らせていた。
ここにいる連中の大半は、麻薬によって破滅し、犯罪に手を染めて流れてきた被害者とその関係者だ。
彼らにとってモルフィは、人生を奪った悪魔そのものだった。
「殺せェエエエッッ!!」
「あのガキの肉を削ぎ落とせ!!」
地鳴りのような怒号と共に暴動が勃発し、食堂は一瞬にして血生臭い戦場へと変貌した。
四方八方から食器やベンチが飛び交い、獣の群れがモルフィ目掛けて殺到する。
だが、押し寄せる暴力の嵐の中で、モルフィの心を最も深く抉り、衝撃を与えたのは――。
「畜生……っ、畜生、お前さえいなければ……ッ!!」
群衆の隙間から、涙をボロボロと流しながら、憎悪に満ちた顔でモルフィに向けて必死に皿を投げつけてくる、
あの気弱な隣人――アンディの姿だった。




