23.なりたい
「――傷の治りが異様に早くなった、か。
なるほどな、手枷の呪詛によって外部への魔力放出が完全に遮断されている分、行き場を失った莫大なエネルギーが全て内側……細胞の超回復と代謝向上へと回っているのだろう」
最奥の面会室。アクリル窓の向こうで、バロミロはモルフィの身体に起きた変化を冷静に分析し、そう結論付けた。
この数ヶ月間、モルフィは毎週二回、この部屋でバロミロに魔力を吸い上げられる「ついで」に、その少なくなった分で悪魔のパスを通じて彼の頭脳から膨大な知識と経験をダイレクトに受け取り続けていた。
脳が焼き切れそうな情報量にも、モルフィの肉体は完全に適応しつつある。
「……なぁ、この『資産の譲渡』とやらは、あとどれくらいで終わりそうなんだ?」
「最短で見積もっても、あと半年というところだな。
だが、お前の中に眠るあの悪魔の器が想定以上に深すぎる。
まったく何と契約したんだ?
魔力の余剰分を吸い取って譲渡しているんだ。
すべてを注ぎ込むには、思ったよりも時間がかかりそうだ」
「チッ……早くここから出たいんだがな」
モルフィは手首の銀枷を忌々しげに睨みつけ、不満を漏らした。
だが、バロミロは諭すように昏い瞳を細める。
「そう急くな、小僧。
仮に今すぐここを力ずくで突破できたとしても、外は狂暴な海だ。
教団の軍艦でも強奪しない限り、大陸まで生きて辿り着けるわけがないだろう。
まずは牙を研ぎ、期を待て」
「……分かったよ」
渋々といった様子で、モルフィはバロミロの言葉を受け入れた。
魔力を吸われる心地よい疲弊感のなか、モルフィはふと、前々から気になっていた疑問を口にしてみた。
「なぁ、バロミロ。あんたが最初に悪魔と契約した時のこと、まだ覚えているか?」
「ああ。覚えているとも。忘れるはずがない。
……私は当時、しがない学生だった」
「……は? あんた、学校なんて通ってたのか?」
モルフィは思わず目を見開いた。
「そうだ。意外か?」
「まぁな……」
正直に言って、高等教育を受けるような人間が、後に大陸全土の裏社会を牛耳る伝説的なマフィアのボスになるとは、およそ想像がつかなかった。
モルフィは怪物の意外な人間臭い歴史に、素直に驚いていた。
「お前が期待するような、高尚で深い歴史があるわけではないさ」
バロミロは自嘲気味に葉巻の煙を吐き出した。
「ただの、よくある話だ。
当時の私は、周囲の出来のいい連中から執拗に虐められていてな。
そいつらへの凄惨な仕返しを陰鬱に画策している最中、偶然にも、当時の大学教授がオカルトじみた『悪魔召喚』の研究をしている現場を目撃してしまった。
私は迷わずその術式を盗み、闇の底にいた奴と契約した。
それだけのことさ」
バロミロは遠い目をしながら、言葉を続ける。
「あとは簡単だ。仕返しの一環として、小賢しい虐めっ子どもを少しばかり懲らしめようとしたら……手加減を誤って、全員まとめて肉塊に変えてしまった。
国家から追われる身となり、この裏社会へ逃げてきたに過ぎん」
バロミロの凄絶な過去を聞いても、モルフィの心は一塵も揺らがなかった。
むしろ、冷酷なまでに当然の理屈として、それを鼻で笑い飛ばした。
「……別にいいんじゃねぇの。
先に仕掛けてきたのは向こうなんだろ?
殺された方が悪いだろ、そんなの」
「ハハハッ!! 違いない! ――全くだ、お前も俺も、根っからそういう性質の人間というわけだわな!」
バロミロはアクリル窓の向こうで、我が意を得たりとばかりに高らかに笑った。
だが、その豪快な笑い声が、唐突にピタリと止まった。
怪物の瞳から一瞬で温度が消え、鋭い視線がモルフィの背後へと突き刺さる。
「……小僧。お前、今日ここに誰か『来客』を連れてくるような手筈にしていたか?」
「は? 何言ってんだ。
少なくとも俺側からは、そんな面倒な真似は頼んでねぇよ」
「……だよな」
バロミロの低い呟きと同時に、モルフィの背後の重い鉄扉が、厳重なロックを解除されてゆっくりと開け放たれた。
「――っ、何……これ? 一体、ここで何が行われているの……!?」
静寂に包まれた秘匿の面会室に、あまりにも場違いな、高く澄んだ悲鳴のような声が響き渡った。
そこに立っていたのは、手帳を片手に持ち、信じられないものを見るように激しく目を見開いた――ソフィア女医だった。
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「――なぜ、あの部屋にあなたがいたの? 説明しなさい、モルフィ君」
診察室に連行されたモルフィに対し、ソフィア女医は母親が我が子を窘めるかのような、酷く場違いな説教の口調で問い詰めた。
「なぜって……俺はバロミロと、月曜日と木曜日のあの時間に、あの部屋で会う約束をしているだけだ」
椅子に深く腰掛けたモルフィが、至極当然のように淡々と答える。
その悪びれない態度に、ソフィアは深く、誇張したため息をついた。
「あのね。あなたが裏でどういう不条理な根回しをしたのかは知らないけれど、独房に特別収監されている最重要罪人と、他の囚人がむやみやたらに密会してはいけないの。
それは絶対に許されないことよ」
「どうしてだ?」
「どうしてって、あなた……それがこの監獄の『ルール』だからに決まっているでしょう?」
ソフィアは当然の常識を説くように胸を張る。
だが、モルフィの濁った瞳は微塵も揺るがない。
「じゃあ、どうして俺が、そのルールとやらを守らなければならないんだ?」
「あなた……一体何を言っているの……!?」
ソフィアの美しい顔が、驚愕と理解不能な恐怖で引きつる。
社会の法と規律の中でしか生きてこなかった彼女にとって、モルフィの根本的な超法規的思考は、まるで異世界の言語を聴かされているかのようだった。
「――ソフィア先生」
その問答を見かねて、後ろに控えていたガナン看守長が、ソフィアの白衣の肩をそっと掴んだ。
「そのへんにしておきなさい。
言葉で説得しようとするだけ時間の無駄です。
法の価値も知らん、更生の余地もない獣なんですよ。
ここにいる受刑者という生き物は」
「……私の身体に、気安く触らないでください」
ソフィアはガナンの手を酷く冷徹に振り払うと、一瞥もくれずに再びモルフィへと向き直った。
その瞳には、歪んだ義務感と憐れみの光が爛々と輝いている。
「いい、モルフィ君。あなたにはまだ未来があるわ。
変わることができる。……でも、あのバロミロは違う。
あの男はね、この世界で最も重い『罪』を犯した、底の抜けた化け物なのよ?」
「一番の罪……?」
モルフィが退屈そうにオウム返しにする。
「貴族の殺害、そして――『王族』の虐殺よ」
ソフィアは世界の終わりを告げるかのように厳かに言ったが、裏社会の麻薬密売人として生きてきたモルフィには、その政治的な凄みが今ひとつピンとこなかった。
「この大陸において、王族の血筋というのは『王権神授』。
つまり、神聖なる神様から地上を治めるための命を受け、それを全うすることを至上命題とされた、神の代理人なのよ」
神、という単語に、モルフィの眉がピクリと不敵に跳ね上がった。
「彼らを殺害することは、世界を創った神の意思を、神そのものを殺すことと同義なの。
大罪人バロミロは、神への反逆者。
モルフィ君、あなたはそんな恐ろしい人間の影響を受けて、同じような怪物になっちゃ絶対にダメ」
ソフィアは心からモルフィの身を案じるように、熱を帯びた声で訴えかけた。
その純粋で、押し付けがましい「神聖」を正面から浴びせられたモルフィは、乾いた唇を釣り上げ、狂気的なまでの笑みを浮かべて言い切った。
「――神を殺せるってんなら、俺は今すぐにでも、バロミロみたいになりたい」
「っ…………!」
ソフィアはあまりの衝撃に言葉を失い、金魚のように口をパクパクと開閉させた。
彼女が大切に守ってきた信仰も、倫理も、世界観も、目の前の薄汚れた少年の一言によって無残に粉砕されたのだ。
「連れていけ」
ガナン看守長が冷酷に部下へ命令を下す。
看守たちに両脇を乱暴に抱えられ、モルフィは診察室を後にした。
去り際、モルフィは振り返ることすらもしなかった。
「……私の、聖導の力不足ね。
あの子の心の闇は、思ったよりもずっと深いわ。
もっと、もっと勉強しなければ」
ソフィアは悔しそうに拳を握りしめると、モルフィへの執着をさらに煮詰めるように、机に向かって心理カウンセリングの魔導書を狂ったように貪り読み始めた。
「……」
ガナン看守長は、目の前で聖女の皮を被った傲慢な怪物が、自らの「善意」を暴走させていく様を、ただ冷徹に、憐れみを含んだ瞳で見つめ続けていた。




