22.こんなところ
「――正直に申し上げまして、貴女のようなお方が自ら足を運ぶべき場所ではありませんよ、ここは」
総督府の執務室。ガナン看守長は、上質な陶器のカップに紅茶を注ぎ、目の前の女性へと手渡した。
白衣を纏った女医は「ありがとう」と微笑み、それを淑やかに受け取る。
カップを持つ指先の滑らかな動き、そして音を立てずに口を付けるその優雅な所作だけで、彼女が大陸の最上流階級――高貴な血筋の生まれであることは誰の目にも明らかだった。
「そうかもしれませんね。
ですがガナン看守長、監獄が社会において果たすべき真の役割とは、罪人をただ閉じ込めることではなく、彼らの魂を正しく導く『更生』にあるはずでしょう?」
「まあ……書類上、教本の上では、その通りですが……」
ガナンは力なく同意しながらも、中央の温室で育った聖女の戯言を真に受けているこの女に、激しい苛立ちと目眩を覚えていた。
(更生だと? 笑わせるな。
しばらくこの地獄の底を見ていれば、嫌でも理解することになるさ。
あそこにぶち込まれている連中が、神の慈悲も更生の余地も残されていない、根っからの人間のクズ、獣の集まりだということをな)
ガナンは内心で吐き捨てるように毒突いた。
彼女の名は、ソフィア・アンデルセン。
この辺境の監獄島にはおよそ不釣り合いな美貌を持つ彼女は、中央の厳格な修道院で育ち、さらにはこの地方一帯を統治する市長の実の娘でもあった。
あと一歩で中央貴族の列に加われるほどの、極めて太い名家の血筋である。
なぜ、これほどの高嶺の花が、呪われた犯罪者の島へ医療従事者として赴任してきたのか、ガナンには見当もつかなかった。
なぜなら、この島を統治する看守たち、そしてガナン自身も含めて、ここは中央の権力闘争に敗れ、中央から見放されて「左遷」されてきた落人たちの吹き溜まりなのだから。
ガナンは小さくため息をついた。
このお高くとまったお嬢様に隠しておかねばならない「教団の闇」が、この島には多すぎる。
第四使徒スタークの実父である大罪人バロミロの存在。
自分たち看守が裏社会の資金運用に手を染めている腐敗の現状。
そして、日々行われている囚人同士の凄惨な私刑。
それらがこの女の耳に入れば、中央の市長を通じて大問題になるのは火を見るより明らかだった。
(……いっそのこと、雑居房の凶悪犯にでも襲わせて、泣きながら中央へ逃げ帰らせてやるか?)
一瞬、そんな悍ましい短慮が頭を過ったが、ガナンは即座に首を振ってその思考を打ち消した。
市長は中央の枢機卿や貴族とのパイプも太い。
もし万が一にでも彼女の身に不祥事があれば、自分の首など簡単にギロチン台へ送られるリスクがあった。
「決めましたわ。私はまず、あの子から救い出すことにいたします」
思考に耽っていたガナンの耳に、ソフィアの鈴を転がすような声が届いた。
「あの子……? 誰のことです」
「ええっと、確か……蝶々のような、少し変わった名前の子だったかしら。……そうそう、モルフィ君です。
先ほど診察した、モルフィ君から聖導の光を当てて救いましょう。
あの子のあの頑なな瞳……彼ならきっと、私の言葉を理解してくれるはずだわ。
ガナン看守長、彼の経歴が記された公式資料をいただけます?」
「……」
ガナンは苦虫を噛み潰したような、酷く歪んだ表情を浮かべた。
モルフィ。
先ほど食堂でアリババ盗賊団の大男の目を躊躇なく突き刺した、あの狂犬のどこをどう見れば『救える子供』に見えるというのか。
だが、ガナンは拒否することもできず、スタークによって「悪魔付きの疑い」の項目を完璧に消し去られた、あの改ざん済みの偽造書類を彼女へと差し出した。
「ありがとうございます」
ソフィアは満足そうに微笑むと、紅茶を片手にその資料に目を落とした。
「あらあら……まぁ。本当にかわいそうに。数年前に故郷の農村を国の一味に襲撃されているのね。
……やはり、彼がこれほどの罪を犯すに至った背景には、彼なりに追い詰められた悲しい理由があったのですわ。
更生への第一歩は、まず彼のその心の傷を、私たちが正しく理解してあげることから始まります」
ソフィアは深く同情の涙を浮かべながら、資料の内容を、持参した革張りの手帳へと熱心に書き写し始めた。
(……反吐が出るほど馬鹿馬鹿しい)
書類に書かれた農村の悲劇など、モルフィという大悪党の「本性」を隠すための薄っぺらい建前に過ぎない。
本物は大陸を麻薬で汚染した化け物だ。
ガナンはこれ以上、このお嬢様の傲慢な善意に付き合う気力を失い、何も言わずに無言で部屋を後にした。
背後では、何も知らない聖女が、狂犬の牙を抜くための幸福な妄想に耽り続けていた。
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「――馬鹿馬鹿しい。実に、反吐が出るほど馬鹿馬鹿しい」
執務室を出たガナンは、廊下を歩きながら激しい苛立ちと共にそう吐き捨てた。
あの甘ったれのお嬢様医者の綺麗事にこれ以上付き合っていれば、こちらの脳まで腐ってしまいそうだった。
ガナンは数人の武装看守を背後に従えると、そのまま重い足取りで、狂暴な「アリババ盗賊団」の残党たちをまとめて隔離している、地下の頑強な特設檻へと向かった。
鉄格子の奥には、先ほど食堂でモルフィに凄惨な反撃を食らい、文字通り血の海に沈んだあの大男が横たわっていた。
確か、名前はカルテラといったか。
その顔面は原型を留めないほどに紫色に腫れ上がり、モルフィの皿の破片によって抉り取られた右目には、べっとりと血の滲んだ包帯が痛々しく巻かれていた。
「おい、カルテラ。怪我の具合はどうだ」
ガナンが鉄格子の前から冷淡に声をかける。
「……死んじゃいねぇよ。……それより、あのクソガキはどうした」
カルテラは残された左目を血走らせ、怨念の篭った低い声で唸った。
その眼光には、一切の衰えを見せない剥き出しの殺意が宿っている。
もっとも、先に仕掛けたのはカルテラ側であり、完全に逆恨みもいいところなのだが、この男にそんな理屈が通じるはずもなかった。
「案ずるな、あのガキならまた暗黒の独房へ引きずり戻してやった。
今頃は五感を奪われ、恐怖で泣き叫びながら、母親の名前でも呼んで床を這い回っているさ」
ガナンがそう吹き込むと、カルテラの変形した顔が、歪な歓喜によって醜く歪んだ。
「――ときに、お前たちに一つ、やってもらいたい仕事がある」
ガナンは声を潜め、周囲の看守たちにも聞こえぬようなトーンで鉄格子に顔を近づけた。
「ただし、極めてデリケートな仕事だ。
こちらの立場としても、中央に露見するような面倒事は絶対に避けたい。
……確実に、口を割らずにやり遂げると約束してくれるか?」
ガナンが懐から取り出し、机の上に置いたのは、一個の瑞々しい熱帯の果実――黄色く熟れた「パイナップル」だった。
島を包む饐えた悪臭を切り裂くように、濃厚で甘美な香りが檻の中に漂う。
カルテラをはじめ、檻の奥にいた盗賊団の男たちの目が、一斉に獣のようにギラついた。
毎日泥のようなスープしか与えられていない彼らにとって、それは理性を容易く消し飛ばすほどの、神の果実にも等しい贅沢品だった。カルテラがゴクリと、貪欲に唾を飲み込む音が静寂に響く。
「……報酬は、なんだ?」
「お前たちがこの仕事を完璧に成し遂げた暁には、これが倍の量になる。……これは、そのための前払いだ」
ガナンは不敵な笑みを浮かべると、そのパイナップルを鉄格子の隙間から、檻の床へと無造作に転がした。
「やってくれるな?」
カルテラは床に転がったパイナップルへ泥塗れの手で飛びつくと、皮を剥くことすらもどかしいと言わんばかりに、まるで主人の機嫌をとる犬のように貪欲に噛み付いた。
溢れる甘い果汁を顎から滴らせながら、残された一本の目を狂気的に光らせる。
「――なんなりと。あのガキの首を引きちぎるためなら、悪魔に魂だって売ってやるさ」




